誰にでもあったはずの光


*夢ではありません
*ブロマンス


「ん、もうすぐフェスタ・デッラ・マンマだな」
 キッチンの椅子にちょこんと座って優雅にエスプレッソを嗜んでいたリボーンが、新聞を読みながら呟いた。
「んあ、何それ?」
 トーストに目玉焼きを乗せて噛みついた綱吉が、口をモグモグさせて首を傾げる。口の端についたケチャップを下でペロリと舐めとって、ゴクゴク牛乳を飲む。もう十時だった。
 寝坊した綱吉はダラダラ朝食と昼食のあいまを楽しんでいた。
「日本でもあるだろ、母の日だ」
「ああ。うん。いちおうね」
 反応があからさまに鈍くなった綱吉に僅かに眉を動かして、黒々とした瞳でじいと見つめれば、途端にしどろもどろと言い訳めいたことを口の中で言っている。
「別にそんなの今まで気にしてなかったし。小学校で絵を描かされたくらいだよ」
「ママンを大事にしねえ奴は大成出来ねえぞ」
「いいよ別に。なんか今更そんな……」
 まだ何も言われていなかったが綱吉はリボーンと付き合いが長かったので、秒で宥めにかかった。
「毎日一緒に暮らしてるしさ? あ、ホラ、イタリア式とかどう? みんなで花送ればいーじゃん。みんなで。なっ?」
 綱吉はまだ十五歳なのでわざわざあらためて母親に感謝を伝えたりだとかは恥ずかしいのである。もしかしたらボンゴレ式マンマなんとかだとかを開催するだとか言い出すかもしれない。
 それはスッゴクスッゴク嫌だ。山本ンちはお母さんの話を聞かないし、獄寺はもう亡くしているし、だとすれば担ぎあげられるのは奈々である。そうしてその息子である綱吉である。
 それでリボーンのことだから日頃の感謝を朗読しろだとか、いちばん感謝を表現した奴が優勝で最下位は死刑だとか言い出すんだ。絶対に嫌だ。
 リボーンはその場は濁されてくれたけど、口元がちょっとニヤッとしたのでロクなことは考えていなさそうだった。綱吉は仕方なく、悪魔が余計なことを言う前に身内を巻き込むことにした。思いついたが吉日。珍しく綱吉は迅速に動いた。


「なあビアンキ、母の日って知ってる?」
「あら、日本でもやるのね」
「ランボも、イーピンもフゥ太もさ。今週の日曜日、母さんに花でもあげない? 俺一人じゃ照れくさいし、みんなで、ねっ、ねっ」
「あんたにも殊勝なところがあったのね。花。悪くないわ」
「日本式ならカーネーションがいいかな。でもアザレアも素敵だよ」
「花じゃなくってもいいわ。私は香水でも探してみようかしら」
「なになに!? ランボさんもやるーーッ!ツナアアアア」
「分かってるって。イーピンも」
「ナニ? ハハノ、ヒ?」
「あー、えっと何だっけ。うーんと…ムーチンジエ。わかる?」
「ウン! 康乃馨!」
「そうそう、カーネーションを送る日」
「ねえなにったら、ツナーー!」
「母さんにいつもありがとうって言う日だよ」
「いつも言ってるよ?」
「ウ、偉いな。でも特別にありがとうの日だよ。何だっけイタリアでは」
「Festa Della Mamma。アウダーリと伝えるのよ」
「それなら知ってるもんね。ランボさんはいつもボスに言ってた!」

 話は着いた。
 ビアンキたちはあれやこれやと練り始めている。ひと仕事終えた気分で満足気にフウと息を吐く。暴走するかもしれないけれど、リボーンよりマシだ。絶対そう。
 労働のあとはアイスでも食べたくなってコンビニでも行こうかしらとご機嫌に考える。綱吉はただ母の日のことをチビ共に教えてやっただけだと言うのに、この態度である。労働がトコトン向かない男なのだ。

