きみは静海に積もる雪(フィガロ)

*

 月が高いところで冴えた光を放っている。青白い月光が窓から細く線を描いて、フィガロと名前を柔らかく照らした。緑のラグがぼんやりと浮かび上がっている。

 たまに名前とフィガロはこうして酒を酌み交わすことがあった。はしたなく酔いしれる夜ではなく、仄かに頬が赤みを帯びる程度の、戯れのような晩酌を何度か交わして静かな夜を過ごす。
 彼はからかうように「籠絡」したいだなんて妖しく笑って、軽々と愛の言葉を囁くけれど、彼の言葉はいつだって薄っぺらかった。それこそ、ただの戯れだった。名前は彼の戯れにしかなれない。

 それでもいいほど、フィガロに心を寄せてしまった。

 彼の飄々とした態度の裏に、名前では埋められないほどの寂しさがチラチラ見え隠れするから、どうしたって彼を気にせずには居られなくなってしまったのだ。

 気付いているのかいないのか、興味がないのか執着出来ないのかは分からないけれど、フィガロは南風のように柔らかで、北海のように昏く深い。

「ねえ、賢者様」
 グレイの瞳がテーブルのランタンの炎を受けて、橙にちろちろ燃えている。まばたきがウインクのように楽しげに跳ねるのを見て、またろくでもないことを思いついたのだろうな、と思いながら「なんですか」と返事をする。
「きみは恋をしたことがある?」
「恋?」
「そう、恋だよ。燃えるように激しく、胸が張り裂けるほど愛しく、涙が枯れるほど切なく、誰かに恋したことはある?」
 フィガロにはそぐわないテーマだ。情熱的な恋を尋ねる割に、興味など持っていような声音に聞こえる。
 グラスを揺らしてひと口嚥下すると、ビロードの滑らかな口触りのワインが喉をするりと流れ落ちた。カモミールのような香りがふわりと抜ける。甘くて飲みやすいけれど、舌の先に微かに苦みが残って名前はほろ苦く笑った。

「……まあ、人並み程度には」
「へえ、どんな恋だった?」
「学生の頃は激しい恋だと思い込んでいましたね。その人しか見えなくて、一喜一憂したり嫉妬したり振り回されて、傷付いて。こどもらしい繊細で脆い感性をしていたんです」
「可愛らしいね。でも今の賢者様も、素直で優しくて繊細で、すぐに壊れてしまいそうなほど脆く見えるよ」
「フィガロから見たらそうかもしれませんが……」
 少し唇を尖らせる。
「わたしも大人になったんです。恋との向き合い方も、痛みの逃がし方も変わりましたよ」

 そうじゃなきゃ、貴方のことなんか想えないでしょう。
 いとけない、こどものような柔らかいこころのままなら、きっとこの苦しみを抱えることは出来なかった。ある程度恋を繰り返した今の名前だからこそ、彼のいびつさを含めて愛しく想えているのに。

 自分の背伸びも、大人への移ろいも、彼にとっては赤子の成長のようなものでしかないことが無性に気恥ずかしくて、心の中で辛辣に、拗ねたようにつのる。口には出さないけれど、いじけたように睨んでしまいそうだから、名前は目を閉じてワインに口付けた。
 ささくれた感情を飲み干して、心を穏やかな水面のように保つ。痛みも、哀しみも、やるせなさも、ままならなさも。こころの海に沈めてしまえば、表面だけは波立たずにいられる。

「フィガロはどうなんですか?」
「はは。答えが分かりきってるような声だね」
「なんとなくは。でもわたしは貴方の二千年間を何も知りませんから」
「……そうだなあ」
 目を細めて、懐かしむようにワインを眺める。遠い昔の記憶を探っているように見えた。
「特定の個人に興味を抱いたことはあった気がする。ときめくくらいなら、今もなくはないよ」
「フィガロってときめくんですね……」
「俺をなんだと思ってるのさ。たしかに滅多にないけどね。魔法使いも人間も、たいていは俺の想定内の反応しかしないし」

 想定内の反応……。
 おおよそ、恋バナ(?)をしているときに出る言葉ではないけれど、彼の熱の無さにはとっくに慣れ切っているので、もはや呆れしか湧かない。

「海に降る雪のように積もりもしないで溶けていく。手のひらに乗った雪が掴めないように、俺にとって人間も恋も、そんな儚いものなんだ。だから恋を知る人が羨ましく思える時はあるよ」
 呆れさせたかと思えば、そんな切ないことを言って、フィガロという人はいつもこうだ。寂しさを覗かせられると、彼を抱き締めたくなる。
 それが彼にとってなんの救いにならないと知っていても。

