怖くねえよ、あんたと約束したからな


「俺ァ王様になるんだよ」

 その人は子供のような無邪気な顔で、よくそんなことを仰っていました。任客の方とも違う一風変わった刺青を上半身いっぱいに彫り、自分が囚人であることや、強盗をして生計を立てていることをなんら臆面も無く話題にする方で、わたくしは最初彼を恐れていました。
 でも彼はわたくしをまるで猫でも愛でるように優しく抱き、まぐわった後はその逞しい腕にわたくしを抱いて目を細めながら夢を語るのです。
「王様?」
「ああ。どこか暖かい島に、小さくてもいいから国を興すんだ。子供をたくさん作って、俺の家臣たちも連れて果物を売ったり漁業をしてさ。俺と俺の家族たちのための国だ。いいだろ?」
「ふふ、楽しそうな想像ですね。きっととてもいい国になるわ」
「オイオイ、ただの妄想だと思ってやがるな?それで終わらせるつもりは毛頭ねえんだぜ。金のアテもなくはねえし、国を作ったあとやりたいことだって色々考えてるんだ」
 房太郎さまはわたくしの頭を撫でながら尋ねました。「お前さんにゃ夢はねえの?」わたくしはそれにクッと胸を押されるような虚しさを感じました。
 親に売られ、前借金に縛られて恐らくは死ぬまで殿方に抱かれて生きるしかないわたくしが、どうして夢など持てましょうか。
 屈託なく希望を持てる房太郎さまを眩しく思いつつも、わたくしはどこか彼が羨ましかった。自由で、自分の足で道を切り拓いてゆける彼が。房太郎さまに買われた後、わたしはいつも甘い胸の痛みと同時に己の惨めさを突き付けられるような心持ちになりました。

 彼は何故か、定期的にわたくしの元へ通ってくださいました。
 夢を聞かれる度、始めは曖昧に微笑んで誤魔化していましたが、彼は優しくないお方で、わたしに難しい問いかけを課題として出していくようになりました。
「いきなりでけえ夢を持つのが難しいなら、小さいことから考えようぜ。自分の人生に希望を持てないなんて、死んでるのと何が違う?」
「房太郎さまの目には、わたくしは死人に映りますか?」
「見えるね。人形みたいなのっぺらぼうだ。本物の方がまだ目が燃えてら」
「まあ、正直でいけずな方」
「だから俺が生き返らせてやるよ。とりあえず、そうさな……何が好きなんだ?」
「何が、とは?」
「食いもんでも、趣味でも、動物でもさ。ひとつくらい好きなもんがあるだろ?」

 そう問われ、久しぶりに自分の好きなことについて考えました。毎日毎日、殿方の欲望に付き合って求められて、安い恋愛ごっことも遠の昔に思い込めなくなった灰色の人生。
 房太郎さまは呆れたように笑いました。
「好きなことすら分かんねえの?」
 そのお声は馬鹿にするような口調なのにどこか寂しさが滲んでいるように感じられました。同情も憐憫もあったかもしれません。でも、共感のように聞こえました。

「お刺身……」
 ぽつり、と口から独り言を零すと、彼は嬉しそうにわたしに耳を寄せました。
「おっ。何だって?」
「……お刺身が好きでした。新鮮な生魚を捌いて、山葵や大根おろしを付けていただくのです」
「美味そうじゃん!何の魚?」
「ニシン、鰹、ホッケ、烏賊……色々食べました。都会の方はあまりお召しにならないようですけど、わたくしはアブラコのお刺身が一等好きで……」
「アブラコって外道でよく釣れるやつ?」
「ええ。美味しいんですよ。白身がさっぱりと淡白な上品さがあって」
「ふうん。食ってみたくなるな」
「ぜひお試しになって。魚屋に持ち込めば捌いてくださると思いますよ」

 懐かしくて久しぶりに暖かい気持ちになりました。わたくしは親に売られて遊女になりましたけれど、家が貧しくて仕方なかったということも理解していました。
 わたくしは弟がふたりいて、祖母と祖父も同じ家に住んでいたのですけれど、田舎で自給自足で暮らすにはわたくしの家は余裕がなかったのです。父が日清戦争に徴収され足を怪我してからは、家はますます厳しくなりました。
 こんなお上品な言葉だって当時は知らなかった。遊女になって口調も、仕草も、教養も、男性の悦ばせ方も学んだのです。あの頃のわたくしは無垢で愚かで希望を持っていた、ただの少女でした。
「なんで刺身が好きなの?」
「……美味しいから?」
「ブハッ!そりゃそうだろーけどよ!」
 彼が突き飛ばされたように大声で笑うので、わたくしもつられてクスクスクスクス喉を震わせます。お客様とこんな風に、肉欲の発散以外の触れ合いをするのは滅多に無くて、房太郎さまとお話するのはとても楽しかった。彼はしつこく笑っていて、目尻に涙さえ浮かんでいるようでした。頭を乗せた肩が笑うのと一緒にカタカタ揺れるのが不思議なほどいい気持ちでした。



