残酷なメシア

「瀬戸くん今日誕生日なんだって」
「えーっウソ、知らなかった。何かあげたら受け取ってくれるかな」
「優しいから大丈夫だよ」
「でもなんか話しかけづらくない?」
「寝てる時机に置いておけばいいんだよ」

 声を潜めながらも華やいだ声がトイレにこだまする。わたしはハンカチをきゅっと強く握り締めた。みーんな考えることは同じ。わたしも、彼女たちも。
 でもわたしは3ヶ月も前から瀬戸くんにプレゼントを渡したいと考えていたもの。鏡に映る自分は、醜く、情けない顔をしていた。

 高2に上がってすぐの席替えでわたしは瀬戸くんと隣の席になった。その頃からずっと彼に憧れている。仄かな恋というよりは強烈な憧れだった。
 何事も不器用で必死なわたしと違って、スマートで余裕がある彼が酷く羨ましくて、眩しかった。
 以前学年5位を取れた時、瀬戸くんが戯れに話しかけてきたことがある。
「意外と成績良いんだ」
 気だるげな瞳の中に面白さが滲んでいた。煽るような言葉はわざとだろう。わたしはびっくりして、嬉しくて、怒る気にもならず、苦笑と照れが混じった笑いを零した。
「学年首位様に褒めていただけるなんて、光栄」
「たまたまだよ。首位は」
 わたしは少し意外に思った。瀬戸くんなら「当然」とでも言いそうなのに。彼は謙遜するということを知らないから。人の反感を買う要素だけれど、わたしは彼のそんな自信が好きだった。
 意外だねなんて返すのは陳腐に思えた。
 瀬戸くんが突然バスケ部に入ったことや、突然花宮くんと交流が深くなったのは有名な話だった。

「瀬戸くんが敵わないほどだとは知らなかったな」
「……へえ。なんだ、知ってたの」
 瀬戸くんを見てたら分かるよ。
 心の中だけで呟く。花宮真は、常に1位から〜10位くらいを保つ秀才で、努力家で、人当たりが良くて、霧崎第一の顔だ。彼ほど信頼される人間はいない。けれども花宮くんは秀才なのだと思っていた。
 瀬戸くんが彼に執着するだけでなく、彼に同調するだけでなく、彼に従う節を見せなかったら、わたしは花宮くんの天才さには気付かなかっただろう。
 わたしは返事に迷い、ただ微笑んだ。こういう時に上手く返せない自分が嫌いだ。なんてつまらない人間なのかと突き付けられる。

「なのにあんたが憧れるのは俺なんだ」
「っ!へ、」
 息を呑む。クッと瀬戸くんが低く笑った。見抜かれている。血が突然熱くなった。わたしは無言で自分の膝を見つめ、不器量に笑う。笑うしか誤魔化す方法を知らない。
「そ、そんなに……分かりやすい?」
「まあね。でも賢い人間に好かれるのは悪い気はしないよ」
 わたしの胸は喜びで軋んで、何も言えなくなった。
 今でも思い出すたびに心臓が痛くなって、じんわりと体が喜びで火照る。
 あの時何より嬉しかったのは、瀬戸健太郎という強烈な光を放つ天才に、認めてもらえたこと。賢いなんて彼が思ってないのは分かってる。凡人の中ではという枕詞が付くことは分かってる。それでも、泣きそうなほど嬉しかった。
 分かりやすく好意を寄せる女としてじゃなく、1人の人間として彼の瞳に映った気がした。


 放課後、山崎くんや古橋くん、松本くんなどのバスケ部員が怒鳴り込んで来るまで、瀬戸くんはいつも寝ているから、部活に行くまでは少しのラグがある。
 女の子たちがきゃあきゃあ笑いながらプレゼントを彼の机や鞄、ロッカーに入れて行く。気軽に送れるお菓子や、少し値の張る本気のプレゼント。様々な贈り物の小さな山。
 マンガの中のヒーローみたい。
 わたしはプレゼントを渡すか迷って、一日迷って、まだ渡せずにいた。
 他の女の子に交じってスっと渡してしまえばいい。彼に直接渡す勇気なんてない。なのに心のどこかで埋もれたくない自分がいる。
  あさましい自尊心。