「儚いから美しいんじゃないですか……」
 声が震えそうな気がして、誤魔化すようにワインを飲み干した。あはは、いい飲みっぷりだね。寂しさなんて無かったようにフィガロは笑って、グラスにワインを注いでくれる。
 飲みやすいけれど、少し度数の高いワインに名前の身体が火照り始めた。いつもならこのあたりで部屋に帰るけれど、今のフィガロをひとりにはしたくなくて、彼のペースに合わせて名前もつい飲んでしまう。

「儚いものを愛しいと思うには、俺は少し長く生きすぎたと思うな」
「……ムルのように、手が届かないけれど、ずっとそこに在るものを愛せれば良かったですね」
「厄災はさすがに嫌だなあ。あれは狂人にしか愛せない。シャイロックが哀れだよね」
「まあ、厄災は無いにしても……オズのように何かを愛することは出来るでしょう?貴方がルチルやミチルを慈しむのも愛なんじゃないでしょうか」
「うん、あの子たちを愛しているよ」

 躊躇いもなく言い切った彼は、完璧に穏やかな笑みを讃えてはいるけれど、それが何故か皮肉のような響きを帯びている気がした。
「……?」
「そんな目で見ないでよ。あの子たちは俺を知らないだろう?それに始まりも……」
 続きを聞く前にフィガロはパッと笑って、頬杖をついた。
 始まりも……なんなんだろう。
 なぜ、そんなに切なそうな顔をするんだろう。
 名前はふらふらする頭で、気付けばフィガロの頬を指先でなぞっていた。驚いたように目をまたたかせる彼に、自分の冷静な部分がいけない、と窘めるけれど、酔った理性がそれを溶かしていく。
 雪みたいに温度で消えてしまわないように、そっと触れるか触れないか曖昧になぞる名前の手のひらを、フィガロの大きい手のひらが包んだ。
「珍しいね。酔いすぎたの?」
「そうかもしれません……」
「はは、眠そうな顔してる。顔もずいぶん赤いよ。いけない子だな、男の部屋でそんなに酔って、無防備に触れたら」
 悪い狼にパクッと食べられてしまうよ?

 こどもを甘やかすように囁かれて、胸がきゅう、と締め付けられる。
 食べられてしまってもいいのに。
 もう色を知らないこどもじゃない。名前は毎回、そうなってもかまわないと思いながらフィガロの部屋に来ているけれど、彼は口では甘い言葉を吐きながら、いつだって名前を波間に溶けていく儚い雪のように、過ぎ行くものとして見ている。
 彼の隣に立ちたいと苦しいほど焦がれる。

「賢者様はどんな風に恋するんだろうね」

 ……こんな風に。
 危うく、そう口に出してしまいそうになる。

「ねえ、俺のことを口説いてみて」
「嫌ですよ。貴方に響かないと分かっているのに」
「そんなつれないことを言わずにさ」
 握られた手のひらに少し力を込められる。甘えるような仕草に微かに身を捩ると、逃がさないとさらにきゅ、と強くなる。
 観念して名前はむぅと眉を寄せた。

「えっと……好きですよ、フィガロ」
「あははっ!棒読みすぎるでしょ。もっと情熱的に愛を語ってくれないと何も伝わらないよ?」
「だっ!だって……恥ずかしいんです」
 手をするりと振りほどいて、目を逸らしながらまたワインを飲む。喉の熱さが全身に広がるけれど、まだ足りない。もっと酔ってしまいたい。
 彼になにかを遺せるかもしれないのに、恥ずかしさや虚しさや、照れから来る少しの怒りで、名前はついつい子供っぽく振舞ってしまう。
「賢者様にとって、愛を囁くのは恥ずかしいことかい?」
「そうじゃないですけど……」

 柔らかな榛色が静かに名前を見つめている。顔がどんどん熱くなっていって、息さえ出来ない気がした。
 勇気を持って視線をそろそろ上げると、彼の瞳に捉えられて逃げ場がなくなる。追い詰められる。きっと今の自分は、繕ってきた「普通」の顔が剥がれ落ちてしまっているだろう。
 彼を好きだと語ってしまっているのが自分で分かる。
 恥ずかしくて逃げたくて、だから全部お酒のせいにしてしまおう。全部お酒と、月の魔力と、フィガロという狡い男のせいだ。