 次に房太郎さまが会いに来てくださると、「土産だ」と彼は風呂敷を掲げました。
 気に入りの遊女に貢ぎ物をくださる殿方はあまたにいらっしゃるけれど、房太郎さまがわたくしに何かを持って来てくださるのは初めてです。
「これは?」
「広げてみなよ」
 風呂敷の中には桐の重箱がありました。蓋をそっと開けると、美しく盛り付けられたお刺身が華のように目に飛び込んできます。思わずハッと顔を上げると、悪戯の成功した少年のようにニコニコとわたくしを見下ろしている彼と目が合いました。
「好きなんだろ?」
「アブラコのお刺身……」
「ああ。さっき取ってきて捌いてもらったばっかりの新鮮なやつだぜ」
「覚えていてくださったのですか?」
「当然だ。生き返らせてやるって言っただろ?」
「嬉しいです……房太郎さま」
 何故か鼻の奥がツンとするような心地が湧き上がりました。

「新鮮なうちに食っちまおうぜ。俺も味が気になるしな」
 奉公人を呼んで机と座布団を整えさせ、ふたりで並んでお刺身を囲みました。準備良くお醤油まで持ち込んだ彼に吹き出してしまいました。
 わたくしは位がそこまで高くない遊女です。足を運んでくださるお客様は、たいてい部屋に入るなりわたくしをかき抱いて、用を足すように出すものを出してしっとりとした時間を過ごすことが多いものですから、ふたりで過ごす時にこうしてお食事をゆっくり囲むのは初めてです。
 お食事やお酒を楽しみたい場合は座敷で複数人でおもてなしして、芸事をお披露目するものでした。
 房太郎さまは一等変わっていらっしゃいます。閏事の、ただの遊女の言を覚えていて、わざわざこうして叶えてくださるだなんて思いもしませんでした。

 ふたりで食べるには少ないお刺身を、惜しむように味わっていただきます。
 白身魚特有のスッキリとした味わいと、脂身の多いアブラコ特有の旨みと甘みが国の中に広がって、後から山葵が鼻の奥にツーンと効いてきます。
「こりゃ美味いな!けっこうコシがあって食いごたえがある」
 にゅる、とした柔らかく弾力のある少し固い身が口の中でほどけていきます。
 真っ白のお米を一緒にいただくと、お米の甘みも相まってとっても箸が進み、あっという間にお刺身が減っていきました。
 豪快にかきこむ房太郎さまの食いっぷりが気持ちよくて、知らず知らずに笑顔が浮かびました。美味しいものを食べる機会は多いけれど、こんな風に穏やかな気持ちでご飯をいただくのはいつぶりでしょうか。
 美味い、美味いと口を膨らませる房太郎さんのほっぺたに白粒がついていて、わたくしは彼の頬に手を伸ばしました。
「うふふ、子供みたいですよ」
「ついてたか?ありがとな」
 照れくさそうにはにかんで、大きな肩を小さくすぼめる房太郎さまが可愛らしくて可愛らしくて。
 最後の一切れは、わたくしに食べさせてくださろうとするので、遠慮して「房太郎さまがお持ちくださったものですから」と断ると、お刺身をご飯に乗せて箸で持ち上げわたくしの口元に差し出しました。
「ほら、いいから食いなよ」
「そんな、恥ずかしいです……」
「食わせてやりてえんだよ、俺が」
 おずおずと小さく口を開けます。箸に乗ったご飯が多くて大きく開けなければいけないのが恥ずかしかったけれど、彼はかまわず「そんなちっせえ口じゃ入んねえぞ」と笑いました。
 みっともないとか考えることが、言い方は悪いのですがなんだかもうどうでも良くなって、それよりも彼が手ずから食べさせていただくのを楽しんでやろうという半ばヤケになって、わたくしは殿方のように豪快に口を開けました。
 パクっ、と一口に食べると「いい食いっぷり」とからかうので軽く睨んでモゴモゴ味わいます。歯が見えるほど大きく人前で口を開けて食事をするなんて、淑女にあるまじきはしたなさですけれど、彼はむしろ嬉しそうでした。

