名字と話したことは今年に入るまでなかった。それは事実だ。けれど、正しく言うのなら、「仁王として」名字と会話をしたことはない、だ。
以前一度だけ彼女と話したことがある。
その時仁王は、柳生の姿をしていた。
去年イリュージョンの完成度を高めるために、試験的にお互いのクラスを入れ替えて授業を受けた時、名字は柳生の隣の席だった。
ふたりは割と仲がいいらしく、名字は人懐こい笑顔で柳生だと思い込んでニコニコと話しかけてきた。
テニス部すら騙してみせた仁王の変装にもちろん彼女が気付くわけもなく、仁王は柳生としてそつなく会話をしていたが、ふと、名字が怪訝そうに首を傾げた。
部活の話をしている最中のことだ。
それまでは普通に会話していたのに、仁王や切原の生活習慣がだとか、仁王や丸井の服装違反には真田も苦労しているだとか、適当に柳生らしく返していたはずなのに名字は顔をじっと見つめ、戸惑ったように尋ねた。
「仁王くんと喧嘩でもしたの?」
虚をつかれて、仁王は一瞬黙った。
誤魔化すように眼鏡を上げ尋ね返す。
「していませんが……なぜそう思ったのですか?」
完璧に柳生のはずだったのに、どこかに違和感があったのだろう。それを知れば、イリュージョンはさらなるものへと遂げる。そのために原因を突きつめるための質問だ。
名字は「あ、ごめん。気のせいだったのかも」と申し訳なさそうに首を振り、会話を終わらせようとしたので、仁王はもう一度尋ねた。
「喧嘩をしているように見えましたか?」
本物なら他人の会話のペースに合わせるだろうから、柳生らしくはないかもしれなかったが、名字はそこには違和感を覚えなかったらしい。
少し悩んで口ごもるようにそっと答えた。
「なんか…なんだろう?柳生くんぽくないなって思ったの」
「私らしくない…ですか?どのようなところでしょう?」
「うーん…」
なんとなく違和感を感じただけ、というのがいちばんもどかしい。考える名字に焦れったく感じながら、仁王は彼女を見下ろした。
自分では完璧だと思っていたはずなのに、クラスで話すだけの距離感の人間に見破られそうなことにも、プライドがやや傷付いていた。
しばらくウンウン唸って、彼女はようやく口を開いた。
「テニス部の話をしてる時かな……うん、そうかも、仁王くんの話をする柳生くんって、いつももっと楽しそうだから」
思ってもみない答えに今度こそ言葉をうしなう。
答えが見つかってスッキリしたのか、相槌を打たない柳生にも気づかず、名字はつらつらと言語化した答えをひとりで話し続けている。
「うん、そうだ、多分そのせいで喧嘩したのかなーって思ったのかも。いつもさ、仁王くんのことああだこうだ言いながら、結局仁王くんは仕方のない人ですねーって、なんかちょっと嬉しそうに言うでしょ?そういうのいいなーって思ってたんだよね。仁王くんのこと大好きなんだなって伝わって来るもの」
そして気遣わしげに柳生を見上げ、「差し出口だとは思うんだけど、やっぱり仁王くんと何かあった?それとも体調が悪いとか?」と首を傾げる。
自分の違和感を言語化したことで確信を持ったらしい。
仁王は、カッと頬に熱が昇りそうなのを必死に抑えなければならなかった。
違和感が「柳生はいつも仁王のことを大好きだと分かるように語るから」だなんて、一体誰が想像するものか。
「いえ…そういうわけではないのですが…」
咳払いをしてなんとか平静を装う。
釈然としなさそうだったが、名字は「そっか。話を聞くくらいしか出来ないけど、話を聞くくらいは出来るからいつでも言ってね」と物分りが良さそうに頷いた。
「いつもね、羨ましいなって思ってるから」
「羨ましい?」
ぽつりとさりげなく呟かれた言葉に反射的に問い返すと、名字は自分が言った言葉に驚いたように目を丸くし、困った顔ではにかんだ。
少し焦って、言い訳のように早口で手を振る。
「や、あのごめん、なんでもなくて」
「……」
無言で促すと、名字は諦めて途方に暮れたように眉を下げた。
「あの、嫉妬とか悪い意味じゃなくて…なんだろ、話を聞いてると柳生くんと仁王くんは……お互いを分かりあった理解者って感じじゃない?そういう関係性の人がいるって素敵だなって」
「理解者…そう…かもしれませんね。似てはいないと思うのですが」
「ふふっ、そうだね。2人とも真逆だもの。仁王くんのことはよく知らないけど、ちょっと問題児っぽいもんね」