 玄関に向かう途中で怠惰な超直感がピンと働いた。アイスがやってくる。食べたい味かは分からないけれどまあいっかと思い、自分の部屋でゴロゴロして待つことにする。
 十分後、自立歩行型のアイスがやってきた。
「お邪魔させていただきます、十代目! 今日は気温が高えっすから冷たいモン買ってきました」
「ワア待ってた! 何にしよー、アッ! オレちょうどチョコミントの気分だったの。ありがとう獄寺くん。あ、いらっしゃい。寛いでいいよ」
「恐縮っス! へへ失礼しますね」
「ウン。冷蔵庫に冷えた麦茶あるよ。あとぶどうジュースも」
 早速袋をベリベリ開けて口に含むと、甘くって爽やかなハミガキ粉の味が広がった。ハミガキ粉って言われると怒る人もいるけど、綱吉はむしろハミガキ粉みたいなのに美味しいのが好きだった。
 獄寺は慣れた様子で彼用のスリッパをペッタンペッタンさせてお茶を取りに行く。出会ったばかりの中一の頃は休日も制服で来たりしていたけど、今ではすっかり沢田家に馴染んで、黒T黒スキニーのドシンプルな格好で来ることも多くなった。
 脳みそを使ってないようなコーディネートなのに、ネックレスやらベルトやらがシルバーでジャラジャラして彼は何を着ても怖格好良かった。

 彼はお盆にコップをふたつ乗っけて机に置いた。綱吉だったら両手に持ってドアを足で開けるけれど、彼はそういうことをしない。育ちの良さがたまにポロッと顔を出す。
 獄寺は特に何かを言うわけでもなく綱吉のマンガを読み始め、綱吉はアイスを食べながら机に肘をついてスマホを触っていた。窓の隙間からたまにそよそよ風が吹いてきて、遅咲きの桜の匂いも乗っている。
「獄寺くんさア」
「はい」
「来週の日曜日ヒマ?」
「予定はありませんし、あっても空けますがどうかしたっスか?」
「良かった。何の日か知ってる?」
「?…いえ。スンマセン」
 戸惑っている獄寺の顔は子犬みたいだ。口をム?として眉をギュッとしてシワが寄るのが昔は怖かったなあ。いまではただ考えている顔だとわかる。

「あんね母の日なんだ。獄寺くんおいでよ」
「エッ? いや、確かにお母様には大変お世話になっておりますが、そういう名前のついた特別な日に図々しくお邪魔させていただくわけには……」
「マママ気にしないでよ。もう家族みたいなモンじゃん」
「しかしですね」
「そうだ今日の夕飯食べてく?炒飯と回鍋肉だって」
「イイんスか? ありがとうございます! お母様マジで料理うめえっすよね。姉貴にも見習って欲しいぜ」
「ビアンキはなあ。……ほらね?獄寺くん」
「はい?」
「家族みたいなモンじゃん?」
「アッ」
 アチャっと顔を崩して獄寺はなおも言葉をつらつら言った。
「その……なんといいますか……場違いだというか、浮いちまわないっスかね? どの立場でいればいいかもわかんねえですし」
「分かるよ。気まずいよね。普通の人だったらね。でもキミそれ嘘だろ」
「やっ、嘘では無いです!マジ俺十代目に嘘とか付かねえっすから!」
「知ってる。でもそれは本心ってわけじゃない。わかるよ……。うん、端的に言うとさ」
「は、ハイ」
 獄寺も綱吉の遠い目を見て悟っていた。
 ふたりは同じ気持ちだった。
「高校生にもなってママいつもありがと! ってメッッッッッチャきつい……!」
「分かります!!」
 獄寺は逃げられなくなった。綱吉は生贄もとい同志を手に入れたのであった。


