柔らかな風が吹く 01

*3Bが最低です


 悪趣味だとは思うが、最近仁王と丸井は賭けをするのにハマっていた。くだらないネタから際どい下ネタまで色々だ。賭けるのは自販機のジュースだとか、放課後の掃除当番だとか、コンビニの菓子だとか。

 隣のクラスの岸の胸は何カップか。これは盛ってるCだと見抜いた仁王が勝った。A組の生徒会書記の元カノの人数。答えはゼロで丸井の勝ち。女バレの南野と男バスの西中がどれくらい続くか。2週間と答えた仁王が勝った。副校長がヅラかどうかは丸井の勝ち。
 おおよそ勝敗半々でこのくだらない賭けは、気が向いた時不定期に開催され、かれこれ半年ほど続いている。
 よっぽど暇なんだろう。
 この前仁王に告白してきた佐藤が次は誰に行くかは、幸村と答えた仁王も、オレと答えた丸井も外れ引き分けに終わった。まさかの真田だった。
 予想できない結果で、他人を使う賭けはこれだから面白い。

 次のターゲットをだべりながらコソコソと話し合う。顔を寄せ、しかし2人とも目は周囲を観察するように眺めている。

「告白されたことがあるかどうか」
「お、誰?」
「名字」
 小さく顎でしゃくると、丸井がこっそりと視線を辿った。花瓶の水を変えているポニーテールの女子だ。女子がやりがちな虫の触覚みたいな横髪も残さず髪を全て色気なく纏め、切りそろえられた前髪と、黒縁の眼鏡をかけている真面目そうな彼女。

「はぁ?あるわけねーだろぃ。賭けになんねー」
「そうかの?」

 丸井は馬鹿にしたように鼻を鳴らし即答したが、仁王は曖昧に濁して面白がるように口端を上げた。
「何か知ってんの?」
「や、何も知らんけど分からんじゃろ」
「そーか?お前の感性わっかんねー」
 呆れた声を上げたが、丸井はそれ以上反対することも無く、「じゃ、オレはトーゼンなし」と答えた。
「俺はありじゃ」
「結果はどうやって知る?あいつの仲いいヤツとか知らねー」
 今まではターゲットの友達などからさりげなく聞いたり、噂で確認していたが、名字は地味すぎてクラスでも目立たない。2人とも話したこともなかった。
 ふっと仁王と丸井は数秒見つめ合い、どちらともなく拳を上げた。


 ジャンケンで負けた仁王は数日後の放課後教室に赴いた。部活は忘れ物をしたと抜けてきたが、黙って抜けてもサボるのはいつものことだからそううるさく言われないだろう。真田だけは烈火の如く怒るだろうが。

 西日の射し込む教室で一人、名字が机に向かっている。今日彼女は日直だから残っているだろうと当たりをつけていた。
 もう1人の日直はバスケ部の男子で、授業終わりにすぐ部活に向かったのは確認済みだ。

 ドアの音に振り返った名字が仁王を見て、また顔を戻す。用意周到に机の中に残してきた教科書を掴み、歩みを向けて、名字の前に立つ。
 仁王の影がかかり、名字は一瞬肩を揺らすとゆっくり顔を上げた。

「……何?」
 その表情はやや固かったが、地味で大人しそうな見た目に反して、その瞳は不審げにまっすぐ仁王の目を見つめている。
 その強い眼差しと、焼けていない白い肌、意外と艶のある唇に、話そうと思っていた雑談をする気がなくなった。やはり、意外と怜悧な顔立ちをしている。この不信感を浮かべている強気そうな顔が、どんな風に歪むのかと好奇心に駆られて言葉をてらうことなく尋ねた。
「お前さん、今まで告白されたことは?」
「……はぁ?」
 眉根がギューっと引き絞られ、思ったよりも嫌そうに歪んだ顔に仁王は喉のあたりで低く笑う。名字はその笑いにも気分を害したらしい。
 素っ気なく、「突然なんなの?」と視線をノートに落とす。
「今、日誌書いてるから邪魔しないで」

 それっきり仁王の方を見ようともしない。わざと前の席に座り、名字の机に肘をついて見上げるように覗き込んでみたが、彼女は不快に眉毛をピクッと動かしただけで反応は示さない。
 からかわれていると頑なになっているんだろう。
 予想とは違う反応だが、心の動きが手に取るように分かり、面白くなって話し掛ける。

「のう、教えてくれん?」
「……」
「前から思っとったんよ。名字って真面目そうじゃけど、仕草は綺麗じゃし、顔も悪くないじゃろ。誰かから想いを寄せられたことくらいありそうじゃなって」
「それで褒めてるつもりなら、あなたの口説きセンスは最悪」