「そうなんです、まったく仁王くんにはいつも苦労させられますよ。この間なんて…」
違和感を改善し、声のトーンを上げてやや楽しげに聞こえるように、自分のイタズラの話をしてみると、今度こそ完璧な柳生になったらしい。
名字はクスクス笑いながらうんうんと話を聞いている。
「良かった、喧嘩したわけじゃないみたいで」
「ええ、ご心配ありがとうございます。けれど私と仁王くんの仲は良好ですよ」
「変なこと言ってごめんね。でもほんと良かった、2人はずっと仲良くいてほしいもの」
名字の瞳はまるで、姉のようだった。なにか見守るようなむず痒い視線。仁王は尻の座りが悪くなる感覚を覚え身をよじった。
「仁王くんももう少し真面目な態度になってくれれば、私も気を揉まずに済むのですがね。揉め事も頻繁に起こしていますし…」
羞恥心を逃がそうと、軽口を叩く。
やれやれ、と首を振る仁王を名字は嬉しそうに見つめた。
「問題児でもいいじゃない。柳生くんにとっていい人なら」
「それはどういう…?」
「えっ?どういうって?」
「問題児でも良い、とは?」
「あ、ごめん、風紀を乱してもいいってことじゃないんだよ?ただ、仁王くんって噂だとやばい人だけど、柳生くんには懐いてて仲良しでしょ。他の人にいい人じゃなくても、柳生くんには優しくていい人なら、それでいいと思うんだ。誰からも好かれたり、よく思われるなんて無理なんだしさ」
「…仁王くんをいい人だなんて言う方は、あまりいらっしゃらないと思いますよ」
返答に迷い、仁王は軽口で誤魔化した。名字は「そうかも」と笑った。
「でも、柳生くんが話してくれるからそう思うんだよ」
仁王は今すぐに「プリッ」と鳴いて逃げ出したくなった。
柳生は普段どんな風に自分を話しているのか、この反応だけでむず痒くて仕方がなかった。
当時のことを思い出していた仁王は、思い出してまた気恥ずかしくなり、頭を振った。
あれをきっかけに注意深く柳生のことを見ていると、たしかに柳生は、仁王のことを話す時普段よりやや楽しげになる。自覚もしていないだろうし、僅かな変化なので気付く人も少ないだろう。
知った時仁王は無性に叫び出したくなったものだ。
柳生の姿をした仁王と話す名字と、今の仁王と話す名字は雲泥の差がある。彼女はもう仁王を「いい人」だとは思っていないだろう。
いや、彼女の言い方をなぞるなら「自分にとってのいい人」だとは思っていない。
名字からそんな風に思われたいわけではなかったが、自業自得とはいえ、今蛇蝎のごとく嫌われていることには少しだけしょっぱい気持ちになる。
名字をセフレとして扱う男は名字にとっての「いい人」なのだろうか。
それとも、「いい人」ではなくとも焦がれるものなのだろうか。
その違いはどこにあるか、仁王は知りたかった。
彼女が気になるのか、彼女の答えが気になるのか分からなかったが、名字に好奇心が疼いているということは仁王の中にある明確な答えだった。
*
名字と例の男の交際(?)は順風満帆とはいっていないらしい。
最近、名字は俯いていることが多い。
携帯を取り出して、通知を確認してはため息をついたり、苛立ったように眉根を寄せたり、落胆を浮かべたり。
元気の無い様子の名字を眺める。彼女を観察することはもはやクセになっていたが、名字はそれでもあくせくと雑事にいつも励んでいる。
死ぬほど嫌われているので、コンビニで会った時以来会話もしていないし、目が合うこともないが、仁王は彼女を眺めていた。
そして名字も。
例の男とキスをしている現場に居合わせて以来、常にも増して仁王のことを気にかけている雰囲気が仁王にはよくわかった。
彼女の机の横を通るだけで肩を揺らし、頑ななプレッシャーが迸るのだ。
警戒する猫のようで仁王はそれを面白がっていた。
仁王からは名字が元気の無いことなんて一目瞭然だったが、クラスでそれを気にかける人はいない。名字は話しかけられることは多いし、クラスの人とも男女問わず会話をするタイプだったが、そういえば仲がいい友達、というのは見かけない気がする。
名字が羨んでいた仁王と柳生のような関係の人は。
彼女を観察していても、もう大して面白い反応も得られないし、関わりもない。嫌われている。その上、眺めていると彼女の境遇や交友関係から透けて見える彼女の感情に胸が重くなる虚しさを覚えるのに、仁王をそれでもやっぱり観察してしまう。