「いつまで寝てんだテメエ!いい加減自分で来いよ!」
 バンッ!大きく戸をあけ、荒々しく山崎くんが教室に入ってきた。普通科なのに特進科に臆することなく入って来れる肝の座った人。バスケ部はみんな胆力があった。
「プレゼント貰いすぎだろ、クソっ……ほら起きろ瀬戸!オイ!」
 怒鳴りながら2、3発殴って、ようやく瀬戸くんがあくびをした。
「もう部活?だる……」
「オレの方がだりいんだよ」
 ブツブツ言う山崎くんを流し、紙袋に無造作にプレゼントを入れて、2人は連れ添い出ていく。行ってしまう。
「あ……」
 空気に溶けるような声が漏れたけれど、当然のように彼は気付かない。
 立ち上がりかけて、また座り直した。
 追いかけていく勇気はなかった。…

「貰ってあげるよ」
 ヒョイと、行ったはずの瀬戸くんが顔を出した。
「っ、え!」
 わたしは思わず飛び上がった。
 な、なんで瀬戸くんが?
「あるんでしょ」
「あ、うん……なんでわか」
「ソワソワしすぎ。ちらちら見られるの分かるから」
「あ……あう……すみません……」

 真っ赤になって、おずおずと彼にプレゼントを手渡す。彼は一瞥して、袋の中に入れた。無造作に。でも、他の女の子とは違う、彼自身が受け取りに戻ってきてくれた。その事実はわたしを舞い上がらせた。
 期待なんかしちゃダメだとは分かってる。
 気まぐれだとも。
 でもやっぱり、仄暗い優越感を感じてしまうのは抑えられない。
 瀬戸くんが目を細めて、唇を歪めた。
「抱いてあげようか」
「へっ、」
 おもむろに彼の筋の浮かんだ腕が伸びて、わたしの前髪を軽く指先で掻き分けた。額に触れるか触れないかの戯れ。
 一瞬で顔が破裂しそうなほど赤くなった。恥ずかしさや驚きを自覚する前に、熱で反射的に涙が出そうになる。
「初心すぎ。それともそんなに俺が好き?」
「せ、瀬戸く……」
「付き合えないけど、抱いてあげるくらいならしてあげようか」

 それは実に甘美な誘いだった。
 頭が茹だって何も考えられない。彼の目は細く、冷たく、妖艶だった。今この瞬間わたしはただの女だった。
 頷くのを何とか耐え、わたしは俯いた。
 恥ずかしさで体がぶるぶる震えた。
 深呼吸して、何とか息を整えて、わたしは顔を上げる。瀬戸くんの冷たい目を見上げて、ゆっくり首を振った。
「……いいの?」
 軽く笑いを含む声。わたしも小さく笑った。ほろ苦い笑い。やっぱり見抜かれている。彼がわたしの矮小な自尊心とあさましい恋心を弄んでいるのはずっと分かっていた。
「いいの。どういう意図があるかは知らないけど……。ただの女として忘れられるより、賢いと言ってもらえたわたしのまま忘れられたいから」
 瀬戸くんは少し目を見開いて、フ、と小さく笑った。なんの邪気もない笑いに思えた。それはわたしの願望かもしれないけれど。

「やっぱりあんた、賢いね」
 大きな手が、軽くわたしの頭を撫でて瀬戸くんは去って行った。
 雫がポロッと頬を伝うのを感じながら、これで良かった、と思った。
 わたしの恋は終わったけれど、女として死ぬより、彼に認められた人間のまま生きる方が、ずっとずっと嬉しい。ずっとずっと救われる。
 恋が死んでも、瀬戸くんはきっと一生わたしの憧れだった。


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