03
 女子更衣室で会話が飛び交う中、やや気まずい思いをしてひとりで着替えていると、由比が寄ってきた。
「ね、白凪さんってお家どこなの?」
「あ、わたしは電車なの」
「あーそうなんだ。一緒に帰れたらと思ったんだけど」
 誰とも打ち解けていない刹那を気遣ってくれたのだろうか。胸がほわっと温かくなる。
「由比さんはどこなの?」
「私××の方!駅と正反対だからさー。いつも精市と弦と帰ってるんだよね」
「精市?弦?」
「あ、幸村と真田!呼び方ちっちゃい頃のがクセになっちゃってて」
「仲がいいんだね」
「腐れ縁ってだけだよ〜」
 ヒラヒラ手を振って由比が笑う。幼馴染なのは有名だが、刹那は「あー」と思った。たぶん、こういうところがファンの気に食わないのかもしれない。
 刹那は幸村も真田もどうでもいいから何も思わないが、好きな男のそばにいて欲しくないと思われそうなタイプだなと冷静に分析する。

「残念、じゃあまた明日部活でね。入部届けは私から精市に渡しとくね」
「ありがとう」

 着替え終わり、携帯を見ると仁王からメッセージが来ていた。
『終わったか?』
 ついさっき送られてきたようだ。首を傾げて返信する。
『何が?』
『片付けとか』
『終わったよ』
『東門にもうおる』
『え?一緒に帰るの?』

 約束していなかったから、メイクも髪も何もしていない。テキパキ返ってきていた返信が少し止まり、しばらくしてピコンと鳴る。
『どっちでもええけど』
 なんだそりゃ。
 刹那だってどっちでもいいけど……。
『まだ髪とか準備してないから、ちょっと待ってて』
 そう送って、刹那はどうしようか考えた。部室棟の近くのトイレから行ったら、仁王の彼女が運動部関係だとバレてしまう。ファンは目ざといから。
 早めに言ってよね、と思いつつもいい機会ではあった。
 部活に所属するなら、できるだけ仁王との恋人ごっこの上手い両立の仕方を考える必要がある。

 刹那は「お疲れ様です」と更衣室を後にした。小さな返事がポツポツ返ってくる。馴染めてはいないが、無視されないだけマシだろう。
 ウロウロしながら、やがて刹那は2号館の方に向かった。高校生が使用する棟だが、制服は共通だし、校舎内はあまり人がいない。
 うん、誤魔化すのに良さそうな気がする。
 1階のトイレに入り、前髪を上げて、口紅だけ塗った。
 後で部室棟から2号館への、人にあまり見られなさそうな道筋を探そう。
 上手く行けば仁王の彼女が高校生だと思ってもらえるかもしれない。

 2号館から東門に行くと、既にほかのテニス部は帰ったようだった。小走りで駆け寄る。
「ごめん仁王…雅治くん。待たせちゃった」
「いや…約束しとらんかったしのう」
「だよね?忘れちゃってたのかと思った。どうしたの?女子に囲まれた?」
「プリッ」
 仁王は鳴き声を発した。答える気がないらしい。気まぐれだろうか。
 それなら別にいいやと刹那は気にせず腕を組む。

「部活入っても曜日は月金か?」
「そのつもりだったけど、変えた方がいい?」
「いや…かまんぜよ」
「おけ。必要だったら今日みたいにいつでも呼び出してね」
「おん」
「あー、でもさ、思ったけどテニス部って全然休みないでしょ?」
「そうじゃのう」
「なのにミーティングだけで終わる月曜日でいいの?今更だけど…今日話聞いて気付いたんだよね。火曜日の方が良くない?」

 せっかく部活が早く終わるというのに刹那の相手をするなんて御免だろう。テニス部のスケジュールを知らなかったから気づかなかった。
 友達とどこか寄って帰ったりとか、きっとしたかっただろうに申し訳ない。
 だが、仁王は飄々とした横顔で首を振った。
「かまわんよ。月曜はむしろ、早う終わるのがバレとるから女子に誘われるのが増えるんじゃ」
「あー……」
「丸井は気が向けばカラオケだの行っとるみたいやがの」
「ぽいねー」