眺めることがクセになってしまったから、見たくなくとも目が追ってしまうのだ。
見ることに生産性がないと分かりながら眺める仁王、見られていると分かりながらも気付かないふりを突き通す名字。
我ながら妙な関係性だった。
「名字さん」
放課後、荷物を纏めているとクラスの女子が声をかけるのが耳に入ってきた。
「あのね、お願いがあって…」
「どうしたの?」
どうせまた何か頼まれごとだろうに、人が良さそうに名字は尋ねてみせる。その時点で、すでに女子は安心して声のトーンを上げていた。
「今日日直だったんだけど、先生に資料を纏めて運んでおけって言われちゃったの。でも今から彼氏とデートが入ってて…」
申し訳程度の申し訳なさを浮かべ、期待の眼差しで名字を見つめている。名字は一瞬、ポケットに目をやった。その中に携帯が入っていることを仁王は知っている。
だが名字はいつもの通り、少しだけ困った顔で「いいよ」とうなずいた。
「ほんと?ありがとう!!お礼は絶対するから!」
「あはは、気にしないで。デート楽しんでね」
「ありがとう!」
倉庫から社会科教室に40人分の資料。
そんなもの、名字1人では絶対に1度では運べないと、考えなくとも分かるのに、名字は誰にも何も言わず教室を出ていく。
始めの方は何も思わなかった。ようやるのう、と半ば嘲笑うような気持ちすら持っていた。好きでやるのなら好きにしたらいいし、押し付けられているだけだとしても仁王には関係がないことだ。
それがだんだん感心に変わり、今は苛立ちに変わった。
名字のこういうところに、言いようもなく反射的にイラッとする。
苦に思っていない名字にも、引き受けて当たり前だと思っている他人の奴らにも、自分にも。
仁王は苛立ちのままに鞄を机に置き、彼女を追いかけた。
いつもなら、イライラしながら部活に向かうだろう。今日に限って追いかける気になったのは、彼女の背があまりにも小さく見えたせいかもしれないし、携帯を眺めて俯く横顔が泣き出しそうに見えたかもしれない。
全部言い訳で、ただ追いかけたかっただけかもしれない
資料室のドアは開いていた。
名字が携帯を見て、資料の山を見て、深い深いため息をついた。
「よしっ」
だが、それでも自分を鼓舞してやる気を絞り出すような呟きをこぼし、資料を纏め始める。
「名字」
声を掛ける時少しだけ躊躇いが声に乗って掠れた。彼女はキョトンと振り返る。まあるく見開かれた瞳が零れ落ちそうだと思ったが、すぐに彼女の目は半目の、うんざりしたような不審と疑問が乗ったジトリとした眼差しに変わった。
「仁王くん…」
彼女は思わずといったように口元だけで風のように囁いたが、目を逸らして硬い横顔で、トン、トン、と手元に視線を戻す。
仁王のことは視界に入れず、あの拒絶する空気を纏っている。
仁王は彼女にゆっくりと近付いて、目の前に立った。否が応でも視界に入る場所だ。
「こんなんすぐ終わらんじゃろ。俺もやる」
返事を待たずに資料を机から取って纏め始めると、ようやく彼女は顔を上げた。困惑と苛立ちがありありと浮かび、困ったように眉が下がっていた。
「…別に平気だよ。部活あるんじゃないの?」
「資料整理は充分遅刻の免罪符になるぜよ」
「……」
眉を釣り上げたかと思えば下げ、何度か口を開け閉めしてから、名字は何も言わずに作業を再開させた。仁王も口をつぐみ、埃っぽい倉庫の中で淡々とした時間が流れた。
古い紙の匂い、日の当たらない薄暗い部屋、埃でややもやがかったような空気、周囲の音も遠く、時間がゆっくり流れている。
随分久しぶりの会話だ。
そして、初めての会話は賭けで、次の会話とも言えない会話は名字が決定的に仁王を嫌悪した時だったから、まともに話したのはこれが初めてだった。
チラッと名字に視線を向けるとぱっちり目が合い、名字は猫が逃げるようにサッと俯いた。思わずクク、と喉で低く笑った仁王に彼女はさらに身体を固くする。
相変わらず、真面目そうな表情の中に感情があまりにも映し出している。
心の中が手に取るように分かる。
なぜここに、なぜわたしに、なぜ手伝いを、あーー考えるだけムダムダ、さっさと終わらせて退散しよう…。
大方そんなところだろう。
名字は目と眉に感情がよく出る。
それに隠すのも下手だ。なのになんでもない振りを装おうとして、まったく隠せもしないその不器用さが、仁王には面白く感じる時もあれば、無性にムカつく時も、いたたまれないような気持ちになることもあった。
