猫のまーくん

*動物の死についての描写があります

 久しぶりに登校したわたしを見て、友達が目を見開いた。ギョッとして頭から爪先まで眺め、心配そうに駆け寄ってくる。

「名前!大丈夫なの?」
「すごく痩せてるけど、なんか…病気とか…?」
「もう出てきていいの?その、大丈夫そうには見えないけど……」

 言葉を選んで言い淀む友達たちに、わたしは笑顔を浮かべる気力もなく、小さく首だけ動かして弱々しく口元を緩ませる。
「ああ、うん……大丈夫だよ」
「そう……」
「病気とかじゃないから大丈夫。ちょっと、色々あって」
 自分に言い聞かせるように『大丈夫』と言い、わたしは心配そうな視線を振り払うと自分の席に突っ伏した。気を抜くと泣いてしまいそうだった。心配されるのはありがたいし、休んでいた一週間で5キロも痩せて頬がやつれ、表情もゾンビだろうから気になるのも分かるけれど、これ以上聞かれても何があったか言うつもりにはなれない。

 授業は久しぶりだからか、体力が落ちたからかどうにも集中出来なかった。一週間分の遅れを取り戻さなければ、と頭ではわかっているが、教科書はずいぶん進んでいて躓いてばかり。先生の言葉が右から左へと流れていく。
 先生の低い声も、指名されて答える生徒の声も、壁をへだてた向こう側で聞こえるようで、まるで自分が世界に取り残された気分だ。

 だんだん目が霞んできて、ボーッとシャーペンを構えたままノートを見つめていると、いつの間にか授業が終わっていた。
 友達に「名前ってば!」と肩を揺すられて、ようやくわたしは顔を上げた。

「大丈夫?」
「顔色悪いよ。やっぱり本調子じゃないんじゃない?」
「保健室行こう」
「お昼は食べられそう?」
「ああ、うん……」

 わたしはまた不明瞭な相槌をつぶやいた。
 お昼、と言われても空腹はまったくと言っていいほど感じず、むしろ胸のあたりに倦怠感が渦巻いている。
 病人のような微笑みを浮かべ、「ちょっと休んでくる。午後戻れるかは分かんないや」と苦笑すると、友達たちは着いていこうか、と心底不安そうにわたしを見つめた。
 首を振って教室を後にする。
 休んでいた間中、不健康な生活を送っていたから頭や身体はすでに鈍く、眠たいときの重さをしていたが、保健室に行く気は起きなかった。

 昼休み特有のごった返す廊下を抜けて、人気のない場所を探してよろよろと徘徊するわたしは、我ながら亡霊みたいだ。何人かが二度見して道を開けてくれた。

 特に何も考えず、人がいない方へいない方へと歩みを進めていると、気付けばわたしは外に出ていた。上履きから履き替えてもいない。本当に夢遊病患者になったみたい。
 虚ろな表情のまま、脳内だけはどこか冷静にそう思う。
 旧校舎である海友会館は、部活動の大会などでしか普段は使われず、建物もやや老朽化している。館の裏は塀と建物に挟まれて木陰になっており、雑草が生えていて、昼でも薄暗い。
 ベンチに腰掛け、わたしは膝を抱えてボーッと地面を眺めた。やることがないと、つらい記憶がぐるぐると脳みそを渦巻くのに、一週間の間にもう一生分泣いてしまったのかわたしの目は乾いたままだ。
 手持ち無沙汰に携帯を開く。待ち受けは休んでいる間に適当に変えた写真だ。たしか、友達と学校帰りに海に行った時のもの。
 脳天気なわたし達が笑顔でピースしている。

 写真フォルダを見返そうとしたが、嫌になって携帯を閉じ、膝に顔を埋める。

 どれくらいそうしていたのか、ふと草の擦れる音で周囲の音が戻ってきた。誰かの足音だ。
「なんじゃ、先客がおったのか。ここは俺の特等席だったんに」
 独り言なのか、話しかけてきたのか分からない。
 仕方なく重い頭を上げて振り返った。

 飛び込んできた姿に、わたしは目を見開いて固まってしまった。

 真っ白な毛並みに、日に当たるとグレーにもブルーにも見える、少し目つきの悪い瞳。くあ、と眠そうにあくびをしたあとに、パチパチと2回まばたき。クセも同じだった。
 あまりにも、あまりにも……。