 こうしていると少女時代を思い出しました。
 わたくしは山や川を駆け回る野生児で、土にまみれたり、畑仕事のお手伝いをすることもありました。泥まみれになって身体を動かし、疲れ切った日のお夕食はとりわけ食が進んで……。
 噛むのもそこそこに飲み込むように食事をするわたくしに、母がよく「そんなに急いで食べると、今に喉に詰まらせて死んでしまいますよ」と呆れたように叱責したものでした。
 もう、ほぼ思い出すことの無かった故郷や家族の思い出が、歳を経るごとのに脳内で美化されて瑞々しく香ってくるようです。
 アブラコは、わたしにとっては「家族」の味でした。

 食事の後身体を重ね、疲れに心地よく微睡んでいると、房太郎さんがわたくしに語ってくださいました。
「あんたの食う姿を見てたら、俺も久しぶりに山菜やら茸やら食いたくなったよ」
「お山の育ちでしたの?」
「家が林業を営んでてな。山も近くにあったし、ガキの頃よく山の幸を取りに入ってたんだ」
「わたくしの家は……海の近くにありました。親戚の漁師がよく海の幸を差し入れにくれて……」
「だから刺身が好きなのか?」
「ええ」
「なるほどな。故郷の味ってことか……」
「はい。家族の味です。もう忘れたと思っておりましたけれど……今日それを思い出すことが出来ました。房太郎さま、ありがとう……」
 彼の頬に唇を寄せると、彼がぎゅっと抱きしめて口を吸ってくださいました。色を帯びた熱っぽいものではなく、触れるだけの柔らかな接吻です。そのまま優しくわたくしの髪を、たくましい腕で撫でてくださいました。



 彼はそれからも、なかなか胸中を口に出せないわたくしに辛抱強く問いかけては、ささやかな望みを叶えてくださいました。
「梅の花を持ってきたぜ。白い小さな花に当てはまるよな?」
「ありがとうございます。わたくし、この香りが好きなのです……甘いのに胸をスーッと掛けていく爽やかな香りが素敵で……」
「気に入ったか?」
「はい。とても」
「良かった。あんたみたいな匂いだな」
 房太郎さまは、切れ長で冷涼としたまなじりを緩めて、梅の花をぷちりと手折ると、わたくしの上げた前髪を太い指で軽く撫でました。
「うん、綺麗な顔に良く似合う」
 手鏡で見てみると、簪の合間に差し込むように梅の花が飾り付けてあって、急に春が訪れたように頬が熱くなるのを感じました。思わず俯いて頬を隠すと、全部見抜いている房太郎さまがくつくつとお笑いになるものですから、ますます顔の熱さが増してしまいました。

「せっかく飾ったんだ、髪を乱すのは惜しい」
 意地悪な笑顔が彼には良く似合います。服を脱ぐのもそこそこに、彼はわたくしを膝に乗せ、軽々とわたくしを揺さぶりました。
 荒らげた息と刺すような眼差し、汗と熱気、そして身体に纒わり付く梅の匂い。快楽による生理的な涙を流しながら、ぼうっとする頭の片隅で、梅の花がもっと好きになってしまったわ、なんてことをよぎっていきました。きっと梅の花を見るたびに彼のことを思い出すようになる、と。

「俺は強盗だから、この梅も奪っちまおうと思ったんだけどさ」
 彼がぽつりと言いました。まぐわいを終え、気怠い独特な雰囲気を漂わせて彼がわたくしを見下ろしています。はだけたお着物から見える胸板や脚は、暗い部屋を照らす行灯の光で、最中よりもずっと彼を色っぽく見せていました。
「せっかく好きなものを教えてもらったのに、汚いもんじゃ勿体ねえかなって思ったんだ」
「汚いだなんて、そんな」
「いいんだ。今更生き方を曲げる気もねえよ。でも女の笑顔は綺麗なもんで飾ってやりてえだろう?」
 房太郎さまはクシャッと邪気のない笑みを浮かべました。時折こうして、息の止まるような甘いことを仰ってくださるから、わたくしは切なく胸が疼いてしまうのです。
「梅の花は切らねえと上手く育たねえんだってよ。ちょうど庭の梅を剪定してる爺さんがいたから、手伝ってやる代わりに譲ってもらった」
「まあ、わざわざお手伝いを?お疲れではありませんか?」
「そんなヤワじゃねえよ。むしろ楽しかったな。木の世話をするのは久しぶりだった」
 重たい白煙をくゆらせながら、房太郎さまは唇を釣り上げ、どこかを見るような瞳で仰いました。細められた瞳は、きっとご実家の林業のことを思い出されたに違いありません。
 お客様に踏み込むのはご法度ですけれど、彼の横顔がか細い三日月のようで、わたくしは思わず彼の腿に手を擦り寄らせました。
「……ご実家のお手伝いには戻りませんの?」
 言ってすぐにわたくしは後悔しました。房太郎さまは僅かに──本当に僅かに眉を下げ、「誰も待っちゃいねえさ」と穏やかに微笑みました。
 このような笑顔を浮かべる人だなんて知らなかった。
 慰める言葉も掛ける言葉も持たず、わたくしにできることと言えば、彼の刺青だらけの胸元に接吻を落とすことだけでした。
「もう一度あんたを味わいたいな」
「夜が明けるまで、いくらでも……」