「ひとりで生きないで欲しいです……。わたしが貴方の記憶から消え去ってしまっても、貴方の幸せを願った人間がいたことが、少しでも貴方の中に残っていて欲しい……」
 呟くように声を絞り出した。
 フィガロはまばたきをゆっくりして、柔らかく眉根を下げた。嬉しそうにはにかんでいるのは、名前の願望から来る錯覚だろうか。
「……優しい愛だね。なんてささやかな願いなんだろう。きみはこんな風に愛を囁くんだね」
「……これでいいですか?」
「うん。少しときめいたよ。いやあ、なんだか若返った気がする」
「それは良かったですね」
 ジトリと睨んでワインを流し込む。
 そろそろ辞めた方がいいんじゃない?と窘める彼の声を無視して、名前はグラスを傾ける手を止めなかった。これでいい。お酒のせいにするのだから。

「フィガロも何か言ってみてください。わたしばっかり恥ずかしくて、ずるいです」
「俺?う〜ん、いいけど、前に一度失敗してるからなあ」
「ああ、『きみを篭絡したいからさ』ですか?」
「よく覚えてるね。自信あったんだけど」
「あれを口説くとは言いません!あんな冷たくて恐ろしくて軽々しい愛に靡く女性なんていませんよ」
「そこまで言う?」

 わざとらしく肩を竦めて泣き真似をするフィガロが白々しくて溜め息が出る。愛を語りながら、愛を理解できないと豪語する彼は、けれども人から愛されずにいられない魅力を持っているから憎たらしい。
 狡いひとだ、本当に。

「賢者様」
 フィガロが流し目で名前を見つめる。榛色とグレイの瞳が寂しげに揺れながら、彼はたった一言だけ囁く。


「俺を置いていかないで」


 は、と息が止まった。心臓に氷を流し込まれたみたいに、寂しくて、苦しくて喉が締まる。凍りついたように血液が冷えたのに、むしろ目元は焼き付くように熱くて、痛くて、ぐちゃぐちゃになる。
 フィガロは、そんな名前を見て面食らって狼狽を顔に漂わせた。飄々とした雰囲気が消えて、目を丸くした彼が心底困ったように名前をあやす。
「まいったな……どうして泣くの?そんなに駄目だった?それとも傷付いちゃったのかな」
 彼に言われて、名前は初めて自分が泣いていることに気付いた。手の甲で目の下を拭うと、思っていたよりびちゃびちゃで笑いそうになる。
 クッと喉が鳴って、笑いの代わりに嗚咽が洩れた。自覚した途端さらに涙が出てきて止まらない。

「泣かないでよ。きみのそんな顔もかわいいけど、俺が悪いみたいじゃない」
 困ったように言って、フィガロは名前の隣にいそいそやってきて、迷ったように肩に触れた。赤ん坊を腕にしまうように、胸元へ引き寄せられる。背中を優しく撫でられ、それがますます胸を切なく痛ませた。
「ぅ〜〜〜っ、ひくっ、」
「よしよし、いい子だね」
「ぐすっ」
「なんで泣いてるのか分からないなあ。俺に何かが欠けてるから分からないのかな」
 ひとりごとみたいにフィガロが呟いている。

 俺を置いていかないで。
 なんて寂しい言葉だろう。彼の圧倒的な孤独に寄り添えないことが悲しかった。
 不安に躊躇うような囁き声は、どこまでも諦念が滲んでいて、彼が誰にも期待していないことが、それに答えてあげられないことが。
 彼をひとりにしたくないのに。
 こんな言葉、愛じゃない。睦言であってたまるものか。ただ誰かに寄り添って欲しい気持ちすら願えなかったフィガロの人生を思うと、身体がばらばらにちぎれてしまいそうだった。

「ひくっ、ぅ、ん……」
「あはは。泣いたら眠くなった?」
「っう、」
「いいよ。フィガロ先生に身を任せなさい」
 あたたかな大きな手のひらでゆっくり撫でられ、トントンと鼓動と同じタイミングであやされていると、だんだん息が整ってきて視界がぼやけてくる。
 まどろみに落ちながら、名前の耳を彼の静かな声が素通りしていった。
「賢者様は変わってるね。きみが俺を見る眼差しは他の誰とも違うような気がする。憐れみかな。同情?ううん……それよりは優しい感じがするな……。きみは何を思っているんだろうね」
 子守唄みたいな意味のなさない柔らかい声を聞きながら、名前の意識はそこでふつり、と暗闇に途切れた。