*


 午前中にドヤドヤ花やらプレゼントやらを買い込みに行って、日曜日は着々と準備を進めていた。
 奈々はいない。
 リボーンが手配したサロンでエステとトリートメントを受けている。用意するものがキザったらしくて、綱吉にはマネ出来ない。
 綱吉は無難にカーネーションを用意した。スタンダードな赤色で「ヒネリがないわね」とビアンキに鼻で笑われたが、なくっていいのだ。平凡がいちばん。
 花屋のお姉さんにニコニコ微笑まれつつ、カードもあるわよと勧められて、仕方なく「いつもありがと」と手書きで書かされて添えられちゃ、もう恥ずかしくって仕方なくって、「ウギイイイイ」と喉を掻きむしりたくなった。
 獄寺はガーベラを買っていたが、みんながいなくなったあとこっそり白いカーネーションを買ったのを知っていた。友達の秘密を覗いてしまってちょっと申し訳ない。獄寺は開き直って笑えないギャグにしてるから本当に気にしてないんだろうけど、綱吉はちょっと気にする。家族ごっこに巻き込んだのも、ちょっとだけ関係ある。
 獄寺は奈々に「お母さん」とはこんな感じなのかと透かして見てる部分があるから、綱吉は彼にもう家族だよって言いたかった。改まっては言えないけど。もう冗談ぶってしか言えない。
 昔は多分言えた。
 もっとお互い距離があって、必死で、今よりもっと恥ずかしい奴らだったお互いなら。今はもう無理。ぬるま湯みたいにズブズブに仲良くなった代わりに、身内に本心を伝えるのがムショーーに恥ずかしくなる時期に入ってしまった。

 家に帰ってドタバタ調理に取りかかる。
 獄寺とビアンキは料理において使いものにならない。ビアンキには必死で、
「男の俺じゃ母さんが喜ぶような飾り付けとかぜんぜん分かんないからさ! 机に花とか置いとけばい? それでい?」
「バカ言わないで。あんたみたいなセンスや風情の欠けた奴にあれこれされたんじゃたまらないわ」
 ビアンキはランボとイーピンとリボーンを連れて、レースのテーブルクロスだとか、椅子に乗せるクッションだとか、可愛い花瓶だかを買いに行った。
 綱吉は安心して胸を撫で下ろした。
 あとは料理である。
 もう男手しかないからカンタンなものにしよう。カレーとかシチューとか。
 獄寺はホントに切るとか片付けるだとかがダメだから野菜を炒めてもらう要員だ。それまで手持ち無沙汰と申し訳なさでいたたまれないっスとうろちょろするので、野菜を洗ってもらう。皮むきは綱吉。切るのはフゥ太。
 綱吉もだいぶマシになったとは言え、ヘナチョコでダメダメであるので、いちばん頼りになるのはフゥ太なのだ。情けない兄たちにフゥ太は困り眉で「任せてよ」と言うしか無かった。ランボー者のランボよりは多分マシなはずだ。

「フゥ太は何買ったの?」
 並行して味噌汁を作っている綱吉が聞いた。
「ウン。アザレアとハンドクリームだよ。世界中のママンが欲しいプレゼントランキングの上位なんだ」
「そんなランキングあんの? ズッコい!」
「あはは、冗談だよツナ兄。まだ能力があった頃、ママンのランキングをつけようなんて思ったことなかったもの」
「そうなの? フウン、そういうものか」
「そういうものだよ」
 会話は途切れフゥ太はニコニコ凪いだ瞳で手を動かしている。綱吉は気付いていなかったが獄寺は何となく分かった。
 フゥ太はあんまり母親を焦がれて生きて来なかったのだろう。獄寺とは違う。

 物心ついた時から不思議な星々の力を持っていた王子様。フータ・デッレ・スタッレ。星達のフゥ太。
 ちいさい頃の家族の記憶はない。
 フゥ太を利用する大人たちと冷めた目で言いなりになる自分。いずれその力を利用し、可愛い子犬の顔をして、大人たちと取引する生き方を身につけ、ずっとひとりで生きてきた。
 フゥ太にとって沢田家が初めて触れる家族のあたたかさだった。
 初めて出来た心の許せる居場所だった。

 ルーを入れて煮込み始めた頃ビアンキたちが帰ってきた。
 一気に家の中が騒がしくなる。
「ウッ。眼鏡してるっスか?」
「ええと、してない。獄寺くん味噌汁混ぜてて。優しくだよ。お湯が跳ねないように、あとお玉以外のものに触らないで」
「ハイ」
 殊勝に頷いてそうっと鍋を掻き回す。獄寺も鍋を混ぜるくらいはひとりでも出来るはずだ。
 山本はゼッタイ獄寺をキッチンに入れないけど。