 房太郎さまは北海道のあちこちに色々赴いているようで、その先々に気に入りの遊女がいらっしゃるのであろうとは予想していました。わたくしも、わたくしに良くしてくださる気に入りのお客様がおりますし、お金と肉欲で繋がる男女に何も期待などあるはずもありません。
 それでもやはり、そう自分を律していても、房太郎さまがわたくしの心を占める割合がどんどん大きくなっていきました。

 他のお客様に抱かれている時に、いただいた香が薫ると否応がなしに身体が火照ってしまったり、けれどわたくしを掻き抱く腕があの方のものでは無いことに胸が切なく疼く夜を何度も重ねました。
 手紙をくれるような筆まめな方ではありませんから、わたくしはただ、狭い座敷の中で房太郎さまが気まぐれに訪れるのをぢっと待つだけ。
 お土産にくだすった甘物を、少しずつ、少しずつ食べては、虚しくなったり、甘やかな気持ちになったり、彼がいなくても彼のことを考えてはわたくしの心は忙しなく揺り動きました。
 遊女が恋など、なんとおかしく、愚かなことでしょうか。
 房太郎さまは酷い方です。いけずで、お優しくない方。それなのにどうしてこんなにもあの方に囚われてしまうの。

 久しぶりに訪れてくだすった彼は不機嫌で、見たこともない雰囲気を醸し出していました。慌てて駆け寄ったわたくしを布団に雑に組み敷くと、前戯もなおざりに熱く猛ったものを突き刺され、わたくしは彼の荒々しさにただ翻弄され気付けば脳天が白く弾けていました。
 何度も何度も白濁を注ぎ込んで、空が白み始める時分になってようやく房太郎さまは満足なさったようで、息も絶え絶えなわたくしを、眉を下げて眺めました。
 月光の青白い光をぼうっと背負う彼が、何を考えているかわたくしには分からない。申し訳なさそうな顔でも、哀れみでも、後悔でもないように思われました。
 房太郎さまの瞳は、いつも光がありませんでした。「夢を抱いて前向きに」と仰るわりに、今の房太郎さまは寂しそうで、何かを諦めたように見えました。

 彼の大きな手のひらを指先でそっとなぞると、ぴく、と節ばった関節が動きました。先の尖った美しい指先を僅かに握りしめ、わたくしは囁きます。
 欲望と機嫌をぶつけられるだけの、道具と変わらないわたくしですが、わたくしにだって感情があるのですから、彼に何かをぶつけてやりたくなりました。酷いことを言ってやりたくなりました。彼が好きなのに、彼の心に傷をつけてやりたくなるのは、どういう感情なのか自分でも分かりませんでした。

「遊女は殿方の癇癪を受け止めてやるのがお仕事ですけれど、あなたが家族や国を持ったら、癇癪をぶつけてはなりませんよ」
 房太郎さまは特徴的な眉を上げました。
「家族も家臣も、ただの他人なのですから。我慢の範疇を超えたらあなたはまたひとりになるわ」
「黙れよ。俺の国から誰も俺を追い出せない」
「ええ。だからみんなが出ていくのでしょうね」
 凄い力で首を締め付けられて、わたくしは声が出せなくなりました。ギリギリと片手で首を持ち上げられ、指が食い込むのが分かります。房太郎さまは深い海の底や、真夜中の山の奥のような目つきでわたくしを睨み、真顔でぢっとわたくしを見下ろしていました。
 息が出来なくて口から涎が零れ落ち、頬を伝って彼の手を汚していく。房太郎さまを形作る人間の皮をひっぺがした、中の彼を初めて見たような気がして、このまま死んでいくとは分かりながらも、何故かわたくしは何かが満たされるような気持ちになりました。

