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14歳のある日のことだった。
顔面を覆う黒光りするマスクに、艶のある光沢のスーツを纏った先生が、カウンターに座りながら刹那を穏やかに見下ろしている。刹那はどんぐりまなこをピカピカさせてTVを食い入るように見つめていた。
「決まったかい?」
「はい。最初から決めてました……」
小さな、しかし決意を秘めた声だった。
画面には女性ヒーローが映っている。
YouTubeをTVに繋いで彼女の一挙一動を逃さぬよう巨大なまなこをグリグリ開いて刹那は視線で追う。そのヒーローの名は「ーーーー」。
今は歳をとって落ち目だが、昔は美貌で人気のあった現役プロヒーローだ。支援を得意とし、サイドキックとして数々の活躍を誇る。
刹那はネットに上がっているそのヒーローの動画を、何十回、何百回、何千回と繰り返し見た。いくら見ても飽きなかった。完璧に動画を覚えてもなお、また繰り返し見て、脳内で彼女の攻略と対策を研究しているのである。
先生は刹那の返事に鷹揚に頷き、ニコ、と機械的に音を立てて満足気に笑う。酷く無機質で冷たい、人間的な笑み。
刹那は黒霧に協力してもらいながら、何ヶ月もかけて準備をしてきた。
ーーーーの報道をかかさず見て、活動区域での速報があればワープして現場に駆けつけ、群衆に混じって彼女の戦い方をジッと目に焼き付ける。
後をつけて自宅を突き止め、時間をかけて行動範囲とスケジュールを把握し。
そして今日、ついに満を持して「初陣」というわけであった。
「い。行ってきます」
緊張で真っ白くなった指先にクッと力を込め、服を握り締めながら固い声を出す刹那に、先生が柔らかく言う。
「ああ。行っておいで。失敗を恐れずに好きなようにやるんだよ」
内心は愉快でたまらない気持ちだったが、安心させるドッシリした声音を出すと、刹那は面白いくらい狙ったとおりに安心した顔をする。
あんまりにも優しい声に丸い息を吐き、頷いて、「きっと成功させます……もらった力で……」と決意を秘めた目をする。
先生は本当にどちらでもかまわなかった。
元々無個性で戦闘のせの字も知らない彼女に実践での期待はしていなかったのだし。彼女の役割は他にある。
しかし役に立ちたいといきなり過酷な訓練を始め、ゲロまみれになりながら体づくりを行う彼女に、それならばと気まぐれで"個性"を与えてみれば、先生の思惑以上に刹那は"個性"に適合し、使いこなし始めていた。
今日の初陣も失敗して当然、ダメならやり直し、成功ならそれはそれで儲けもの。結果は特に重要ではない。
先生にとっていちばん愉快なのは、刹那が最初の「殺し」のターゲットにーーーーを選んだことだった。
この巨悪は呪縛から解き放たれようとしている刹那に大変な満足感を覚えていた。無害な被害者だけの存在ではなくなること以上に、面白い成長であった。
だから先生は「期待しているよ」と優しく声をかけてやる。
刹那はビクリと肩を揺らし、不安と喜びの綯い交ぜになった顔で先生を見上げる。プレッシャーに潰されそうなのに、その言葉だけで心臓が激しく鼓動し、活力が湧いてくる。
誰かに期待され、失敗してもいいんだよと言ってくれる人は人生で初めてだから。
そうしてまんまと先生の分かりやすい飴に乗って、緊張した顔をして黒霧のワープで、ーーーーのいる街まで飛んで行った。
刹那は合流ポイントを確認して黒霧と別れ、変装してフードを深く被って闇に潜む。黒霧は実務で役に立つか見定める役割も担っているのだろうと刹那は睨んでいた。
そして別れた黒霧はといえば。こっそりとビデオカメラを回し。バーに映像を送っていた。
カウンターで死柄木が刹那の痴態をツマミに酒を煽ってやろうと、グラスを持って「カカカ」と笑っていることなんて知らず、黒霧と先生が手を組んで親心とエンターテインメントとして動画を撮っていることなんて知らず、ひとり悲壮に覚悟を決め、キュッと唇をすぼめるのだった。
ーーーーはそろそろ引退を考えているのか、ここ2年ほどは直接現場で戦闘に出るよりも、事務仕事をする時間が長くなっているようだった。
すっかり暗くなった19時過ぎ。都会の喧騒のある裏路地ではなく、ヒーローの駆け付けにくい、分かれ道の多い住宅街を刹那は現場に選んだ。監視カメラもない。
戸建てやアパートがある雑多な住宅街は静かなのに賑やかだった。夜ご飯の匂いが漂い、人々の笑い声や子どもの泣き喚く声、怒鳴る誰かの声、光が窓からちらちら漏れて、密やかなのに音が途切れない。