「ビアンキおかえり」
「ただいま。料理のほうは?」
「今煮込んでる。ねえ眼鏡してくれない?」
「なんで?」
「えーと……うーん、分かるだろ?」
「ハヤトね。まったく、いつまでも我儘な子。今日のコーデに眼鏡は合わないのに」
 ビアンキはぶつぶつ不平を垂れながら紫の細フレームの丸眼鏡をかけた。今日の彼女は黒のハードなレザージャケットに、きらきらしてる千鳥格子のニットワンピを着ている。京子たちが着てるような服とは全然系統が違う。確かに丸眼鏡は合わないかもしれないけど、綱吉はリボーンに教育されていたのですぐさま褒めた。
「そんなことないって! カッコイイ雰囲気だけじゃなくて、話しやすい感じもあって似合ってる。ウン」
「それ褒めてるつもり?」
「エッ……ダメだった?」
「下手ね」
 フッと笑ったが、見下す感じじゃなくて、零れたような笑いだった。良かった。怒っていない。

「ギャアアアアッ! ツナ! うええ〜〜ん」
 ふたりが話してる間にリビングは酷いことになっていた。花は散っているのがあったし、水も撒かれて、花瓶も数個割れている。グチャグチャの部屋の真ん中で焦げたランボが号泣している。
「リボーン! 虐めるなって。今忙しいんだから」
「勝手に自爆したんだ」
「そうだろうけどさア」
「うあああああああ!!」
「ヤ! ランボ、キタナイ!」
 涎と鼻水を擦り付けるように抱きつかれて、イーピンは抗議の声を上げながら身を捩って抵抗している。
「イヤ!」
「ウアアアア! イーピンが蹴っだあ"あ"ああ!! ツナアアーーーッ!!」
「ちょっ、泣かないでランボ……大丈夫だから」
「ウギャアアアアアアアアアア!!!!」
「うわわわツナ兄……」
 怒ったイーピンがランボを蹴り飛ばし、机の角にぶっつけたランボがますます泣き叫び、リボーンは優雅に縁側でお茶を飲んでいる。最近のランボは最初の思春期なのか、何でもイヤイヤ言うし、泣いて泣いて泣いてグズグズ言うようになっていた。泣き叫び始めたら宥めてもあやしても何しても泣き止まない。構われないとさらに泣くのに、気付けば突然ピタッと泣き止んでコロッと遊んでいたりするのだ。
 あまりの煩さにイライラしたビアンキが「静かにしてなさい!」と拳骨してイーピンまで泣き出す。フゥ太はオロオロしてツナの顔色を伺っていた。

「ギャアギャアうるっせえな! アホ牛! いつまでもグダグダ泣いてんじゃねえ!」
「獄寺くん!」
 耐えられなくなった獄寺もやって来てランボを軽く蹴った。さすが兄弟である。嫌なところで似ている。もう手がつけられなくなったランボは手榴弾を投げつける。
「あーーもう! 火に油注いでどうするんだよー!?」
「ガ・マ・ン……なんてしないもんね! 獄寺のバカアア!! ちね!!!!!」
「おめーが死ね!」
「グピャッ! ウアアアアア!!!」