 端的に吐き捨てるように罵倒され、仁王は目を狐のように細めた。名字は大人しそうだが物怖じしない。真面目だが押し付けがましくない。地味だが、仕草はどこか色っぽい。

「そんな隠すようなことでもないじゃろ」
「しつこい。何でそんなことが知りたいの」
「ダチが名字のこと気になるんじゃって」
「あ、そ」
 流れるように嘘をついた仁王を冷めた目で睨み、肩を竦める。あっさりとした反応に見抜かれたのかと言葉を重ねた。
「つれないのう。照れたふりでもした方が可愛えよ。それとも俺が詐欺師だから信じられん?」
「どっちでもいい。気になってるなら尚更他人が尋ねることじゃないでしょ」
「…ほう、なるほどな。見た目通り真面目なんじゃな」
「あなたの言う真面目って褒めてないでしょ」
 苛立ったように名字が鼻を鳴らす。目は合わないが、だんだん返事を返してきていることに、自分のペースに巻き込み始めたと仁王はほくそ笑んだ。
 語気はどんどん強くなっているが、仁王を無視できなくなっている。彼女自身に興味はなかったが、あまりにもすげなくされるので、仁王は当初の目的を横に置いて、名字の反応を引き出したくなり始めていた。

 もうとっくに止まっているペンを持った名字の白い手に、おもむろにそっと自分の手を重ねてみる。ビクッと身体が揺れ、弾けるように彼女が振り払おうとしたのを読み、仁王はギュッと力を込めて握った。
 そのまま反対の手でペンを抜き去り、名字の拳を開いて指を絡めると、やっと目が合った。
 驚きと怒り、そして動揺が瞳に浮かんでいる。目尻が赤いのは照れのせいだろうか。眼鏡の奥が揺れていることに仁王は満足感を感じた。

「嘘じゃ」
「…は?」
「ダチなんて嘘。俺が気になっとる。な、告白されたことあるん?元彼は?」
「い、意味がわからない…」
「直接聞けって言うたのは名字じゃろ?じゃから恥を忍んで聞いとるんじゃけど、答えてくれんの?」
「……」

 仁王は眉をほんの僅かに下げ、目を少しだけ細めた。こうすると憂いを帯びた切なげな雰囲気になり、女子が言葉を失って、うん、と頷くことを実体験で知っている。
 すこぶる嫌そうな態度を取っていた名字も例に漏れず、みるみる頬を紅潮させた。唇を引き結び、耐えるようにギュッと目を瞑ったので、まさかキスでもして欲しいのかと思ったところで手を振り払われた。顔を近づけようとしていたので油断していた。
 心底からの深く、重いため息をつき、自分を落ち着かせるようにこめかみをグリグリ揉むと、ジットリと仁王を睨み、実に渋々といった様子で口を開く。

「あなたの言い分がすこぶる信用ならないとしても、まぁ、そう言ったのはわたしだし…」
「酷い女じゃのう。勇気を振り絞った男に向かって」
「チッ」
 我ながら白々しさが凄まじかったとは思うが、それにしても舌打ちは笑ってしまう。意外とガラが悪い。
「なんで知りたいのか知らないけど、告白はされたことある。彼氏は……」
 何故かそこで名字は言い淀んだ。
「いたことない」
 その返答をするのが恥ずかしいから、という風には見えなかった。眉を引き絞り、目尻を釣り上げた名字の表情は「怒り」だったが、眼鏡の奥で揺れる瞳はむしろ、傷ついているようだった。
 夕焼けが名字を橙色に浮き立たせる。
 妙に切なげな色気に、仁王は無意識に視線を動かせなくなる。

 何も言わない仁王に恥ずかしくなったのか、「もういいでしょ。さっさと部活行ったら」と張りつめた痛みを感じさせる表情を霧散させ、ふてぶてしく、小生意気で強気そうな目で仁王をしっしっと手で追い払った。
「ああ…ありがとさん」
 音が戻ってきて、仁王は何食わぬ顔で立ち上がり、教室を後にした。ふとした時の表情がやっぱりどこか色気がある。
 そうさせる男がいると仁王は何故か確信があった。
 名字に傷を与えた男はどんな奴なのか。
 今も好きなのだろうか。
 なんとなく面白くないような気分になり、仁王は名字の傷ついたことを押し殺す切ない顔を脳内で反芻した。切り取られたようにハッキリと焼き付いている。
 そして、あの顔を自分が浮かべさせたいと、嗜虐心と好奇心の狭間のような感情がゆっくりと胸中に渦巻くのを感じた。