「っあ〜…肩が凝ったのう」
2人でやっても30分以上かかった。ようやく纏め終わった古い資料の束を前に、仁王は猫のように欠伸をし、バキバキと肩を鳴らした。
名字も腕を伸ばしてほっとした顔をしている。
単純な作業だったが、だからこそ終わりがないようにも思えた。1人だったらもっとかかっていただろう。
「あの…ありがとう」
気まずさの滲む声で彼女はおずおずと切り出した。
「かまんよ。暇じゃったき」
「暇じゃないでしょ」
呆れ顔で名字が突っ込む。やや強ばりがほどけている。
「部活サボりたかったの?それとも…」口ごもり、「いや、なんでもない」と言葉を飲み込んで首を振る。
資料を半分以上持って、仁王は立ち上がる。また、名字が戸惑ったように礼をつぶやく。
社会科教室に運び終え、最後の点検を熱心にしている彼女に、仁王は肯定した。
「合っとるよ」
「え?ああ、うん…でも、一応確認しておいた方がいいかなって」
苦笑しつつ、作業する手は止めない。
仁王は続ける。
「聞いてみたかったんじゃ、おまんに」
「え?」
脈絡のない会話にようやく彼女が振り返った。その、眼鏡の奥のハッキリとした眼差しを見つめ、飄々と仁王は言う。
「あの男に都合よく扱われても、好きなんかとのう。セフレっちゅーのは俺と柳生の関係とはかけ離れた関係性じゃけど、それでもかまわんほど…ってことなん?」
ザー……っと絵に書いたように血の気が引いていく。名字は呆然としたあと、ゆっくりと唇を噛み、屈辱と諦めが綯い交ぜになった目で廊下に目を逸らした。
睨まれるかと思ったが、その気力もないほど彼女は小さく見える。
仁王の声に嘲笑は含まれていなかった。
けれども、彼女は心底傷付いている。
痛々しいほど態度に見えてしまうのに、気丈さは消えないところがあまりにも哀れみを誘った。
「…あなたには関係ない」
小さい呟きは掠れていた。
「ほうじゃの。けど、関係ない奴に言った方が気が晴れるんじゃなか?」
「それも賭け事?」
嘲笑うように突き放す声で名字はわらった。いいや、と仁王は首を振る。
「じゃあ、何」
「なんつったらええかの…とにかく、気になるんじゃ。おまんが。視線に気付いとったじゃろ」
フッ、と鼻で笑う。
「告白みたいなこと言うのね。それもお得意のペテン?」
「それだったら俺も楽だったんじゃが」
恋だったら、こんなに遠回しなことをしない。ため息をついて頭をく仁王に、名字は意外そうに目を瞬かせた。観察するように仁王を見る。
「……」
やがて、彼女は何も言わずに視線を落とした。
仁王は、名字を見ると、もどかしくなる。昔の自分をなぜか思い出す。それが嫌だった。
*
*
「なんでそんな変な喋り方なの?」
そんなことをよく言われた。子供というのは無邪気で残酷だ。
「…四国で暮らしてたきに」
「でもお姉ちゃんは普通の喋り方じゃん」
「……」
からかわれることを疎い、姉はできるだけ方言を隠し、標準語で話した。弟はまだ小さかったから方言はすぐに抜けたし、両親は元々関東の生まれだった。だが、仁王だけは引っ越して数年経っても引越しを繰り返すうちに身についた独特の喋り方を直していない。
半ば意地だったのかもしれない。
誰かからからかわれる、そんな理由で自分を変えることが仁王には酷く抵抗感があった。
他人と違う話し方。誰かと合わせてしたくもないことをすること。興味のないことに同意すること。
自分を通す仁王に人は言った。
「変わってるね」
今でこそ、それを個性だと捉えることが出来たが、小学生の頃は、言われるたびに仁王の中に何かを残した。
突き放されている気分になった。
誰と話していても、家族といても、誰にもわかってもらえない感覚。この広い社会で、仁王だけがぽっかりと浮かんでいる。そんな思いを拭えない。
やがて、仁王は何も見せなくなった。
変わってるね。
*
*
名字は俯き、視線を揺らしていた。痛みとも、屈辱とも見える。
あの男の背を見つめる縋るような視線を思い出した。
ポロッと雨粒が落ちるように、仁王の心に波紋が広がる。
そうか……。
「寂しかったんじゃな」
小さな呟きは、誰もいない教室にそっと響いた。名字が顔を跳ね上げる。仁王は自分の言葉に驚いたように目を丸め、「いや」と顔を背ける。
名字は昔の自分だった。