 しかし、ふっと房太郎さまは手を離し、苦笑いのようなものを浮かべました。
「げほっ、ごほっ!」
「何だあんた、死を恐れてないの?」
「ごほっ……」
「話せねえか。ごめんな、カッとなって。あんまり寂しいことを言うもんだからさ」
「死を……恐れていないわけではありません」
「へえ?でも、あんた笑ってたぜ。満足そうで、殺す気がなくなっちまった」
「満足そうでしたか?」
 わたくしはまた笑ってしまいました。
「初めて見る房太郎さまを見つけられたので、笑ったのかもしれません」
「怖かった?」
「はい……とても」
「はは。でも俺はまたお前を抱くぜ」
「良かった……。もうお越しにならなかったらどうしようかと」
 わたくしは涎塗れの唇で、房太郎さまの口を吸ってやりました。彼はキョトンとして、「ブハッ!」とお笑いになって、犬でも撫でるようにわたくしの髪をぐしゃぐしゃに乱しました。
「あー……。変な女だな、あんた」


 その日以来、房太郎さまは彼自身のことを色々教えてくださるようになりました。
「俺の家族は14人もいたんだ」
「14人?すごく大家族でいらっしゃるんですね」
 なんでもない閏の雑談で、彼が普通の顔をして言うので、それが過去形だということに返事をしてから気が付きました。しまった、と思うけれど彼に気にした様子もなく、悲しそうな顔もせずに彼は続けました。
「死にきれないくらいいたのに、俺以外全員疱瘡にかかって死んじまった。病気にかかった家への地元の対応、分かる?」
「……ええ。わたくしも、田舎育ちなので」
「そっか。俺も家族も白い目で見られて、居場所が無くなった。だから俺は俺の国を作って、俺の大事な奴らが誰も他人に追い出されない、俺の居場所を作りてえなって思ったんだよ」
「それで国、なのが房太郎さまらしいですね……」
「よく言われる。やっぱさ、男の子なら夢はドーンとでけえ方がいいだろ?」
 殺されかけたのが嘘みたいに、彼の腕の中でクスクス笑うのは幸せな気分でした。房太郎さまも、時折わたくしを手酷く抱くことはありましたけれど、それでもわたくしを労る素振りを見せてくださるようになりました。
 遊女に対して気遣いだなんて、本当はいらないのに。
 言わなくても、わたくしがそれを望んだことを彼は見抜いていて、叶えてくだすったのです。
「この前、家族はただの他人だって言ってたけど、なんでそういう考え方になったんだ?家族と上手くいってなかったのか?」
「いいえ。とても仲のいい家族というわけではありませんでしたけれど、ある程度まとまりのある関係だったと思います」
「じゃあなんで?」
 わたくしは瞳を少し伏せました。苦笑いが自然と零れます。
「家は貧しくて……女手は山や海で肉体労働が出来ませんから、遊郭に売られたんです。13の頃でした」
「ひでえな。家族だってのに。恨んでないのか?」
「恨んでませんよ。そういうものなのかなって、その時から悟ったんです。子は親の道具で、妻は夫の道具で、部下は上司の道具で、遊女は店の道具だって……」
「悟った割には、あんたは怒ってたけどな」
「だって……」
 罰が悪くてわたくしは身じろぎしました。軽く彼を睨みます。
「房太郎さまのせいでしょう。あなたがわたくしを生き返らせなかったら、わたくしは喜びも、悲しみも、怒りも、また味わわなくてすんだのに」
「ははっ!俺のせいか!」
「何故お笑いになるのですか。わたくし、困っていますのに」
「嬉しいだろ。なら、俺はあんたにとって結構デカい存在になったよな?」
「何を今更……」

 もうとっくにわたくしの中をいっぱいに占めておりますことよ。

 囁いて、恥ずかしくて彼の肩口に顔を埋めると、房太郎さまは顎を軽く掴んで視線を合わせてきました。
「じゃあ約束してくれよ」
 熱っぽい切望さが籠る、低くて艶のあるお声。
「あんたを生き返らせた俺を忘れないってさ」
「……約束いたします」
「ほんとか?あんたにいつか子供が出来たら、その子供にも伝えるんだぜ?海賊房太郎こと大沢房太郎が、あんたに生きる希望を与えたって」
「大沢、房太郎……」
「ああ。俺の本当の名前だ」