*

 膝の上でうごうごする賢者に、フィガロは苦笑しながら声をかける。
「おはよう。目が覚めた?」
 賢者はしばらくまばたきをして、半目のままフィガロの顔を眺めてつぶやく。
「夢か……」
「夢じゃないよ」
「ぅ〜ん……」
「また寝ちゃうかな……俺もそろそろ寝ないと、明日ミチルに怒られてしまうよ」
 彼女は返事のようなものを何かむにゃむにゃ言って、寝ぼけまなこでぼーっとフィガロを見つめている。酒と眠気でとろけそうな賢者の黒い瞳は、なんの感情を浮かべているか読めなくて、少し困る。

「いつかね、」
 下から覗く賢者を見下ろして、フィガロは「ん?」と返事をする。要領を得ない酔っ払いの言葉は聞き流しても別にいいんだけれど。
 膝にいる賢者があどけなかったから、ミチルにするみたいに、耳を近づけて、言葉を促してやる。賢者はそれに少し嬉しそうな顔をして、夢を願うようにうたう。

「いつか、フィガロのマナエリアに行ってみたいんです」
 少し眉を上げて、「連れて行ってあげるよ」と答える。何かと思ったら、そんな簡単なことすぐに叶えてあげられるのに。なぜ密やかに囁くのか分からない。
 フィガロを見ているようで上の空の賢者は、半分夢の中に旅立ちながら、ポツポツ言葉を零している。
「空が曇ってて、海が荒れていて、風が強くて……そんな海。フィガロは帰る場所がないんでしょう。だからマナエリアがいいです。
 それで……それで、」
「うん」
 躊躇うように一瞬眉根を下げた賢者に頷けば、表情はまた柔らかくほどけて、叶わない何かを語るように、優しい顔をする。
「岬の上から海を眺めて、星を眺めて、思い出を語らったりして……。フィガロはこんな風に、わたしの膝の上に寝てていいですよ。手も繋いであげます。抱きしめてあげたほうがいいかな……どれがいいですか?」
「ええ?じゃあ……抱きしめて欲しいかな」
「いいですね……じゃあいつか……わたしに抱きしめられたまま、北の国の海で……石になってくださいね」
「……え?」
「わたしはフィガロの石を頑張って全部食べますから……。それで、ムーンロードの先を目指して海に還ります。月に帰ります。そうしたら、死ぬときも、死んだあともずっと一緒ですよ」

 フィガロは自分の心臓が震えるのを感じた。指先が痺れて、視界が白くなり、ただ賢者の顔を見下ろす。
 彼女はただただ穏やかで、寂しそうにも、満足そうにも見えた。

 『ひとりぼっちで石になりたくないな……』

 以前そう言ったのが聞こえていたのだろうか。
 これは彼女の答えなのだろうか。
 胸の内からせり上げるような何かが、怒りなのか、哀しみなのか、ときめきなのか、涙なのか、安堵なのか、フィガロには区別がつかない。けれども、求めていた抽象的なものの輪郭に、ほんの少しだけ触れたような感覚がする。

「……はは……熱烈だね、賢者様。それって恋?……儚いものはすぐ消えてしまうのに、酷いな」
「永遠の恋も、永遠の愛もありはしませんよ……物事は移ろっていくものだから……」
「…………」

 フィガロは沈黙した。
 信じていないけれど、愛は幻想だと誰かの口から聞くのはこころが硬くなる。失望には慣れているけれど、毎回何度も失望し続けてしまう。
 賢者はフィガロに手を伸ばした。するりと抱きしめるように、首の後ろに手を回し、フィガロには理解できない感情を瞳に映す。吐息が触れ合うような距離で賢者が祈る。月明かりが、睫毛のふちを彩る雫を煌めかせる。

「だから、愛を永遠にするために……思い出を抱えて、一緒に生きて、一緒に死にましょう」

 フィガロの唇に柔らかな感触が触れる。こどもの戯れのような口づけだった。目の奥がなんだか熱くなって、フィガロは困ったように笑って俯いた。

 照れたようにはにかむ目の前の彼女を思わず抱きしめる。こころの震えを無視することは出来なかった。
 執着したって甲斐がないのに。
 頭の冷静な部分が諦めを捨てきれはしないのに。

 手に触れたら消えてしまう雪。形を変えて留まらずに流れてゆく雨粒。ただそれだけだと忘れてしまうには、彼女の温度は熱すぎた。
 フィガロはただ、その熱を感じていた。


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