「何その写真?」
名字名前は友人達がきゃらきゃら盛り上がっていた写真を何気なく覗き込んで、パッと目を開いた。友人はちょっと気まずそうな顔をしながらも少し頬を染める。
「これね〜バスケ部の。写真部の子がこっそり売ってるんだよね」
数枚手渡される。大口開けてバカ笑いしてる山崎と原の写真とか、花壇で花に水をあげてる古橋の写真とか……。西日を浴びながら突っ伏して机で寝ている瀬戸の写真に反射的に心臓がドキッとする。どれもカメラ目線じゃないし、ピントがブレたり距離が遠い。
「これ……隠し撮り?」
「そう。でもよく撮れてるよね!見てこの花宮くん!アンニュイな表情が神!」
「松本くんがザキと笑ってるのが好き〜、、。松本くんてスルメみたいだよね。噛めば噛むほど美味しいっていうか、、」
「何言ってんの?」
「うぐぐぐ、伝われ!!」
他の子のも見せてもらう。パラパラと見ているうち、思わず「あっ」と声が漏れそうになってしまった。1枚のなんでもない写真。体育館のどこかから撮った、バスケ部の練習風景だった。
レギュラーの人達と、その後ろに多分2軍の子たちがいて、3on3をしている。花宮くんは首からホイッスルを下げていた。この写真は画質が良くて、表情までハッキリ見えた。
名前は心臓に汗をかくようなジクジクした気持ちになった。
普通の練習風景だ……肘のプロテクターと、背景のサンドバッグがなければ……。
突然だが、名前には兄がいる。小中高とバスケ部で、大学でもサークルに入っている兄が。名前とは高校が違っていて、兄はバスケの強豪校に入っていた。名前が霧崎に入るとたまに不機嫌に花宮のことを聞いてきたり、バスケ部のことをとても嫌悪感に満ちた表情で尋ねてきたりした。
霧崎第一高校男子バスケットボール部はラフプレーをしている。
兄の口から聞いた時は驚きすぎてものを言えなかった。
1度だけ試合を見に行ったことがある。
会場のアウェイぶりと、試合内容と、バスケ界での嫌われ具合を知った。なにより、彼らのプレーを見れば、兄の試合を見てきた名前には分かった。彼らの「アンチ・フェアプレー」具合が名前にはわかってしまった。
手の中の写真が爆弾めいたもののような気がして、プルプル震える。
これ……証拠なんじゃないのかな。
ラフプレーの証拠……。
その写真だけ友人に譲ってもらい、名前は必死になんでもない顔を浮かべた。
──本当は瀬戸くんの写真も欲しいけど……。
いけない、と邪な考えを頭を振ってはらう。もし、万が一瀬戸の写真を持っていることが本人にしれたなら、絶対にいい顔をされないだろう。
少し逡巡して、友人たちにも一応口を挟む。
「隠し撮り写真なんて持ってること知れたら、きっと嫌がられるんじゃないの?バスケ部の人たち……」
友人たちは顔を見合わせた。眉毛を山なりにして笑う。
「バレないようにしてるもん」
「もしバレても、花宮くんも瀬戸くんも優しいから大丈夫だよ」
「山崎もなんだかんだやさしーし」
「原くんとかは、『へー、俺のこと好きなの?』とか言って、遊ばれちゃいそうじゃない!?」
「キャーッ、キャーッ、有り得る!てか遊ばれたい!なんで原くん同高の女には手出さないの!?こっちはこんなに待ってるのに!」
「それな!?それな!?」
「てか名前っ、あんたも同罪だからねっ!その写真あげたんだから」
肩を組まれて曖昧に笑う。しまった写真がズシッと重くなる。「瀬戸くんの写真いいの探してみよっかな〜」と口先で軽く合わせながら、名前は心の中で思った。
瀬戸くんはべつに、優しい男なんかじゃない。
*
口の中が異常に乾燥する。喉がひりつくくらいだった。意味もなく唾を飲み込んで、唇がガサツいている気がしてきて、リップクリームを塗る。