家庭の音と匂いがする。
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女はスーパーでテキトーに余り物の惣菜と野菜と麦茶の素とストロングゼロを買ってヨロヨロ歩いていた。30代の半ばを越え、バツイチでプロヒーローを続けるのは肉体的にも精神的にもしんどいものがあり、事務に転向するに当たって毎日勉強の日々だった。
恋人はいるが結婚する余裕は今はない。そう言いながら2年経った。家が近いから逆に同棲のタイミングがなく、お互いひとり暮らし。
ぐったりとしながら他人の家のカレーの匂いを嗅いで、人が作ったご飯が食べたいわね、と疲れた頭で思う。
ふと、向こう側から女の子が歩いて来るのが見えた。黒パーカーのフードを目深に被り、プリーツのミニスカートとハイソックスを被った女の子。フードの頭の部分がモコっと膨らんで浮かんでいる。多分異形型の"個性"だろう。
女の子はーーーーを見て、小さくペコっと頭を下げた。
「こ……こんばんは」
今時都内の小学生も挨拶なんてしない。ーーーーは面食らって、でもすぐに笑顔を浮かべて返す。
「こんばんは。挨拶出来てえらいわ。でもこんな時間まで出歩いちゃダメよ」
女の子は幼く、まだ中学生くらいだった。雰囲気は落ち着いているけれど、顔立ちはあどけなく、小学校をあがったばかりくらいにも見える。
すれ違おうとするが、女の子は立ち止まってーーーーを見つめる。
「……どうかした?」
戸惑って優しく声をかける。女の子は「ーーーーですよね。いつもニュース見てます……」と言った。
若い子にも知名度があったことが嬉しくて、ーーーーは瞬きして「あら」と破顔した。
「知っててもらえたなんて。ありがとう」
「少し……お話とか出来ませんか?」
指先を擦り合わせる女の子は僅かに緊張しているように見えた。女は迷って、けれども自分のちいちゃなファンがいじらしくお誘いしてくれたのが嬉しく、「ほんの少しだけよ。その後お家に送り届けるわ」と肩を下ろして微笑んだ。
萎えていた心が浮上して、こういうのも良いか、と思えたのだ。
2人は近くの公園のベンチに腰を下ろした。
遊具はブランコと鉄棒と錆びた滑り台しかないウラ寂れた公園で、滑り台の影のベンチは外からの視界を遮るように置いてあった。
人のざわめきが少し遠くなる。
冷たい風がヒュウッと2人の間を通り過ぎた。女の子は落ち着かなさそうに隣に座るーーーーを見て、視線を伏せた。
「ただ話してみたいってだけじゃないみたいね。ヒーローになにか相談したかった?」
「……」
「ゆっくりでいいのよ」
「……話してみたかったんです」
「わたしと?」
「うん……。色々話をして、自分がどう思うのか……」
女の子はそれきり黙り込んだ。
彼女はなにか不思議な雰囲気を纏っていた。思い詰めているような鋭く哀しい空気があり、なんだか話さなければならない気分にさせられる。
仄かな景観照明の濁った光がぼうっと女の子の姿を浮かび上がらせる。俯いた彼女の横顔をよく見ると既視感を覚えた。
ぱっちりと上向いた睫毛や、尖った鼻筋に薄くて上向いた唇。この美しく冷えた横顔を見たことがある。
別れた旦那に似ているのだ。
心臓の裏側が一瞬ザリッと撫でられたような感触が走るが、その違和感を掴む前に女の子はーーーーを見上げた。
「……なんでヒーローをしているんですか?」
「そうね……。昔ヒーローに救けられたから」
「……」
「この答えじゃ不満?」
「そんなに綺麗な感情で、ヒーローを続けていましたか?」
冷めた言い草に女は苦笑いをした。初対面で随分な言われようである。眉を寄せる女の子の顔は、ーーーーには怒りではなく切迫感に見えた。ヒーローに夢を見たいわけじゃないらしい。
きっと、ーーーーのファンというわけでもないのだろう。
だから女は彼女に答えてやることにした。どうせ今夜だけの関わりなのだ。
「インタビューにはそう答えてきたけど、これは建前ね。わたしがプロになったのは、人生の選択肢の中で、一番自分の価値が高められるものがヒーローだったからよ」
「自分の価値……」
足を組んで、ほろ苦く笑う。女の子に対する遠慮はーーーーの胸の中から消え去っており、なぜだか彼女はスルリと女の壁の中に存在していた。隠し立てをしようという気にならなかった。
女の子の醸し出す雰囲気なのか、相性が良いのか、気質なのかは分からない。