 仁王がチラリと刹那を見下ろしたのが影の動きで分かった。
「丸井が、真面目そうじゃんって言うとったぜよ」
「…?わたし?」
「ああ」
「そうなんだ」
 印象は悪いというわけでもなさそうだ。まぁ、よく知らない相手の感想を言うなら、見た目か、見た目にコメントがないなら、そんな無難な印象になると思うが。
「ちょい地味なのを残念がってたけどのう」
「まあ、この見た目ならねー」
 当然の反応だろう。刹那は軽く笑ってテキトーに返した。仁王に観察されている気配を感じ、顔を上げて不思議そうに見上げる。
「なに?」
「いや…残念じゃのう。まだ縁は出来なさそうじゃ」
「……??何が?」
「丸井と」
「丸井くん?縁?」
 ますますわけが分からない。心の底から疑問符を浮かべる刹那に、仁王の方が戸惑った顔をした。
「言うとったじゃろ」
「何が?」
「縁が出来れば自然と仲良うなるって」

 そんなこと言ったっけ?
 首を捻って「あぁ!」と思い出す。そういえば以前、和室で写真を見せてもらった時にそんな話をした気がする。
 思わず刹那は発作的に笑った。
「まだ丸井くんのファンだと思ってたの?」
「違うんか?わざわざテニス部に入ってまで、熱烈じゃと思っとったけど」
「それもうストーカーじゃん!仮に丸井くんのファンだったとしてもそんなことしないよ。練習すら見に行ったことないのに」
 刹那はアハアハ笑った。そんな勘違いをされていたのを思い出した。
 たしかに、ファンではある。丸井じゃなくて柳蓮二の。
 でも、柳のことはすごくすごく好きだけれど、わざわざ見学に行ったりしない。テニスが強いからじゃなく、柳の内面を好きになったんだからテニスは関係なかった。

「じゃあなんでマネになったんじゃ?」
 至極釈然としなさそうに言われて、刹那の方が驚いてしまった。
 え、まさか本気で丸井と縁を作るためにマネにまでなったと思われていたのだろうか。
 でも、前永絵麻がテニス部のファンで、彼女が続かなかったマネージャーを続けて、レギュラー陣と仲良くなっているのを見せつけて悔しそうにする顔を見たい……だなんてことを言えるわけがないし、そんな理由だと思うわけもないだろうし、それなら誰かのファンだという理由の方がよっぽど簡単で聞こえがいい。筋道も通る。

 だから刹那は、仁王の視線から逃れて前を向いた。
「うーん、丸井くんのファンだからかな」
「俺をペテンにかける気か?」
「えー、本気本気」
「丸井の誕生日は?」
「……あー…春…だよね。たしか進級してすぐ騒いでたから…4月?」
「日にちは?」
 知るわけないじゃんそんなこと。
 肩を竦める刹那に仁王は次の質問を繰り出す。
「じゃあ血液型」
「知るかよ!」思わず本音が飛び出す。「うーん、O型?」
「B型じゃ」
「うわっ似合うね」
「兄弟構成」
「そこまで知ってたらストーカーでしょもう」
「丸井は公言してるぜよ」
「そうなんだ」

 まぁ、そんなこと言って刹那は公開されている柳のプロフィールは全部覚えているのだが。でも柳以外の男に興味はないので知らない。
 柳は三次元の「推し」なのだ。

「やっぱ興味ないんじゃろ」
「いやいやー、そういうフリしてるだけかも」
「もう通らんって。じゃあ、俺の誕生日は?」
「え?」
「俺の誕生日」
 それこそ知るかよ……。どういうつもりなのか半目でジトッとした視線を送るが、仁王は試すような目で見下ろしてくる。
「はよ答えんしゃい」
「えぇ…たしか冬休み前だよね?じゃあ12月?」
「何日」
「知らない」
「4日ぜよ」
「へー」
「どうでも良さそうな声じゃの」
「ごめんごめん」
「血液型」
「それは分かる!絶対AB型!」
「なぜ即答」
「当たってた?だって言動がいかにもそうだもんね」
「そうか?」
「そうだよ」
「馬鹿にしちょるじゃろ」
「してないしてない」

 軽い返事をして笑っていた刹那は、「あ!」と明るい声を上げた。
「コンビニ寄りたい!」
「おー」
「さすがに疲れたー。おなかすいた!」
「珍しいのう。ま、今日は初出勤じゃからな」
「出勤って。労働という意味ではあってるけど」
 仁王と寄り道するのはたしかに珍しいというか、初めてだ。別に刹那は買い食いしないわけじゃないけど、仁王といる時はさっさと帰りたかったから。
 でも今日は慣れないことをしてお腹が空腹を訴えている。
 家に帰れば祖母が待ってくれているけれど、コンビニの誘惑には抗えず、明るい店内に足を踏み入れる。