 何か考える前に、わたしの口からは言葉が零れ落ちていた。自分の震えた呼吸が聞こえる。

「ま……まーくん…?」
「は?」
「まーくん……ま……まーくん……」
「な、何なんじゃ…おまんにそんなあだ名で呼ばれるいわれはないぜよ」

 彼は気味が悪そうに言うと、背中を見せた。どこかへ行ってしまう。
 そう思った瞬間、両目からボロッと涙が伝い、わたしは思わず叫んでいた。

「待って!」
 自分の声に背を押されるようにわたしは彼の背中へ走り出し、抱きついた。ギョッとして彼が振り返る。彼からは制汗剤のような爽やかな香りがしたけれど、それに混じって土の匂いと、青っぽい草の香りと、お日様の匂いがした。
 まーくんの匂い。

「ヒグッ、置いていかないで…ごめんね……まーくん……うっ、ひくっ、まーくん……」
「な、なんなんじゃ……」

 彼は困惑しきって、不気味そうに呟いたが、号泣しながら「まーくん」と繰り返して引っ付いてくるわたしに気圧されたのか、手をうろうろさせながらも動向を伺っている。

 分かってる。
 彼はテニス部の仁王雅治だ。
 分かっているのに涙は止まらないし、嗚咽も止まらないし、抱きつく腕の力を弱めることは出来なかった。

 心臓が爆発するように痛くて、悲しくて、一瞬まーくんが人間の姿になって会いに来てくれたのかと思った。
 脳みそがバカになっている。
 まーくん。
 彼を思い出してわたしはしばらく泣き続けていた。

*

「あの…ごめんね…ズビッ」
 ゆうに1時間は泣いていたと思う。鼻水を垂れ流し、目を真っ赤に腫らしたわたしに仁王雅治が「落ち着いたか?」と投げやりに尋ねた。
 昼休みはとっくに終わっている。
 彼はジャケットを脱いで、背中にビッショリと染み込んだ涙と鼻水と涎に口元を引き攣らせたが、深いため息をついただけで何も言わなかった。
 申し訳なさのあまり肩をすぼめる。

 仁王くんは最初の方は戸惑いつつも、離れるのを待っていてくれたがあまりにも長く泣き続けるので途中何度かわたしを引き剥がそうとした。けれどその度に「ま"ーく"ん"」「い"か"な"い"て"」と濁音でさらにわたしが声を上げてひっつくので、すっかり諦めてされるがままになっていた。

「あの…クリーニングするから」
「いや…あー……。じゃあ頼むぜよ」
 遠慮しようとした仁王くんは、自分のジャケットをもう一度見て差し出した。改めて見ると本当に酷い有様だ。

「それで、一体なんだったんじゃ?俺、お前さんと面識ないと思うけど」
「うん……」
 校内の有名人である仁王くんと話したことはない。
 彼が疑問に思うのも無理はなかった。

「本当にごめんね。その、仁王くんがまーくんにそっくりで…」
 また目の奥にじわりと涙が浮かびそうになる。
「誰じゃまーくん。女子達が影で俺んことまーくんとか呼んどるみたいじゃから、最初俺がなんかしたかと思ったぜよ」
「仁王くんもまーくんって呼ばれてるんだ。まーくんと同じだ…」
 やっぱり似てる。
 わたしはひくっと嗚咽を零した。まだ泣くのかと、仁王くんがややうんざりした顔をする。わたしはなんとか抑えた。

「そのまーくんとやらに振られたんか?」
「ううん。まーくんはうちの猫なの」
「猫」

 彼は素っ頓狂な表情で繰り返した。
 わたしは携帯を取り出し、まーくんフォルダを開いた。大量に写し出される生きているまーくん。
 白い毛並みにグレーの瞳のハンサムな猫だった。
 仁王くんは手渡された携帯で何枚か写真をスクロールし、「ほんまに猫……じゃの……」と半ば呆然と呟いた。

「たしかに白猫じゃが…え?俺と猫を比べて泣いとったんか?」
「うん…」
 わたしは頷き、まーくんのことを話そうとした。
 目からまた濁った涙がどろりと流れ、喉の奥が焼け付くように痛んだ。
「6歳の頃から飼ってたんだけど…いっ……うっ……」
「おい大丈夫か?」
「一週間前に事故で死んじゃっ……」