 爆発音が響く。手榴弾が部屋を焦げさせ、同時に獄寺は自分に向かって弾が向かってくるのが見えた。
「んな……っ!」
 避ける暇がない。

 煙が晴れた頃……。
 そこに居たのは生意気さと愛らしさを残した、いたいけな少年だった。


*


「ゲホッ、ゴホッ……クソッ、アホ牛の野郎……。は?」
 獄寺の目に飛び込んできた光景に、彼は思わず言葉を失った。
 目の前にピアノがあった。大きくて古くて、でもいつでも綺麗な音がする。幼い頃弾き慣れたピアノにソックリだった。
「ぁえ?」
 間抜けな声を漏らしながら獄寺は周囲を見回した。懐に手を入れ煙草を咥える。でも火はまだ付けないでおく。ピアノはヤニで汚れちまうから、いちおう、念の為。誰に聞かせるでもなく何となく獄寺は心の中で言い訳をした。
 部屋の中はすごく懐かしくてたまらなくて、いきなり迷子になったような言葉に出来ない不安と焦燥感がジワジワと爪先からせり上がってきた。少しくすんだ大理石の床、趣味の悪いゴテゴテしたカーペット、白と金で統一された見覚えのある古城。部屋の中央には大きなテーブルとソファやチェア。サテンのカーテンの向こうから見える丘や、よく逃げていた森。
 有り得ない。
 だって、この城はもうとっくに誰かの物になったはずなのに。ファミリーを維持出来なかった親父が手放して、もうとっくに廃れたと聞いていたのに。

 じゃあ何なんだ。何なんだこの、あまりにも懐かしいこの部屋は。
 心臓がドクドクとした。
 最後に見た、獄寺に向かってきた弾。あれに被弾したのだ。あれは多分ランボが暴発した十年バズーカだった。普通なら未来に行くはずだが、故障でもしていて、まさか、まさか、俺は今、過去に。

「フーーーッ。……アホらし」
 過去に来たからなんだってんだ。ピアノの傍の壁にズリズリと腰をおろし、苦く笑った。バズーカの効果は五分だし、この家の誰かに会う必要は無かった。
 親父が母親を愛していようと、それを今の俺がどうこう言う資格はない。家を出てから一度も会っていない父親。生きているのかすら知らない。ファミリーが壊滅したんなら殺されたかな。ビアンキも何も言わない。

 しばらく部屋でボーーッとしていた。
 ピアノの部屋は獄寺しかあまり使わないし、掃除の時間も覚えていた。カーテンの隙間から陽光が差し込み、巻きあがった埃を照らすのを何となく見ていた。

 そして、はたと気付く。
 もう五分以上経っている。

「クソッ、時間もぶっ壊れてるってわけかよ……」
 飛ぶ時間も過去になった上に、帰る時間もズレている。それなら今の時間軸も十年前じゃないかもしれない。いつ帰れるか分からないのに、ずっとこのままというわけにもいかない。
 どうするか、と煙草を吸いそうになり、火をつける手を止める。ニコチンを摂取したくてイライラしそうだった。マフィアの家でいきなり匿ってくれなんて怪しすぎて殺される。
 かと言っててめえの息子の未来の姿だよなんて言い出す気にもならない。信じてもらえないのは当然のこととして、名乗ることがもう嫌だ。どんな顔をすればいいんだっつー話だよ。

 と、その時。
 ギイ、と軋む音が響き、獄寺は飛び上がった。まずい!
 慈悲なく扉は開いた。隠れるのも間に合わず、戦闘態勢のまま見つめていた獄寺は、ヒュッと息を止めて動けなくなった。
「あら? お客様がいらしたのね」
 美しい女性だった。獄寺は目が離せなくなった。優雅なロングワンピースに身を包んだ彼女は、くすんだシルバーの髪を靡かせ、ゆっくり近付いてきた。緑色の瞳。彼女は楚々として気品を纏っていた。
 何も考えられず、言葉も紡げなくて、獄寺は近付いてくる彼女をじっと見ていた。頭は真っ白なのに全身が心臓になったようで、自分の鼓動が耳元で爆音で響いていた。手が汗ばむ。
 ひと目見た瞬間から、彼女が母親だと気付いてしまった。


「大丈夫? お加減が悪いの?」
 彼女は白い指をそっと獄寺に触れた。冷たいのに焼けるようなほど熱い気がして、ようやく我に返り、怯えるように数歩下がる。
「な……なんでもねェから」
 声が震えている気がしたが、彼女は気づかなかったらしい。自分がどんな感情を抱いて、どんな顔をしているか分からない。
「そう? あなた、どうしてここに?」
「…………」
「その瞳……。綺麗ね。髪の毛も……」
「…………」
「いつからいるの?」
 黙り込んだ獄寺に何かを察したのか、彼女は「……そう」とだけ口にして微笑んだ。月の光のような微笑み。

