額縁のエメラルド

*not夢
*ワンライ


 ロンドン・プレーンの瑞々しい緑が風に揺れ、陽光が葉脈を地面に照らし出した。青い香りが彼女の燃えるような赤毛を攫い、甘い爽やかな香りが隣の少年の鼻腔を擽った。後ろの方でブランコがキイキイ錆びた音を立てている。
「カエルのはらわた?そんなものを入れるの?」
「ああ。他にもネズミの目玉とか、コガネムシの汁とか……」
「ええっ、だって魔法薬って飲むんでしょ?」
「大体のものは。塗り薬とかもあるけど……。でも大丈夫だ。魔力を込めて作るから、完成したら効果が変わる。それにマグルにとって有害でも、僕たちには便利な薬になるんだ」
「ふぅん。面白いのね、魔法薬って!セブはもう作ったことある?」
「母さんの調合をちょっと手伝うくらいだけど……」
「すごいじゃない!私も早く作ってみたいわ。ロマンチックな魔法や薬が色々あるみたいだし……。あとひと月かぁ。ねぇセブ、私はホグワーツに行けるのよね?」
「うん、絶対行けるよ。君は僕と同じ、魔法使いだ。一緒にホグワーツに行くんだ!」
「うん……うん!ふふっ、楽しみだわ」
 彼女が弾けるように笑い、緑の瞳がまばたきのたびにバチバチっと音を立てるかのようだった。少年は俯き、重たい黒髪の下で血色の悪い顔を赤くして、膝を抱えた。
「そ、そうだ、リリー。向こうにちょうど枯れかけた花があったんだ。君の得意な魔法を練習するのにちょうどいいよ」
 少年は誤魔化すように立ち上がった。手を伸ばして、躊躇い、引っ込めようか手のひらをうろうろさせた。少女はニッコリ笑うと少年の手をぎゅっと掴み、汗ばんでしっとりとした柔らかい感触に少年は全身を強ばらせた。
「どこ?行きましょう、セブ!」
「待ってよ、リリー」
 2人は笑い声を上げて走り出した。リリーのスカートが膨らんで、髪を抑えたリリーが振り返る。彼女の光を背負った笑顔と公園の匂い、纒わりつくようなぬるい風、白い肌と手の感触。その瞬間を切り取って額縁に飾るみたいに、スネイプは何度も何度もあの頃を思い出す。

 その少年を見た時、スネイプの身体に反射的な憎悪と嫌悪感が走った。胃の腑が焼けるような、長年煮詰めた感情。あちこちに跳ねた癖毛、硬そうな黒髪、父親譲りの丸眼鏡。写し取ったかのように面影を映すハリー・ポッター。
 しかし、彼がスネイプを射抜いたとき、バチッとまばたきの音が蘇った。エメラルドの瞳とあどけない表情、少し不安そうに垂れた眉。全く似ていないのに彼はリリーの息子だった。
 スネイプの心臓に酷い蟻走感が走った。それはそのまま血を巡り、血管から広がって皮膚のすぐ内側でゾゾゾと感覚を増し、スネイプは毛を逆立てた。それは罪悪感と後悔だった。あの小生意気そうな子供にリリーへの愛情を幻視した自分が腹立たしく、スネイプを唇を引き結んで睨めつけた。

 小生意気なガキと否が応でも関わらざるを得ないスネイプは、知るにつれ、どんどん嫌悪を募らせていった。自分を見返す時の不遜な表情、引かない傲慢な頑固さ、自分が正しいと信じて疑わない自信過剰な脳味噌。嫌いなところしかない。あの男にそっくりで、しかしそれだけならばここまで嫌な気持ちにはさせられなかっただろう。
 スネイプは見たくなかっただけで本当は気づいていた。彼の控えめさや、曲がらない意志の強さ、怒りやすくて折れない芯がリリーにそっくりだということに。緑の瞳から彼の内面までもがリリーを感じさせることが受け入れがたくて、スネイプは憎悪を増した。眼球の毛細血管がブチブチと千切れるような感覚やこめかみの痛み。そして何度も思い出した。彼女の透き通ったエメラルドを。

 何度か夢想したことがある。妄想とも言えない。拙くて虚しい虚構だ。
 彼女はどうしたら今も笑っていてくれていただろうか。
 ハリー・ポッターはその存在自体が既にスネイプの後悔と痛みの結晶だったのだ。

 散々言ってくれていた忠告に耳を貸していたら。
 死喰い人になる前に道を戻れていたら。
 あの憎いポッターとブラックを許すことは到底出来そうも無いし、親しくすることなんて体中の皮膚を剥ぎ取られても不可能だが、相手にしなければリリーとの仲が悪くなることはなかったかもしれない。
 あるいは純血主義に染まらなければ。
 いや、それはスネイプの幼少期に遡ることになる。純血の母とマグルの父。不仲な両親。暴力的で常に陰鬱な気に満ちていた生家。
 リリーから感じていた眩しさは決してスネイプには発せないものだった。あのブラックにも、ルーピンにも、ペティグリューにも。似た雰囲気をルシウスからも感じたことがある。そして認めがたいがジェームズ・ポッターからも。奴から立ち昇る持つ者の傲慢で不公平さを享受する憎々しい態度は胸を掻き毟りたくなるほど苛立たしいものだったが。
 恵まれた環境で、暖かで穏やかな幼少期を過ごした人間が纏う独得の雰囲気。リリーとスネイプは生まれた時からすでに対等ではなかった。
 もしスネイプの家庭に、リリーやルシウスの家にあった「愛」とかいうものがあったなら、スネイプを道を外さなくてすんだのだろうか。
 追い詰められるように何かを掴み取ろうとして、選択を誤り、彼女の手を振り払うばかりか、自分で彼女の命を断ち切るようなことには……。

 長年、ふとした折にそんなことを考えていたスネイプだっが、しかし、それは幻想だった。
 自分を責め続けていたスネイプだが、心のどこかで自分を慰める自己愛ゆえの、ただの空虚な自慰行為でしかなかった。リリーの息子は罪の結晶であり、自己愛の破壊だった。
 ペチュニア夫妻からの愛なき孤独な家庭で育ち、なおもリリーに似た控えめさと謙虚さ、ジェームズに似た行動力と傲慢さを滲ませる彼は、スネイプの内心の僅かな言い訳を容赦なく突き付けた。
 愛がないから間違えたのではない。
 恵まれないから妬んだのではない。
 スネイプの性根はたしかに環境が作ったのかもしれないが、道を間違えたのは、自分で彼女を振り払ったからだった。
 誰かを憎み、妬み、嫉み、彼女の言葉からも耳を背けたからだった。
 蟻走感が走り、胸が苦くなる。スネイプは呻き声を上げ、頭を振った。いいや。違う。目を強く瞑り、思考を塗り潰す。憎い男の息子を視界の端で見る。
 傲慢な顔つきと、ふたつの煌めく瞳にまた、瞬間的に憎悪が募る。
 スネイプは僅かに唇を歪めた。
 たしかに、僕が彼女だったなら僕のことは選ばないだろう。君は来ない。もういない。ずっと君に見捨てられたと思っていたけれど、本当は僕が君を見ていなかったんだ。

 夏の影に消える白昼夢を飾った額縁が、脳髄に釘で打ち込まれている。
 エメラルドを砕いたのは自分だった。


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