 それ以上は言えなくて、両手で顔を覆う。仁王くんは何も言わず、押し殺したわたしの泣き声だけが響く。

「一瞬まーくんが会いに来てくれたのかと思って……仁王くんとまーくんが被って、涙が止まらなくなっちゃったの。巻き込んでごめん」
「かまわんよ」
 短く、興味がなさそうな言い方だった。なのに、その声音が柔らかい気がして、なにより、たったそれだけしか言わないところがわたしの心をほどいてくれる気がした。
 友達にも言いたくなかったことが、ポロポロと涙と一緒に零れ落ちていく。

「まーくんがね、居なくなっちゃって……わたしの部屋の窓が開いてて……たぶんそこから逃げちゃったんだと思う」
「おん」
「いつも一緒に寝るから、絶対あけっぱにしないようにしてたのに、エアコンが壊れてて、つい…」
「……」
「逃げるのはね、初めてじゃなかったの。前も2回脱走してて」

 前に逃げた時は、宅配便の受け取りをしてる時に1回、洗濯を取り込んでいる時に1回。
 どっちもお母さんがすぐ気付いたし、走り去っていくまーくんを捕まえることは出来なかったけれど、数時間で帰ってきた。
 だからまたすぐ戻るだろうってどこか楽観視していた。
 ……けれど、2日も帰ってこなくて。
 写真をプリントしてお父さんが迷い猫の貼り紙を作って、近くの柱や掲示板に貼りまくって、次の日にはすぐに見つかった。

 白猫、グレーのような青のような瞳、青い首輪。雑種で、首の周りの毛がちょっとフサフサに広がっている。
 野良猫時代の怪我が残っていて、お腹の右側の毛が少しだけ薄くて、引っかき傷のような跡が触ったら分かる。
 鼻は綺麗なピンク色で、左のヒゲが1本だけ、何故か抜けても毎回くるんとしている。

 イタズラっ子でボール遊びとシャボン玉が好きだった。けれど、頭のいいお利口さんで、一度怒られたことは繰り返さないし、テーブルに乗ったりもしない。ご飯はちょっとウェットな高級な種類が好きで、人間のご飯はほとんど食べないのに、わたしの膝の上に乗ってわたしがご飯を食べているところをいつもじっと見つめていた。
 あげようか?って猫でも食べれそうなお刺身とか、チーズとか、ちくわをあげようとしても、いつもいらないって言うふうに「うーな」と顔をぷいっと背けて、見ていた。
 調べたら、猫がご飯を見つめるのは、食事の時は危険がいっぱいだから、わたしの代わりに警戒して見守ってくれていたらしい。
 それを知ったとき凄く嬉しくてくすぐったい気持ちになった。
 暑がりなのに布団の中に潜り込んできては、朝頭の上に移動していて、けれどピッタリおでこをくっつけて寝ていた。
 わたしが起きると不満そうに鳴くのに、玄関まで見送ってくれた。
 名前を呼ぶと返事をしてくれて、何回も意味もなく呼んで無視されるのが好きだった。猫にも呆れたり、めんどくさいって思う感情があるんだよね。でも、まーくんにあしらわれるのが好きだった。
 掃除機は嫌いで毎回ふしゃーって怒るけど、ドライヤーはお気に入りで、髪を乾かしている時に温風を一緒に浴びていた。ゴロゴロ喉を鳴らすと、顎の下を撫でるわたしの手まで震えるくらいだった。
 おでこをくっつけるだけで、撫でてもいないのに喉を鳴らして唇を舐めてくれるのが、仲良しみたいで、好かれているんだと思えて、幸せだった。
 幸せだった……。

 次から次へとまーくんのことを思い出して辛くなっていく。

 わたしが部屋の窓を開けっ放しにしていなければ……。
 逃げた時にすぐ探していれば……。

 後悔がとめどなくとめどなく溢れていく。
 まーくんが見つかったのは、住宅街から3キロも離れた大通りの方で、ガソリンスタンドの人が遺体を保護してくれていた。
 車に轢かれたまーくんの遺体を見つけ、飼い主を探してくれていたらしい。
 首輪についたタグは外れていて、連絡先が分からなかったらしいけれど、首輪をしていたから飼い猫だと思って、とその人は言っていた。
 ダンボールの下に、白い布が敷かれていて、まーくんは優しく包まれていた。