「ソファに座っていいのよ。良かったら演奏を聞いていってくださる?」
 彼女は歌うような口調で喋った。獄寺はよろよろとソファの傍に歩いて、崩れ落ちるようにして座った。
「ねえ、あなたのお名前は?」
 彼女の横顔を思わず見て、目を逸らす。
「言いたくない? ごめんなさい、少し不躾だったかしら」
 ポロン、ポロン、と白い指が鍵盤を弾く。
 獄寺はムッツリと黙り込んでいた。現実を受け止めかねていたし、反射的に言葉が喉のところでつっかえていた。
 彼女は気にする様子もなく、ピアノに時折触れながら獄寺の方に視線を投げて、ひとりでするする喋った。獄寺にはそれが戯れに思えて、ムカつくのに何故か何も言う気が起きなくて戸惑う。

「私はラヴィーナ。この御屋敷の坊っちゃまに、年に数回ピアノを教えているの」
 ラヴィーナ。ラヴィーナ。獄寺は一瞬だけギュウと強く瞳を閉じた。それは何かを噛み締めているようにも見えた。
「あなたの為に曲を弾くわ」
 彼女が豊かな髪を揺らした。ポン、と響いて音色が流れ出す。しっとりとした低い旋律が混じりあって優雅に空間を包んでいく。獄寺はラヴィーナを見つめた。徐々に早くなり、音が弾け絡み合い、音階が上がっていく。
 ヴェールのように美しい音色が、いつしか獄寺の心を落ち着かせていた。
 懐かしい。
 ひとときも動かずに、まるで彼女を焼き付けようとする無意識の自我がそうさせるように、獄寺は聞き入っていた。

 曲がゆっくりと収束し、ラヴィーナが睫毛を伏せてふうと息をつく。夢の時間が終わる。

「大した腕前だな」
「ありがとう。コンサートは楽しめた?」
「んまア、そこそこは」
「まあ、手厳しい。それとも素直じゃないのかしら?」
「……ケッ」
「ふふふ」
 何がおかしいのかラヴィーナをふわふわ笑って、彼女に優しい目瞳で見られるのは落ち着かない気分になった。

「今の曲はね、私がいちばん好きな曲なのよ」
「……Liebesträumeだろ。リストの」
「やっぱり知ってらしたのね」
「やっぱり?」
「そうじゃないかと思ったの。ねえ、ピアノは弾ける?」
 答える前にラヴィーナは獄寺の手のひらを掴んだ。柔らかくてちいさくて冷たいのにあたたかいような。普段なら怒鳴っている彼も、今は肩をこわばらせるだけで、抵抗もできず、引っ張られていった。
 ダークウッドのチェアに座らされ、「弾いてみて?」語尾が溶けていくような囁き声。
 観念してちいさく唸る。
 なんでこんなことに。そう思いながら「何がいいんだよ」と問いかけると、「あなたがいちばん好きな曲」と返されて困ってしまった。
 だっていちばん好きな曲はラヴィーナと同じだったから。

 仕方なく獄寺は弾き始めた。
 彼女が弾くよりも、力強く弾むような曲調だった。ラヴィーナにはとうてい敵わない拙い技術でいたたまれなかったが、獄寺は指を動かし続けた。
 ラヴィーナが目を見開いて獄寺の横顔を見つめているのが分かった。
 先程と真逆だ。

 曲を弾き終えて静寂が満ちる。
 どちらも言葉を口に出来なかった。
 獄寺は鍵盤を見つめて口を噤んでいた。ラヴィーナの吐息が震え、息が徐々に上がっていく。
 陽の光が降り注いでいた。
 ラヴィーナと、獄寺と、ピアノを照らし、薄暗い部屋の中でふたりを浮き立たせる。獄寺の睫毛や瞳が煌めいて見える。

 リストのLiebesträume、愛の夢。第三番。おお愛しうる限り愛せ。ラヴィーナの心に根付く想いを象徴するような曲で、彼女はこの曲が好きだった。
 いつもこの曲を弾いていた。
 獄寺はラヴィーナの声も、顔も、思い出もほぼ忘れていたが、この曲だけは頭の片隅に残っていて、いつの間にか、彼自身のいちばん得意な曲になった。