 何故か、ほろ……と涙が零れてしまいました。
 涙と一緒に、言ってはいけないことも零れていきました。

「あなたの国に、わたくしも……わたくしも……」

 房太郎さまはクシャッと目を細めて、唇を釣り上げました。真夜中の月みたいな笑顔で、眩しくて、恐ろしくて、覆い被さるような彼に、わたくしの心臓が破裂しそうなほど音を立てました。

「やっと言った。望み通り、あんたを奪ってやる」

 わたくしはとうとう、声を上げて泣いてしまいました。



 房太郎さまがわたくしが愛してくだすっているとは思いません。彼の寂しさをわたくしが埋められるとも思わないし、彼の考え方も、見る世界も、生きてきた歩みも何もかも違う。
 彼がどうしてわたくしを奪ってくださるのかも、わたくしは存じ上げません。
 でも、彼と出会ってわたくしは生き返りました。
 彼と過ごす時間はいつも光に照らされているようだった。
 房太郎さまはわたくしに夢を見せてくれました。彼と共に生きる夢を。

 わたくしは彼の訪れを待ちました。
 国を作るために今彼は、必死に活動していると教えてくださいました。お金を手に入れるアテがあって、それが手に入ったら、わたくしを奪いに来ると。
 囚人のお友達から有力な情報を得て、札幌のアイヌに会いにいくから、暫く来れなくなると言われ、寂しさを募らせながらも、わたくしは彼が逢いに来てくださるのを楽しみに数えました。

 ひと月が経ち、三月が経ち、半年が経ちました。
 こんなに長く彼と身体を重ねないのは初めてで、冬を過ごすのがとても寒かった。
 わたくしは彼をぢっと待ちました。
 房太郎さまがわたくしを奪いに来るとおっしゃったから、寂しかったけど、不安ではなかった。

 そして春の半ばに、わたくしに新しいお客様がいらっしゃいました。
 坊主頭の白石由竹と名乗る青年は、房太郎さまのお友達だと。

「その……あいつに、この遊郭の遊女に伝えて欲しいって言われて」
 彼は、桐の小箱をわたくしに差し出しました。中には艶やかな黒髪がひと房、入っていました。
「あんたの心だけは奪っていくって……」

 脳内を、房太郎さまとの思い出が走馬灯のように駆け巡って、わたくしは髪の毛に縋りながら泣きじゃくりました。
 ああっ、房太郎さま……。
 白石さまから彼の最期を聞き、もういないことを聞き、脳みそが焼き切れそうなほどの痛んで、心臓が潰れそうなほど虚しくて……。
 きっと、房太郎さまがわたくしの心を持って行ってしまったから、こんなにも苦しいのだわ。

 南の国の青い空がいつしかわたしの頭の中に浮かぶようになっていました。青空がずーっと続いていて、白い雲がふよふよ浮かび、足元には砂浜と青い海があって……背の高い木に橙や黄色の実がたっぷりと成っていて、房太郎さまがわたくしにそれを食べさせてくれたり、暑い夜に汗をかきながら乱れたり、海の中に潜る彼を島から流れたり……。
 そんな夢想が、わたくしの頭にも住み着くようになっていました。
 奪ってくれると言ったのに。
 房太郎さまの嘘つき!

 でも、やっぱり房太郎さまはずっと約束を守ってくださいました。
 彼はわたくしに夢を見せてくれた。
 心を与えて、希望を与えて、そしてそれを奪っていきました。
 わたくしの全ては房太郎さまのものだった。

 房太郎さま……。彼は最期、何を想ったのでしょうか。恐ろしかったでしょうか。悲しかったでしょうか。虚しかったでしょうか。
 わたくしは彼の世界には入れなかったけれど、最期に少しでも……少しでもわたくしを思い出してはくれたでしょうか。
 わたくしは、ただ、終わったことに涙を流すことしか……彼の死がせめて安らかであったようにと祈ることしか出来ません。

 房太郎さま。
 今度はわたくしが、あなたとの約束を果たす番です。きっとわたくしは生涯この痛みを忘れることが出来ないでしょう。
 あなたがわたくしを生き返らせたせいだわ。
 黄泉で房太郎さまに、きっと文句を言いつけてやりますからね。執念深く、わたくしの子供にも愚痴愚痴と言ってやるんですから。
 大沢房太郎っていう、酷い方がいたのよって。


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