だから、いたたまれない。見たくもないのに見てしまう。
もどかしくてイライラする。
上手くやりたいのに上手くできない自分。言葉に出せない自分。声に出したら負けたような気がして、認めるような気がして、世界にたったひとりのような気がするのに、見ないふりをしていた。
人との、繋がり方が分からなかった。
そうか、寂しかったのか、俺は。
歪んだ笑みを浮かべる仁王を、名字は言葉もなく見つめている。
「……ほんとに、なんなの?なんでそんなに、バカにされなきゃいけないの?」
名字の目に見る間に透明な雫が盛り上がっていく。決壊寸前で、けれど最後の抵抗とばかりに、涙は頬を濡らさずにその場で留まっている。
仁王のつぶやきは、かつての自分を見つけ、自嘲するものだった。
けれど名字にも図星だったのだろう。
荒い息で名字がか細く怒鳴る。
「わたし何かした?寂しかったら何かいけない?なんなの?地味だから?セフレにされてて面白いから?友達がいなくて見下してるから?」
捲し立てると、深呼吸して唇を噛んだ。
仁王は近づくと、そっと彼女の顎をなぞった。
「跡になるぜよ」
「あなたが……っ」
「すまん」
自分でも意外なほど、その声はストレートだった。名字の眼鏡の奥の瞳がまあるく見開かれる。
「泣かせたかったわけじゃない。俺も…」
「……」
「俺も友達がいなかったぜよ」
「……」
「今分かった。おまんが気になるわけが。おまんは昔の俺に似てるんじゃ」
名字は何も言わない。挑むように睨む目は潤み、今にも浮かんだ涙がしたたりそうだ。
「けど、俺のことを柳生が見つけてくれた」
名字が、ハッ、と小さく息を飲んだ。いつか羨ましい、と言った名字の気持ちが仁王には分かった。そして、「柳生にとっていい人ならいいと思う」と言った彼女に、たぶん、かつての仁王が心動かされたのだ。
今なら分かる。
ひとりぼっちだった昔の仁王を肯定された気がした。
「名字は他人を拒絶してるくせに、他人に優しいじゃろ。褒めてる訳じゃなかよ。他人に利用されることでしか繋がれんのじゃろ」
悔しさと屈辱に名字が顔を歪める。傷ついた顔をする。だが、目を見つめて見下ろしたまま、仁王は続ける。
「俺とは真逆の方法じゃけど、見てて痛々しいと思っちょった。おまんは隠すのが下手じゃから、見つけてほしいと叫んどるのが俺にはよう分かったき、見てられんかった」
「見つけてほしい……」
名字は小さく繰り返す。初めて気づいたのかもしれない。
そして、無音で一筋の涙がつたった。
無色透明の綺麗な雫だった。
「なん…っ」
顔を覆って、しゃくりあげながら名字が言う。
「なんであんたなの…っ」
「さあな。けど、俺が見つけた」
きっと、色々なことが違う。けれど、同じだった。
俺らは誰かに見つけてほしかった。
名字が息を震わせる。
肩を上下させる目の前の小さな彼女を、仁王は胸の中に引き寄せた。彼女は身体を強ばらせ、瞬間的に拒絶しようとし……やがて腕からだらんと力が抜ける。
胸元が冷たくなっていくのを、仁王は窓の外を眺めながら感じていた。
空が黄昏に染まっていく。
仁王は彼女の丸い頭に、呟くように声を落とした。
「のう、名字。始まりは変じゃけど、こういう友情があってもええと思わんか」
「……」
「俺はこんなじゃし…他人を使って賭けで遊ぶような人間じゃけど。たぶん、おまんにとってのいい人にはなれると思うぜよ」
彼女が驚く気配があった。そして僅かに、けれどもたしかに、こくんとうなずくのが分かった。
その姿に、仁王はかつての自分を見た気がした。
昔、口うるさい柳生に、仁王はどうしてかまうんじゃと突き放すように言った。誤解されようが、悪く言われようが、そんなんおまんに関係ないじゃろ。柳生はきょとんとして、当たり前のように「友達が悪く言われたら悲しいでしょう。仁王くんは素直じゃないだけで、まっすぐな方なのに」と笑った。
その時胸の中を駆け抜けていった風が、今もずっと仁王の中で心地よく吹いている。
名字の「いい人」であろうとするのは、だからきっと、ひとりぼっちだった頃の自分に手を差し伸べることに似ているのかもしれない。
けれども、そんな関係があったっていいだろう。
柳生は仁王を見つけた。そして仁王は名字を見つけた。
橙に染まった窓の外で、葉が揺れているのが見える。今日も柔らかな風が吹いているだろう。
柔らかな風が吹く 02