*

 部活に戻ると丸井が寄って来た。

「おー、どうだった?」
「俺の勝ち」
「はぁ〜?マジかよぃ!」

 ありえねぇ、と疑わしく仁王を横目で探り、丸井はガムを膨らませた。
「お前一杯食わされたんじゃねーの?女子って変なとこでプライド高ぇだろぃ」
「バーカ、俺がそんくらいの嘘も見抜けないわけないじゃろ」
 ペテン師の名は伊達じゃないき、と匂わせて答えれば、往生際悪く粘っていた丸井もとうとうため息をついて結果を受け入れた。「バーカ」。親しみのこもった軽い罵倒はいつの間にか丸井から移った口癖だ。

「チッ、じゃあ今日の帰り何か買ってやるよ。ジャッカルが」
「俺かよ!」
「お前が答えんのかよ」

 この場にいないジャッカルの声真似をして答えてやると丸井は発作が起きたように笑った。仁王もつられて小さく笑って満足気にしっぽが揺れる。


 敷地のすぐ近くにあるコンビニは部活帰りの生徒で混み合っている。疲れているのに人混みに揉まれたくはないと、駅にほど近いゲーセンの方に向かった。
 いつも一緒に行く切原は小テストの壊滅的な点数がバレて真田と柳に残され、桑原は家の手伝いがあるとその自慢の体力で走って帰って行った。最近、親父さんのラーメン屋がクチコミで人気が出て忙しいらしい。柳生はゲーセンなんか行くような性格じゃない。

 通りに面する大きなゲーセンはうるさすぎるから、駅の裏通りの方のややしけた方にふたりは歩みを進めた。こっちはリズムゲームやシューティングなどはないが、昔から人気の格ゲーやカーゲームは揃っているし、何よりプリクラがない。
 プリ機が置いてあると女子たちがボウフラのように湧いて本当にやかましい。

「お前何買う?」
 賭けで買ったはいいが、仁王はあまり間食しない。いつもと同じ「なんでもええよ」と答えると、分かっていたように籠にカロリーメイトやウイダーを投げ込んだ。
 奢ってもらう菓子というには色気がないそれは、食にルーズな仁王への気遣いに似たものを感じ取れて、やや背中の後ろが痒くなる。
 気が向いた時にカロリーを手軽に摂取できる軽食は仁王にたしかに合っている。
 丸井は悩むことも無く倍以上の菓子をザカザカと籠に突っ込み、見ているだけで腹が膨れそうだ。コンビニやスーパーで数千円もかける丸井の金の使い方と食へのアクティブさにはいつも毎回少し引く。

「しかしあの名字がねー。意外とモテんのかな」
 そうは思っていない口調で丸井が呟いた。目は真剣にスイーツコーナーを物色している。
「さぁのう」
「全然タイプじゃねーけど変わった趣味の奴もいるもんだな。あー、あれか?同じようなタイプの中じゃ手出しやすいのかもな」
「蓼食う虫も好き好きって言うからの」
「ハハッ!お前も結構辛辣だよな」
 丸井も仁王も、性格はいい方ではない。それは他人に悪意をぶつけてストレス解消をする類の幼さではなかったが、他人への気遣いと執着が希薄が故の、そして他人から執着され消費されることへの息苦しさ故の、小さなしこりなようなものを、他人を使った賭けで僅かに慰め合うような幼さ。
 同じく他人から消費されるテニス部でも、このくだらない賭け事は丸井としか出来ないだろう。他の誰とも共有出来ない嘲笑での慰めは、どこかカラリと愉しい。

「何か悔しいから次もあいつで賭け出来ねーかなー。彼氏とか」
「彼氏は出来たことないらしいぜよ」
「じゃあ振ったってことかよぃ。エラソー」

 自分たちが誰かを選ぶ立場にいる傲慢さが、ナチュラルに彼らには備わっている。
 笑い合うふたりは、背後で睨めつける視線に気付かなかった。
「だが男日照りってわけでもなさそうじゃよ。話した限りでは」
「マジ?」
「大人しそうな他の女子はすぐ赤くなって、潤んだ目で見上げて来るじゃろ。そういう、なんつーの、うぶそうな感じがなかったぜよ」
「へー。仁王の顔に押されねー奴なんていねーのに」
「丸井も話してみたらええ」
「興味ねぇよ。まーいいや名字はもう。次の賭けは誰にすっかなー」