バクッ、バクッ、全身が心臓になったみたいで、勝手に頬が熱くなる。熱の塊みたいなため息をこぼして、深呼吸して自分を落ち着かせる。
名前は今、とある教室の前にいた。
日当たりの良いこの教室で、良く瀬戸健太郎が寝ていることを知っていた。名前は瀬戸に憧れていたから……だから彼をよく見つめていた。彼のことを知りたかった。
関わるつもりはなかったのに。
昼休みはいつもここで寝ているはずだ。この扉の向こうに瀬戸がいるのかと思ったら、唇がわなないて勝手に緊張で息が浅くなりそうになる。
関われる理由が出来て嬉しい自分がいる。
あわよくば、役に立てる期待をする自分がいる。
意を決して扉を開くと、思いのほか大きな音が響いて心臓が跳ねた。
瀬戸はやっぱりこの教室にいた。写真みたいに、腕の中に突っ伏して1番後ろ、1番窓際の席で背中を丸めて寝ていた。瀬戸は突っ伏すか、逆に手足も首も投げ出して口も開けて豪快に寝るかのどっちかだった。
体が大きいから背中や首が痛むんだと思う。
おっきい体をまるまるっとして寝るのは可愛かったし、豪快なのは意外でギャップがあって可愛い。
名前は盲目だった。
「せ……」
声がひっくり返る。
「瀬戸くん……」
霞みたいな声。瀬戸は微動だにしない。
「瀬戸くん……!」
微かに呻いた。沈黙が流れる。彼が起きる様子はない。
「せ!とくん……!」
少し近づいて耳元で、名前なりの大声を上げる。
「フガッ」
瀬戸は体勢を少し変えて深く眠っている。
いつも放課後迎えに来る山崎や松本が馬鹿みたいに大声で怒鳴る理由が分かった。耳元で怒鳴ったり、古橋なんかいきなり頭を殴ったりするから、男の子は粗野で怖いなあって、そんなに乱暴にしなくたっていいのにと思っていた。
花宮なら「健太郎」と声をかけるだけで瀬戸は目覚めるから。
起きた時に殴られたところを痛そうに擦る瀬戸をたまに見かけて同情していたけれど、なるほど、花宮がすごいだけだったのだ。
名前は震える手を伸ばした。油をかけられて全身焼かれたように熱かった。
わたしなんかが彼に触っていいの?
でも、こうしないときっと起きてくれないし。…
断頭台に立つ囚人はこんな気持ちなんだと思う。でも同時にとても背徳的で末端が痺れた。
「瀬戸くん、起きて……」
囁くように彼に触れた。つついて、肩に触れて、それでも起きないから強く揺さぶる。掴んだ肩が骨ばっていた。しなやかな弾力があって硬い。自分とぜんぜん違う。普通の男の子の体なんか知らないけど、逞しい男の人の体だと思った。
脊髄に火かき棒をグリグリ捩じ込まれるようなはしたない恥ずかしさにたまらなくなって、名前は瞳を潤ませながら「お願いだから起きて!」と怒鳴った。もういっぱいいっぱいだった。
このままじゃ戻れなくなる。
どこに戻れなくなるか分かんないけど、でもこのままじゃダメになっちゃう。
彼の睫毛や呼吸の度に上下する胸や、スパイシーな香水の香りが漂ってくるのが、妙に恐ろしかった。
「……ん、おはよ」
ようやく彼が目覚めた。気だるげに顔を上げて、ぼやっとしたどこかあどけない瞳で名前を見ると、瀬戸は僅かに微笑んだ。
名前の心臓が止まった。
完全にキャパをオーバーしていた。
見てはいけないものを見たような……自分の人生の中で見る機会のないものを見た。そう思ったら汗がダクダク出てきて……。
今すぐ脱兎のごとく逃げたいけれど、逃げるという選択肢も浮かばないくらい頭が真っ白になってただ真っ赤な顔で立ち尽くす名前を、瀬戸が髪を掻き混ぜて欠伸しながら見た。
「あー、確かE組の。名前は知らないけど。何か用?」
えっ。に、に、認知され、っ?