鞄のポケットからエスペラントの丸い灰皿を取り出し、アークローヤルに火をつける。ゆっくり息を吐き出すと、細い煙がゆるゆると隣の女の子の方へ流れていく。
憧れを壊したことも、あるいは彼女の中のヒーローの何かを肯定してやる気もなかった。
煙が顔にかかると、女の子はビクリと震えてギュッと手のひらを握りしめた。首を折り曲げるようにして俯き、耐えるようにブルブル震える。
完全に何かに怯えている子の反応だった。
ーーーーは驚いて目を丸くした。心臓の裏側がまたゴトッと嫌な反応をする。
「あ、あなた……」
ハッとして女の子が顔を跳ね上げ、自分の手のひらと煙草を見比べてクッと喉を鳴らした。女は何も言えなかった。強烈な既視感があった。思い出せないけれど、ーーーーはたしかに今みたいな光景を見たことがある気がする。絶対にある。
「ねえ、どこかで会ったことがある?」
女の子はスッと真顔になった。
動揺が見えていた態度から、スイッチを押したみたいに八の字に眉を下げ、微笑みを浮かべた。その貼り付け慣れた微笑は彼女にとっての「真顔」だった。
「旦那さんとどうして別れたの?」
ーーーーは何故だか気圧された。
「……二人目が出来なかったのよ。彼との間に愛はなかったし……」
視線を合わせていられなくなって暗がりに目を逸らす。こんな小さな女の子に言い訳をしている気分になった。分からない。過去の結婚は触れたくない話題だった。思い出さないようにしていた。
自分に余裕がなかったし、今よりずっと焦燥感と不穏と欲望に支配されていた。
女の子の目に見つめられると、過去の罪を暴かれている気分になる。
一体何なのよ。
女は昔の自分が本当に最低だったと自覚し軽蔑しているが、でも。今のーーーーでもきっと元旦那と上手く結婚生活は続けられなかっただろうし、あの子供も持て余して、同じように繰り返していただろうと思う。
あの子供に暴力を振るうほど苛烈な気性はもうないけれど、同じように愛せなかっただろう。
「……あなたにとって、家族じゃないんだね。昔も今も」
ポツリ。乾いた声。
「今は家族はいるの……?」
「……いいえ……わたしは自分しか愛せないから」
恐れを持って、女は何故か断頭台に立たされているような心持ちで、するすると言わなくていい言葉を言ってしまう。
それは当然だった。
女は今過去の罪そのものと対峙しているのだ。
もう顔も声すら思い出せなくても、頭の中から消えはしない。罪悪感と後悔と諦めと、自分を正当化する汚さ。心の奥底の閉じ込めたそれが、無意識に表面化している。
「……もっと傷つくかもって思ったけど……あんまり傷つかないや」
女の子はどこか上滑りする声で言った。
「え?」
「わたしを縛ってるのは、今のあなたじゃなくて、過去のあなたなんだ……。でも、決別するのは意味があることだと思う……」
「し、縛る?」
女の子は1人でブツブツ呟いていて、女のことなんか見ていないようだった。
キロッ。
女の子が闇に光る目でーーーーに視線を投げかける。それだけでーーーーは肩をトッと押された気分になった。
おもむろに女の子が身体を寄せて来て、女は思わず仰け反りそうになった。プロヒーローのーーーーがこんな女の子に何故かこわいほど圧倒されている。
「されてみたいことが……あるの」
「……」
「一度でいいから……抱き締めて欲しい……」
「抱き締める……?」
コクンと小さく頷いて、哀愁の漂う表情で佇む女の子に、ーーーーはゆっくり手を伸ばした。
おそるおそる腕を回すと、彼女は女の胸の中にスッポリ収まった。子供を抱き締めるのは初めてだった。女の子は瞳を閉じた。心臓の鼓動を聞いている。
ツルッと、ーーーーの目から脈絡もなく涙が流れた。目が痛んだりとか、鼻がツンとしたりだとか、そういう前兆のない突発的な涙だった。
なぜだかこの女の子を見ていると、ーーーーはどうしようもなく自分の娘を思い出した。
もう顔も覚えていない、便利な道具を買うみたいに作って、気に入らなくて壊して捨てた、自分の娘を。
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心臓の鼓動を聞きながら目を閉じる。
聞きたいことも言いたいことも色々あった。聞いても仕方ないことなんだけれど。あなたのせいで自殺までしたんだよ、とか。生まれて来なければ良かったという思いは、先生に救われてからも消えずに、刹那の中心に根幹として根付いてしまったし。