 丸井の顔の横に白い手が伸びた。
 商品に近付いていた丸井が邪魔だったのだろう。慌てて「あ、すいません」と避けた丸井が顔を上げ、目を丸くする。その表情に仁王も釣られて視線を上げて同じように固まった。

 渦中の人物──名字が、練乳プリンを掴んで実に酷薄な目つきでふたりを見ていた。

「げっ、名字…」
 丸井がヘラヘラしながら「あー、聞いてた?」と冗談めかして尋ねたが、彼女は無視してポニーテールを揺らし、背を向ける。
 無言で何も聞いていないように振舞っていたが、その死んだ虫でも見下ろすような瞳と、去り際に小さく吐き捨てたつぶやきで、会話を聞いていたことは明白だった。

 ──ほんと、男子って最低。

 その声は妙に仁王の耳に残った。
 教室で見た、傷を感じる表情にその声はよく似ていた。
 痛みを拒絶するような名字の様子にまた、仁王はぞくりと悪寒にも、静電気にも似た感覚を覚える。

 小さな背中に丸井が気まずさと笑いを含んだ声を洩らした。
「聞かれちまった。あれ、後で泣くんじゃね?」
「泣かんじゃろ」
 涙を流すということは、傷付けられたことを認めて、向き合うことになる。名字はそうしないだろう。今日少しの間話しただけだが、仁王はそう思った。
「ふーん?」
 どうでも良さそうに丸井は相槌を返し、またスイーツに視線を戻す。
 丸井はカゴの中が見えなかったのだろうか。見ていれば、下世話な興味を示すに違いない。
 カゴの中、他の商品と紛れる小さな箱に書かれていた、0.01ミリの文字。
 名字の痛みとその箱はきっと無関係ではない。理由のない好奇心が仁王の視線を彼女の小さな背中から離さず、仁王はコンビニから出ていく名字の横顔を不思議な熱を帯びた眼差しで追いかけていた。

*

 不器用なのか人がいいのか、名字はよく雑用を押し付けられている。
 ハッキリとした口調とまっすぐな眼差しだから、気が弱いと舐められているわけではないようだったが、下手から申し訳なさそうに「今日予定があって……」と俯きがちに頼まれると、「いいよ、予定ないし。代わるよ」と少し眉根を下げてホイホイ掃除当番などを代わってやっているのだ。
 それに、他人が気づかないような細々としたことを、こまこまと飽きもせずにひとりで働いている。
 花瓶の水を変えたり、黒板消しをはたいたり、後ろの壁に並んでいる本棚を整理したり。

 誰に頼まれるわけでもなく、けれども掃除に楽しさを見出している風でもなく、淡々と真顔で動き回る名字を、仁王はひっそりと眺める。
 損な性分じゃのう。
 今も移動図書から借りた書籍の貸し出し目録を淡々とチェックしている。視線は合わない。だが見られていることには気付いているだろう。
 仁王も視線を隠してはいないし、現に背中がどんどんと強ばり、後ろ姿から他人を気にするオーラのようなものが立ち上っている。もちろん比喩表現だ。けれど、見られていることに気付いていて、それを気にしないように頑なになる仕草が、名字は分かりやすい。

 振り返らないかと、仁王は思った。
 無視に努める名字の反応も悪くは無いが、思わず目が合って、嫌悪感をいっぱいに浮かべる一瞬の表情が仁王は嫌いではなかった。

 嫌悪する人間に対する表情は知っているが、好きな奴に向けられる表情はどんなものなのか。友達への気が抜けた楽しそうな笑顔でもなく、同級生に向ける仕方ないなと言わんばかりのお姉さんぶった表情でもなく、痛みを抱えても好きでいる男に対しての表情。
 ハートマークが浮かぶうっとりした他の女子みたいな恋する顔?
 好きだということも隠して強がって、けれど目尻の赤みは隠せない顔?
 素直に喜びを浮かべる幸せそうな顔?
 仁王にしては珍しく、想像も出来なかった。
 どの表情も名字にしっくり来ない気がするのだ。


 その答えを見たのは偶然だった。

 部室棟のある海林館は吹き抜けの廊下を通って2号館の横を突っ切るのが早い。部室棟は、テニスコートが近いことも相まって他の部の奴らはあまり来ないので、仁王のサボりスポットの1つだった。
 去年関東準決まで行き、関東常連のサッカー部の部室には大きなソファがある。仁王はよくそこで寝るのが好きだった。