 白い毛並みが土と血で汚れ、目は閉じて目やにだらけで、たった数日で随分痩せてしまっていた。
 なにより、もう、動かなかった。
 抱き上げたまーくんはぞっとするくらい冷たくて、固くて、まるで石になってしまったようだった。
 死がそこに横たわっていた。


 吐きそうなほどえずきながら、不明瞭に話し続けるわたしを仁王くんは黙って聞いていた。余計な口出しもなくて、それがありがたい。
 慰めや励まし、同情なんていらない。たとえそれが、同じ猫を亡くした苦しみを共有できる共感であっても、わたしには余計だった。
 まだまーくんの死を受け入れられないのに、こんなにも生々しい痛みを伴ってわたしから生きる気力を奪うのに、他の誰にも分かったふうなことを言われたくなかった。

 まーくん。
 白くてふわふわだったから、ましゅまろとわたしが名付けた。男の子だからまーくん。ましゅとか、ましゅたんとか色々な呼び方をしていたけれど、まーくんがまーくんで覚えたから、ずっとそう呼んでいた。

 まーくん、ごめんね……。
 もう二度とまーくんに言えない言葉を、仁王くんに何度も繰り返す。
 守ってあげられなくてごめんね。すぐ見つけてあげられなくてごめんね。ひとりぼっちで死なせてごめんね。
 まーくん、まーくん、大好きだよ。

*

 わたしは徐々にまーくんのいない日常に慣れていった。家に帰ってもおかえりの鳴き声は聞こえないし、寝る時の温もりと重みはない。

 泣きすぎて吐くこともなくなったし、友達に打ち明けることも出来た。「大変だったね」とか「残念だったね」とか、「そこまで大切に想われてまーくんも幸せだったよ」とか。
 そんな、優しくて無責任な言葉にも笑顔で「ありがとう」と言えるようになった。

 まーくんが死んでから、季節がひとつ巡った。

 まーくんの死への痛みはまだ全然失われる気配はないけれど、それでいいと思う。まーくんのことを永遠に忘れたくないから。

 わたしが日常生活に戻れたのは仁王くんの存在が大きい。
 ふとした時ぐらっと視界が、世界が揺れる感覚がする。キーーン…と鈍い耳鳴りがして、吐き気に似たものが襲ってくる。倒れそうで、けれど意識を失うほどには精神的な痛みはわたしの身体に物理的な被害を与えない。
 そんな時、彼と出会ったベンチに行く。

 仁王くんは、あの場所へふらりと訪れた。
 全身から絶望を漂わせながら虚ろな目で佇むわたしに、けれど仁王くんは素っ気なく踵を返すことなく、隣に座ってくれた。
 たぶん、またわたしに泣かれると思ったんだろう。
 そしてそれは正しいと思う。
 だってまーくんにそっくりな彼が、わたしからいなくなろうとしたら、違うってわかってても、きっとすごく…すごく悲しい。悲しいなんて言葉じゃ足りないくらい。

 何回か会ううちに、仁王くんは発作的に泣くわたしの背を撫でたり、頭を撫でたり、まーくんの話を促した。
 生きている頃の写真を見せ、思い出を語らった。
 彼は意外と聞き上手で、まーくんの話をしていると幸せな日々を思い出して、笑ったり泣いたり、いそがしくて。
 けれど、誰かにまーくんの話を聞いてもらうのは、久しぶりで嬉しかった。家族も落ち込んでいて、誰もまーくんの話をしないから。まーくんの話はどうしても、「過去形」になる。そうしているうちに、わたしは徐々に、まーくんの死を受け入れつつあった。

 最近は、心が悲鳴を上げた時の逃げ場所ではなく、純粋に楽しい気持ちになりたい時、癒されたい時…仁王くんに会いたい時、あのベンチへ行く。

「お、ちょい久しぶりじゃな」
「そうかも。1週間くらい?」

 慣れたように仁王くんは、ベンチに腰をかけると頭を倒す。膝に感じる重みと温かさ。
 仁王くんは猫みたいだ。
 初めて当たり前のように膝枕の体勢を取られた時は驚いたけれど、意外なほどにその重みはしっくりきた。まーくんの方が軽かったのに。