「仁王くんもなんか買う?」
「奢ってくれるんか?」
「えー、まぁ別にいいけど」
「ええんじゃ」
「たまにはねー」

 刹那は視線をうろつかせながら、カゴにスイーツを入れた。あとは、すぐ食べれるもの…レジの前のフードコーナーを眺める。
「決まった?」
 ドリンクを眺めている仁王に後ろから声をかけると、彼はお茶を持って振り返った。
「それだけ?」
「おん」
 お茶の蓋には犬のキーホルダーが付録としてついている。
「かわいい〜お茶しばだっけ」
「お茶犬じゃ」
 即訂正されてまじまじと仁王を見上げた。
「こういうの好きなの?」
「かわええじゃろ」
「うん。犬派?」
「いや、俺が」
「何を言ってるの?」
 真顔になって言うと、仁王が小さく吹き出す。彼の冗談は唐突だし、わけが分からない。
「付録の玩具とか無性に欲しくならん?」
「ならない…かな…」
「なんじゃ、遊び心がわからん奴じゃのう」
 つまらなそうに言われるけど、ごめん、分からない。でも付録のオモチャで遊んでいる仁王はすごくイメージに合う。パッチンガムとかシャボン玉とか好きだもんね。

 仁王のお茶を一緒に買い、レジ前のドーナツを頼んでコンビニを出る。
「はい」
「ええの?」もう買ったのにまた聞いてきた仁王に、変なところで律儀な奴だなと刹那は笑う。
「100円ちょっとなんか奢ったうちに入らないよ」
「そんなら遠慮なく。それ食って帰る?」
「そだね、食べたい」
「公園寄ってくか」
「うん。でも見てるだけって退屈じゃない?仁王くん帰ってもいいよ」
「なんじゃ、分けてもくれんのか。食い意地張っとるのう」
「あっ、図々しっ。ちょっとだけね」
 軽く辛辣に返したが、刹那が待たせることを気にしないよう、そんなことを言ったのは分かっている。たぶんもう暗いからいつも通り駅まで送ってくれるんだろう。
 仁王は、初対面の時に感じた女嫌いの片鱗はあるくせに、紳士だ。柳生と仲がいいからだろうか。それとも優しいからだろうか。

 少し砂のかかったベンチに座る。キイキイと錆びた金属の擦れ合うブランコの規則正しい音が、静かな公園に落ちる。
 橙の無機質に点滅する光がぶらんこや滑り台や砂場を照らしていて、1人だったら怖くなりそうだった。けれど隣に仁王がいる。
 袋から買ったばかりのドーナツを取り出した。迷ったけれど、王道のオールドファッションだ。それからドーナツは水分が奪われるからカフェラテにもストローを刺す。

 一口頬張る。うん、無難に安定の美味しさだ。
 ほっぺたが落ちるとうっとりするほどじゃないけれど、外れがない正統派の長く愛される美味しさ。このサクサクとした食感が好きだった。刹那はドーナツはしっとりよりサクサク派だ。
 新作のカフェラテも甘みが強くて「あ、美味しい」とつぶやいた。
 疲れた体に糖分が染み渡る。

「美味い?」
「うん。食べる?」
「おん」

 口をつけていない部分をちぎろうとした刹那の手を、仁王の手が覆った。目を瞠って固まった刹那のそばに、整った顔が近づいて、目の前で仁王がドーナツを齧る。
 薄い唇が開いて白い歯がチラリと見えた。歯並びがいい。伏せた睫毛に電灯の光が乗っている。銀髪が頬を掠めた。
 触れられている手のひらが節ばっていて、細いけれど、長くて男の子なのがよく分かった。生ぬるい。吐息まで聞こえる。
 暗闇の中で、仁王が目を見上げてきた。
 野生の獣を思わせる鋭さと、面白がるような色っぽい眼差し。
「……久しぶりに食うと美味いのう」
 刹那はその目に縫い止められたように動けないまま、吐息のような声で言った。
「ち、ちかい」
「なんじゃ、こんくらいで照れとるんか」
「ちかい」
 クツクツ笑って仁王がようやく離れていき、手を離した。