 2号館の側の吹き抜け廊下は、白樺や松が植えてある。その木々の下でふっと名字の横顔が見え、仁王は視線を向けた。
 授業が始まるギリギリの時間。もうすぐ予鈴が鳴るだろう。仁王はこのままサボるつもりだったが、真面目な優等生の彼女が今の時間ここにいることが少し意外だった。
 木の影に隠れていたが、誰かと向かい合っている。

 名字は何か眩しいものを見上げるような瞳をしていた。
 音が鳴るように仁王は気付いた。相手は見えないが、きっと今会っているのは、名字を惹き付けてやまない男だと。
 音を立てないように少しだけ近付く。
 風に乗って小さく声が聞こえる。
 相手の男は柱の影になって見えなかったが、おそらく高校生だろう。

「授業始まっちゃう…もう行かないと」
「あー、そんな時間か。じゃあ今日家に行くわ。親いないんだろ?」
「うん。何食べたい?」
「なんでもいいよ」
「…そっか。じゃあ親子丼とかは?」
「んー、気分じゃねぇな。肉は?」
「わかった。豚肉買って帰るね」

 影から背の高い黒髪の男が顔を出し、名字を抱き寄せて唇を落とす。彼女の頬が遠目にも色付いたのがよく分かった。
 嬉しそうにしながらも眉を下げ、慌てたように制止する。

「ちょっ、外では辞めてよ。人に見られたら…」
「いーじゃん、誰もいねぇって」
「全くもう……じゃ、夜にね」
「おー」
「あっ、待って、今日は泊まるの?」
「あー、いや、明日はえーから帰るわ。メシと名前だけ食いに行く」
「下品な言い方よしてよ」
「なんだよ、期待してるくせに」
「もう!」

 手を上げて去っていく男が見えた。名字はその背中を切なそうにも、悲しそうにも見える表情で見つめ、居なくなるまでそこに立っていた。
 誰もいなくなると、音にもならない小さなため息をつき、俯いた。

 そして廊下の方に歩き出す。
 仁王は隠れるつもりはなかった。

 渡り廊下の傍で名字は佇む仁王を見つけると、眼鏡の奥の瞳を零れ落ちそうなほど大きくし、柳眉をギュッと引き絞る。怒りと羞恥の混じった表情だ。
 仁王は名字を見つめたまま、面白がるように唇に笑みを浮かべて見せると、何か言いたそうに唇を震わせたが、結局何も言わずに仁王に煮え立つような睨みを浴びせて踵を返した。

 ソファに寝転がって、名字の表情を瞼に浮かべる。

 高校生の男と名字はどうやら深い仲らしい。
 キスをしている時に見えた男の横顔に、仁王は見覚えがあった。2つ年上の、たしかバスケ部のエースだ。1年の時の文化祭でバンドを組んでギターを弾いていたのを見たことがある。
 2つ上の代の仲ではかなりモテる男で、仁王の同世代にもかなりファンがいる。
 そして、いい噂をあまり聞かない男だった。
 仁王も人のことは言えないが、女遊びが激しいだの、他校生の女にビンタされているのを見ただの、サッカー部の彼女を寝とって揉めただの、女関係の噂がよく中学の方にも流れてくる。

 名字は彼女なのだろうかと一瞬思ったが、すぐに違和感を覚えた。最近あの先輩についての話を聞いた気がする。
 たしか、2週間くらい前にセフレの女が何か言っていたような……。

 携帯を取り出してセフレにメールを送ると、授業中だというのにすぐ返信が返ってきた。
 先輩のことを尋ねると、やっぱり仁王の思った通りだった。メールには「たしか1個上と付き合ってるはず!今回ガチらしくて、もう3ヶ月も続いてるらしいよ。エミリがフラれたって泣いてたー。なんで?」とうるさいくらいの絵文字と共に書いてあった。
 返信はせずに携帯を閉じる。
 つまり、名字はセフレということだろうか。

 他人の色恋なんてどうでもいいし、セフレだろうと関係がないはずなのに、嘲笑よりも先に虚しさに似たものが仁王の中にじわりと浮かんだ。

 いつでも誰かにいいように使われている名字は、恋愛でも都合のいい女というわけだ。

 たぶん、本人も分かっているだろう。
 それでも名字はあの男に恋をしているから、痛みを伴ってもそばにいたいのだろうか。
 仁王は誰かにそんな感情を抱いたことがないから分からない。仁王だって、誰かのセフレになったり、セフレを作ったり、気が向けば彼女を作ったり、そんな付き合い方ばかりだ。誰かにどうこう言うつもりはない。
 なのに…汚泥に手を突っ込んだように、嫌な気持ちになるのは何故か自分でも分からなかった。

*


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