新たな衝撃が襲いかかってきて名前はもう機能停止しそうだった。写真を手に入れてからキャパオーバーの出来事が洪水みたいに降り掛かってきて、行動を起こすんじゃなかったと思った。
後悔でいっぱいだ。
でもこの写真は、多分、おそらくバスケ部にとって危険だから……だから……。
そう思ってなんとか、なんとか名前は立ち直る。
写真のことを……ラフプレーのことは言うべき?なんで持ってきたかって思われる?知ってることは結局バレるだろうし……なんて言えば……でも遠回しは嫌いそうだし……結論……?結論からってでもストレート過ぎるのも……写真をバラすと写真部の子に迷惑がかか……チクったと思われるかも……でもわたしが隠し撮りされたと思われるのは嫌だ……!下手したら脅しだと思っ……
完全にテンパった名前の口が意思に反して勝手に動いてしまった。するん。思ってもない言葉が飛び出ていく。
「ラフプレーしてるんだよね」
「……」
バカーーーーッ!!!!!!!!
名前は自分で自分に驚いて目を見開いた。爆音で自分を罵る。
彼の眉がピクリと動いて、前髪の影から彼の切れ長の瞳が冷たく見下ろして来る。
なんで!?なんでこんな言い方するの!?何もかももうダメ!何もかもおしまい!最悪だよ生まれ直して来いよ何がしたいの?
ただちょっと瀬戸くんの役に立てるかもって……少しだけでも視界に入れるかもって思っただけなのに……。
覚悟も出来てない自分の甘さがこうして何もかもをダメにする。…
何故か勝手にテンパって勝手に死んでしまった名前を瀬戸が怪訝な顔で眺めた。
「へえ?確信的な言い方だね?でも証拠なんて……いや、意味無いか。で?あんたは俺達がラフプレーしてると思ってるみたいだけど。それを言ってどうしたいの?」
名前は目をキョロキョロさせ、スカートをギュッと握って俯いている。机に肘をつき気だるげに見上げる瀬戸からは名前の表情がよく見えた。
その顔が追い詰められている人間の顔で、名前の考えていることが分からず、聡明な彼にしては珍しく少し戸惑う。
ラフプレーに言及する人間は3種類に分かれる。
ひとつは恨みを抱えた人間。ひとつは正義感に燃えるうんざりする人間。ひとつは脅しや弱みで俺たちより優位に立ちたい人間。
名前の目は、そのどれでもない人間の目だった。
目を細めると、彼女はさらにオドオドして、傍から見ても哀れになるほど震えながら、懐に手を入れた。1枚の紙切れを取り出して、瀬戸に手渡す。
指先が微かに触れ合って名前は大袈裟に肩を震わせた。
「……なるほどね」
写真はただの練習風景だった。花宮は部活動の写真許可は出していない。盗撮。瀬戸が面白がるように言葉を舌の上で転がした。
プロテクターもサンドバッグも別にどうとでも言い繕える。ただの3on3なのだし。でも、たしかにこれは「脅し」に値する証拠だった。
瀬戸にこの写真を渡したということは、データは別に保存しているということだろう。面倒だけど、後でハッキングして消すか……。
わざわざご大層に証拠を握っていると突きつけて来るのだから、何かしら彼女に目的があると思い、瀬戸は彼女の言葉を待った。
名前は真っ直ぐで酷薄で余裕そうな視線にたじろぎ、腕をギュッと掴んで顔を背けた。黒い髪がサラリと垂れて、横顔を隠す。
怯えるなら最初からやらなければいいのに。
誰かに脅されている?…
名前が何も言わないので、瀬戸は仕方なく主導権を握ってやることにした。自分から優位を手放すなんてこの女は何を考えてる?