 わたしも当たり前になった仕草で、膝に乗った仁王くんの柔らかい髪の毛を優しく指先で梳いては、撫でていく。仁王くんが気持ちよさそうに目を細めた。本当に猫みたいだ。

 わたしは揺れる木々の葉を眺めながらぼーっとして、仁王くんは流れる雲を目で追いかける。
 たまに、ぽつりぽつりとまーくんの話や、授業や部活の話をして、彼は聞いているのかいないのか、「…ん」と曖昧な返事を返す。
 校内でも有名な彼とこんな不思議な関係になっているのが、自分でも信じられなくて奇妙な気分だ。本当なら仁王くんみたいなかっこいい男の子とはドキドキして話もろくにできないし、接点も全くなかったのに。
 わたしのどうでも良い話を、仁王くんは意外と無視をせずにちゃんと聞いていて、覚えていてくれている。最近は会うたびに仁王くんのいいところを見つけてばかりで、優しくて、もしかしたら好きなのかもしれないと考える。けど、ドキドキはしないの。ただひたすら、落ち着いていて、傷が癒される。
 仁王くんは不思議な男の子だ。

 ふと下を見下ろすと、彼はすっかり目を閉じていた。
 普段校内で見かける彼のイメージはクールで近寄り難いのに、無防備にわたしの膝でお昼寝しているのが可愛らしくて、わたしは小さく笑った。

「…ん」
「あれ、起こしちゃった?」
「最初から寝とらんよ」
「寝てていいのに」

 仁王くんが目を開ける。揺れで起きてしまったのかと思ったけれど、今日は眠る気分じゃないらしい。
 おもむろに彼が腕を伸ばしてわたしの頭の後ろに手を回した。引き寄せられて唇同士がくっつく。
 何度か唇をくっつけて離してを繰り返して、なんとなく目を開けると気だるげなグレイの瞳と視線が合った。
 本当に綺麗な顔……。

「どうした?」
「仁王くんも変わってるなって思って」
「今更?」
「だって、わたしなんかとこうしてるのが不思議で」
「本当に今更じゃの」

 喉のあたりで低く笑うと仁王くんが手を離す。わたしは曲げていた腰をまっすぐに直して、また頭を撫で始める。撫で心地は正直全然まーくんには似ていない。
 けど、柔らかくて暖かいものを撫でていると、心が慰められるのを感じる。

「初めて会った時のわたし相当酷かったでしょ」
「おー、顔中から液体が流れとったの」
「出来れば忘れてほしいんだけど…」
「強烈だったから頭から消えてくれん」
「もう!でもよく仁王くんもそんな女の子にキスしようと思うよね」
「卑下しすぎじゃろ」
 フォローのようなことを、別に優しくもない言い方で言うところが、噂通り女の子に慣れている感じを醸し出している。
「わたしは嬉しいからいいけど、変わってるなーって」
「ほー、嬉しいのか」
「嬉しいよ」
「素直じゃのう。俺のこと好きだったとは知らんかったぜよ」
「…好きなのかな?」
「くくっ、なんで俺に聞くんじゃ」
 目を細めて笑うと、一気に大人っぽい顔立ちに幼さが滲む。他の子はこういうのにときめくんだろうなぁ。そういうわたしも好きだった。
 でもやっぱりときめくのとは違う感じ。
 ドキドキするとか、キュンとするのを飛び越えて、彼の全てが可愛らしくて、愛しくなる。

「そういうところが楽じゃから」
「楽?」
「名字は俺に期待したり、変に押し付けたりせんじゃろ。人間は自分の見たい相手しか見ようとせんけど、名字はわかりやすいから楽」
「そう?わたしだって、仁王くんにまーくんを重ねてるのに」
「おん。だから応えやすい。名字は俺に、目の前にいる時に置いていかれたくない。それだけしか求めてこん」
 そう言う仁王くんの瞳は、何かを悟ったようにも、諦めたようにも凪いでいた。テニス部は女子からも、大人からも、学校からも色々な期待を受けている。十代の彼が受け止めるには大きすぎるその期待に、すでに彼は何かしら見切りをつけてしまっているのかもしれない。
 わたしは仁王くんがしてくれたように、特に何も言わず、頭と顎の下を撫でた。