「顔が赤いぜよ」
 そう指摘され、自分の頬を触るとたしかに熱かったが、頬に触れた自分の指先はやはり、氷のように冷たい。
 心臓が緊張と羞恥と嫌悪で壊れそうな程に躍動している。息が上がりそうになる。
 刹那は手のひらを握りしめ、仁王から距離を取った。彼が笑う。黙れ!
 自分の身体なのに、石のように固まっていて動かすのが困難だった。耳鳴りがする。
 バレないようにとか、もう気にする余裕がなく、刹那は深く深く深呼吸をする。

「大げさじゃのう」
「あのね!わたしは仁王くんと違って経験値がないの!彼氏出来たこともないし!」
「は?」
 鳩が豆鉄砲を喰らったように素っ頓狂な顔をする仁王に、しまったと刹那は顔を歪めた。口を滑らせた。
 開き直ってつっけんどんに睨む。
「なに?出来たことなかったらおかしい?」
「いや…おかしいっちゅうか…なのに恋人ごっことか言い出したんか」
「必要だったからよ!」

 クソっ。自分のプライベートな情報なんか明かすつもりはなかったのに。
 プリプリ怒りながら、仁王が口を付けた部分をちぎり、仁王に突き出す。
「なん?」
「わたし回し飲みとかムリなタイプ!」
 彼の手にむりやり押し付けると、怒りと羞恥のままにバクバク頬張った。最悪!もう全然美味しくない!
 悔しいのは、たしかに奴に照れたことだ。
 気持ち悪いし、怖いし、逃げたかった。けれど仁王は悔しいが、とてつもなくカッコイイし、タイプの顔をしている。
 好みのイケメンにあんな至近距離で見つめられて照れてしまったのが本当に……クソ!
 羞恥と照れと嫌悪が渦巻いて、顔が熱いのに身体は冷えて、ぐちゃぐちゃだ。まだ心臓がバクバクしていて、ゆっくりと恐怖が巡っている。
 もしキスされていたら……刹那は動けなかった。
 油断していた。
 最悪……もう、最悪!
 心の中で叫ぶ。

 刹那は、震えそうな身体を、怒りを燃やすことで保っていた。

「帰る!」
 食べ終わり、勢いよくカフェラテを飲むと、公園のゴミ箱に八つ当たりのようにゴミをバコン!と投げ捨てる。
 心臓を抑え、もう一度深呼吸をして、なんとか刹那は冷静さと余裕を取り戻そうとした。涙は浮かばないけれど、死ぬほど悔しくて、ムカつく。なんでこんなにムカつくのか分からない。
 仁王が着いてきているのは分かったが、刹那は振り返らず早足で歩いた。

「のう」
「……」
「置いて行かんでもええじゃろ」
「……」

 仁王がため息をついた。それが呆れを含んでいるような気がして、ますます頭に血が上る。
 無視して歩きながら、刹那はぐるぐる考えていた。
 最初の方にも、仁王に嫌悪と恐怖を感じていたことがあった。その時は、余裕を取り繕う余裕があった。でも、今はない。
 その違いがどこにあるのか、刹那は認めたくなかったが、本当は分かっていた。

 油断していた。
 仁王が誰とでも寝る可能性がある男だと知っていたのに、契約があるからとタカをくくっていた。そのタカは、甘えになっていた。
 刹那は……認めがたいが、仁王にどこか甘えと期待があった。

 ムカつくのはその期待を裏切られたからではなく、男なんかに心の防御癖を緩めた、自分自身の甘さにだった。
 もう二度と、油断なんかしない。絶対に!

 駅に着いて、仁王がまた後ろから声をかける。
「ちょっとしたからかいぜよ。そこまでウブだとは知らんかったんじゃ、悪かったの」
「──ううん」
 振り返り、刹那は綺麗な微笑みを浮かべた。仁王が目を丸くし、すぐに怪訝そうに眉をひそめる。ニコニコと機嫌よく、愛想良く刹那は外行きの声で言った。
 出会った時の刹那は、こうだった。
 いつの間に仁王なんかに自分を見せられるなんて思っていたんだろう。
「ごめんね、びっくりしてちょっと素っ気なくしちゃった」
「…どういう心境の変化じゃ?さっきまであんなに怒っちょったのに」
「最初から怒ってないよ。驚いただけ」
「……」
「それじゃ、送ってくれてありがとう。仁王くんも気をつけて帰ってね」
「おい、待ちんしゃい」

 追いかけてくる声を振り切り、刹那は改札に入っていく。
 気を抜いた自分が許せない。

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