「で?盗撮までしてくれて必死なところ悪いけど、この写真は俺たちに何の害もないよ。何がしたかったの」
「えっ……」
名前は目をくりくりさせ、突き放す瀬戸の言葉にゆっくりと表情を綻ばせた。間違いなく"安堵"の表情だった。今度は瀬戸が目を瞬かせる番だった。
この名字名前という女は、ことごとく瀬戸の斜め上の反応をする。
名前はと言えば、瀬戸の内心を知るよしもなく、恐れていた誤解に恐慌状態に陥っていた。
盗撮を……盗撮を疑われるのがいちばん嫌だった。
思わず、言い訳するように呟いてしまう。
「その写真を撮ったのは……わたしじゃありません」
縮こまって、さらに強く自分の腕を掴む。友達を売るのか……いや、でも写真部にデータが残ってる。
名前はあれから情報を集めていた。校内の噂話や情勢には疎いけれど、友達はティーンらしくゴシップが大好きだったし、写真部の子と仲がいいから。
「バスケ部やゴルフ部、サッカー部、華道部、チア部、吹奏楽部、生徒会……校内の人気な部活動や生徒の写真がこっそり売られているのは知ってますか?」
「あー……。花宮が何か言ってたな。ふうん、なるほどね。不特定多数にこれが広まってるんだ。写真の角度といい設置といい素人じゃないね。写真部?」
「な……なん、」
「そりゃね。女子によく盗撮されてるのは知ってたけど、そのレベルじゃないしね。売るなら誰かが統括してる。1番慣れてて信用が高い写真部が最も怪しい。あそこは女子が多いし」
「はわ……」
瀬戸くんはやっぱりすごい……。
間抜けな声で感嘆する。
「広まってるなら俺に言わない方が良かったのに、バカだねあんた。対処するにしろしないにしろ、情報は秘匿した方……が……」
瀬戸が名前を見上げた。
「ああ。前提が違うんだ。花宮の血の気の多さに染まったかな」
前髪をゴツゴツした手のひらで掻き混ぜて、瀬戸が「クッ」と低く笑った。顔を上げて見えた喉仏が上下に動くのがいやにハッキリ目に映る。
笑ってる……。
自分に笑いかけたんじゃないってわかって居るけど、何だか感動にも似た気持ちで、ジーンと痺れる感じがした。
「情報を売る対価ね。あんたが俺らに求めるのは何?」
「へ、」
「媚びたいんだろ。いいよ、言うだけ言ってみなよ。寝起きで頭働かないし、もしかしたら叶うかもよ」
これで頭が働かない?
名前はボーッと彼のおでこを見つめた。目は見れない。恥ずかしくて……。
「言わないならいいけど。話は終わり?無償労働お疲れ様」
緩慢に瀬戸が立ち上がる。彼の視界から消えてしまう。消え……。
「あ、」
「フッ」
彼が嘲笑を零して、上から見下ろした。190cmの巨体が山みたいな威圧感で降ってくるみたいで、名前は後ずさった。
「最初から言えよ。手がかかるね」
馬鹿にしてるのに子供に言うような言い方だった。カーーッと熱が昇ってくる。惨めさの羞恥じゃない、どうしようも無い照れと悦びだった。
「わたしは……た、ただ……」
「うん」
機械的な相槌ですら甘く感じる。自分の言葉を聞こうと、瀬戸くんが「うん」って……「うん」って……!
それに背中を押され、名前は真っ赤な顔で腕をカリカリ掻いた。
「いえ……瀬戸くんの役に立てたなら、よ、よかった……。わたしはこれで失礼します。さ、さよなら……」
しどろもどろで名前は踵を返した。
対価を与えようと思うくらいには、多分、役に立てた。それが嬉しかった。
教室の扉に手をかけた時、瀬戸の声が背中を追いかけてきた。
「ラフプレー止めないんだ?」
名前はゆっくり振り返った。困った顔で瀬戸を見た。何かしらの答えを求められてるのは分かるけど、その答えを名前は持っていない。
ラフプレーは好きじゃないし、正しいとも思わない。
「わたしの言葉が……瀬戸くん達に意味のあるものだとは思えないから、」
それだけ言って名前は小走りで逃げていった。今日で一生分の緊張と勇気を使った。でもこれで終わりだ。
安堵と少しの惜しさが胸にあったけれど、いちばん占めるのは達成感と喜びだった。やっぱり瀬戸くんは優しくない。だけど、だから好きだと思った。
瀬戸くんの都合の"良い人"に一時でもなれたのが夢みたいだった。
ひとさじの甘い罪悪