「俺は猫じゃないぜよ」
「ふふ、知ってる」
「あー、そういうとこも好き。まーくんと重ねてるけど、俺とまーくんをちゃんと分けて考えとるところ」

 すぐ好きっていうところ罪深いやつだなって思いながら、その答えにわたしは内心でちょっとおかしくなる。
 だって、そんなの当然だよ。
 仁王くんはまーくんに似てるけど、まーくんはたった一匹しかいない。他のなんにも、だれにも、まーくんの代わりにはなれない。

「うん、ちゃんと分かってるよ。でも、甘やかすと癒されるの。分かってて応えてくれてるなら、仁王くんって意外と優しいよね」
「そーそー、俺は優しいんじゃ。それに、甘やかされるだけって俺に得しかないからのう」
 ふざけた口調で言って、仁王くんが身体を起こした。
「じゃからもっと甘やかして」
 猫のような目に見つめられ、わたしはくすぐったく目を閉じる。彼のわたしよりもずっと柔らかい唇と生ぬるい吐息を感じた。仁王くんは、生きている。それに安心して、彼の体に腕を回す。
 彼も抱きしめ返して、今度は逆にわたしを優しく撫でる。

 こんな関係、いつまでも続かないことは分かってる。
 いつか、慰められて、癒された生々しい傷には、カサブタに変わっていくだろう。まーくんを思い出に出来る日が。面影を探して縋らないと立てないわたしも、いつかひとりで立てる日が来る。
 そうしたらきっと彼は、気まぐれな猫のようにいなくなってしまうだろうか。
 まーくんと重なって、キスをしながら静かに涙を流すわたしに、仁王くんは呆れた優しい笑いを漏らして、目尻を指先で拭った。

「お前さんは泣き虫じゃのう。また思い出したか?」
「うん…。わっ」
「しょっぱい」
「当たり前だよ、ばか」
「目の前で泣いとるのが悪い」
 泣いていると、顔をペロペロ舐めてまーくんが舐めてくれたのを思い出した。そのあとは、慰めるようにずっと傍で丸くなってくっつくの。
 やっぱり、まーくんに似ている。似ているだけで違う存在なんだけど、今のわたしに仁王くんの優しさはあたたかすぎて、涙が出る。
 わたしは彼の肩に顔を押し付けた。くぐもった涙声で言う。
「まだわたしには仁王くんが必要みたい…」
「…そうみたいじゃのう」
「ごめんね…。ね、お願い、ぎゅっとして」
「ん、ええよ」
 抱きしめて、背中をとんとんされて、頭を撫でられながら、仁王くんの心臓がトクトクと規則的に鼓動しているのを聞く。
 上からからかい声が降ってきた。
「こんなに泣き虫で脆いのに、平気になる日が来るんかの」
「来るよ、いつかきっと…。まーくんはもういないし、時間は後ろにしか流れないもの。でも、もう少しだけそばにいて」
「ほーか。お前さんに撫でられるのは、悪くない気分なんじゃが」
「あはは、気に入ってくれてるの?まーくんで鍛えられた腕だもん」
「さすがの腕前じゃ」

 小さく笑って、仁王くんの腕にさらにギュッと力が込められた。頭に彼が顔を擦り寄せたのが伝わってきて、髪の毛が頬をくすぐった。

「別に、むりに忘れんでもええのに」

 いたわるような手のひらに、わたしは目を閉じる。
 忘れないよ。忘れられるわけない。でも、いつかはわたしも前に進まなきゃ。
 そしてそれが、そんなに遠くない日もしていた。
 寂しさは消えなくても、痛みは風化していってしまう。そして、寂しさはやがて日常のひとつになる。
 どこかで猫がニャオンと鳴いた。
 風に乗って聞こえたその声はまーくんの鳴き声にそっくりだった。
 どこかで見ていてくれてるのかな?
 わたしのために、まーくんが仁王くんと出会わせてくれたもしれない。
 バカみたいな考えだけど、そんな気がする。
 仁王くんのあたたかさに、痛みがまたひとつ慰められる。
 彼への感謝と、別れが近づいている寂しさが溢れてくるのを感じながら、わたしはまーくんのことを想った。

 空にいるまーくん。
 わたしの猫は、ずっと一生、まーくんだけよ。
 もうあなた以外の猫を飼わないし、ずっとずっと忘れないから。
 いつかあなたを、過去にしてしまうことを、わたしを、許してね。

 またどこかで、猫がニャオンと鳴いた。


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