でも話してみると彼女はただの人間だった。拍子抜けするほどつまらないただの人間だった。利己的で不器用で言い訳が得意で、毎日が乾いた、ただのひとりの中年女性。
もっと悲しくなったり、叫びたくなったり、憎くなったりするかと思っていた。
でも刹那の心は乱れなかった。
過去の記憶と経験が心を苛むだけで、誰かの一面が傷を与えるだけで、結局刹那にとっても今の は「母親」でもなんでもない。
この人にとって刹那が「過去の他人」であるように、刹那には「大多数のひとり」でしかなかった。
それがわかったから、もういいか、と自然と思えた。
今の彼女のことはもう何も思っていない。
でも。過去の決別は必要であり。
ただの大勢のうちのひとりを、刹那がこの手で殺す経験が必要だった。
先生の役に立つために。
刹那のエゴを叶えるために。
刹那は過去の母親も、どうでもいい他人も同時に殺す。
「さようなら、お母さん」
女は目を見開いた。
刹那は女の首に手をかけ、暴れる彼女の頸動脈をギリギリ絞めた。ーーーーは目を見開いて一気に瞳を恐怖に染めた。目を白黒させ、首を絞められていることではなく、刹那の存在と娘がイコールで繋がった恐怖で喘いでいる。
「カハッ、」
彼女の手が弱々しく刹那の手を引っ掻いた。殴って、引っぱたいて、あの頃絶対の象徴だった女は今刹那の前で無力だった。
動物の握力を得た刹那にとって、か弱い抵抗はまったく抵抗として機能しなかった。ただ弱かった。叫ぼうとする女の口からはヒュウヒュウと空気の音しか漏れない。
あの頃饒舌に刹那を罵倒した口は今は無意味に空気だけを吐いている。
「、……」
ギリギリと首を絞めながらベンチに押し倒し、女は何かを必死に喋ろうと口を開け閉めする。
「何も喋らないで……」
もう彼女のことを知りたいと思わない。
何を考えて刹那を育てていたのかも、もう知らなくていい。言い訳も、謝罪もいらない。
どうして生まれて来たんだろう。
どうして愛してくれなかったの。
問いかけたかったことはもう、どうでもいいと思った。
そしてーーーーは静かに事切れた。フツリと糸が切れるように、本当に静かに。
動かなくなった女の胸にそっと頭を寄せる。さっき聞こえた鼓動は今は聞こえない。
人はこんなに呆気なく死ぬものなんだ……。
震える息が肺からドハッと零れる。熱のカタマリみたいな空気だった。指先が震えた。
ーーーーを持ち上げて、ベンチに座らせる。スーパーの袋からお酒の缶を取り出して、公衆トイレで中身を半分ほど捨て、彼女の横に置いておく。
警察の捜査を撹乱するためではなく、通報を遅らせるためだ。
置物みたいな女の身体。
もっと必死で抵抗されるかと思ったけれど、彼女は恐れと諦めを浮かべて、最期まで刹那の目を見つめていた。
女は自分の罪に殺されることを是としたのだ。
刹那はーーーーを殺したことに、高揚感も達成感も感慨も得ることは出来なかった。身体の内側から何かが抜けて脱力した。
目の前にいるのは母親でもヒーローでもなかった。
刹那はただの「人」を殺した。
「ぅ、〜〜〜っ」
喉がひくついて、刹那はズルズルしゃがみこんで顔を覆った。歯の隙間から声が漏れ、必死に息を止めて嗚咽を噛み殺す。火をつけられたみたいに全身が熱かった。
双眸からからサラサラした透明の熱涙がとめどなく溢れた。
色んな感情がぐちゃぐちゃに絡まりあっていっぱいいっぱいなのだ。ヒンヒン泣きながら、しかしこの想いだけが強烈な輪郭を持って、胸を埋め尽くすように渦巻いていた。
わたしは自由になれた。
やっと、やっとスタートラインに立てた。…
しばらく無言で泣いて、袖でギュッと顔を拭い、刹那は立ち上がった。フードを被り直し、ベンチの上の過去の自分を置いていく。刹那は振り返らなかった。
次は父親と元彼を殺そうと思った。
役立たずだった自分の過去をひとつずつ消していけば、きっともう苦しまなくて良くなるはず。そう思って刹那は決意を強める。今の誰かを殺したって、刹那が過去に縛られる限り、痛みは消えないのに。
刹那は唇を噛む。
まだまだ止まってなんていられない。
わたしの人生はようやく始まったばかりなんだから。
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母親のことを思い出すと、脳にノイズが走る。ヒーロー名「ーーーー」。彼女の名前を刹那はもう思い出せない。
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