「ふふ……夢みたいなことを言っても、いいかしら?」
「……なんだよ」
 ラヴィーナの声があんまりにも乱れていて、獄寺は思わず彼女を見上げた。ラヴィーナのおおきくて美しい瞳に光の影がうるうる溜まっていて、獄寺はぎょっとした。
 目が会った瞬間、耐えきれないように瞳から真珠が零れた。ひとつぶ零れると、あとからあとから光のつぶがぽたぽた落ちて、ラヴィーナの手を濡らした。

 彼女は獄寺の頬に手を添えた。
 慈しむような手つきだった。

 ラヴィーナは泣きながらくしゃりと顔を歪めると、ほぼ掠れた声で呟いた。胸が押し潰されそうだった。
「隼人なのね?」
「ッ!…………」
「分かるわ。はじめて見たときから、もしかしたらって、馬鹿みたいだけど思ったの。あなたは私の……可愛い隼人なんでしょう?」
「……、……ッ、……母さん…………」
 何かが込み上げて獄寺の声も震えた。喉が熱くなって、眉と目をぎゅうと強く瞑って、俯いた。ラヴィーナの温もりが獄寺を包み込んだ。
 抱きしめられている。
 顔が熱くなった。なのに嫌じゃなかった。……嫌じゃなかった。


*


 ボフン。
 獄寺はポカンと自分を見つめる敬愛するボスに迎えられ、元の時間軸に戻った。
「ワーー! おかえり獄寺くん!」
「十代……目?」
 戻ってきたのか。
 獄寺はすぐにニカっと笑顔を浮かべた。
「スンマセン、チビの俺がご迷惑お掛けしませんでしたか?」
「ううん、それがねスッゴク大人しくて可愛かったの! 本当にお坊ちゃんなんだねえ」
「う。忘れてください」
「ムリだよ。ランボたちとも仲良くなったんだよ。振り回されてたけどね」
「でしょうね。昔の俺にはあいつらの相手はきちいや」
「いっぱい遊んで眠くなったみたいで。お昼寝してたんだ」
「そうなんスか、いや、すみません十代目、ホントあの牛ガキのせいで」
「いいよ。獄寺くんは? 未来で何かあった?」
「……いえ、その。普通のことしか」
「ほんとに? 嬉しそうな顔してる気がしたんだけど」
「ピアノを。ピアノを弾いただけっス」
「そっか。楽しかった?」
「……まあ、ハイ。意外と。悪くなかったっつーか」
「そっか。よかったね。ふふ、良かったねえ、獄寺くん」

 綱吉は柔らかい声で良かったねえと言った。それがあんまりにも優しいものだから、胸がジインとして体がムズムズした。
 十代目は何でも見透かしていらっしゃる。
 照れ臭さと尊敬がまた胸に降り積もる。


 ラヴィーナは、獄寺を胸に抱きながら、咽ぶのを耐えるように想いを零した。
「夢みたい……だけど夢じゃないのよね。現実なのよね。だってこんなにもあたたかいんだもの……」
「ああ。夢じゃねえよ」
「ねえ、もう一度呼んで。あなたに呼んでほしいの」
「う……。わあったよ。……母さん」
「ふふ。ありがとう。すごく嬉しい……」
「大げさだっつの。おふくろ」
「まあ。うふふ。反抗期なのね。うふふ……ふふ……。ううっ……夢みたい……」
「…ンなに泣くなよ」
「だって。大きくなったあなたと会えるなんて思わなかった」
 その言葉が突き刺さって思わず唇を軽く噛む。
「やっぱりそうなのね。ごめんなさい、隼人、あなたを置いていって。ああ、でも、嬉しいの。未来のあなたは……私を……私を母と呼んでくれるんだわ」
 ハラハラとまた彼女は涙した。とうとう顔を覆って嗚咽を洩らし、獄寺はアワアワと狼狽えるばかりだ。泣いてる女を前にして気の利いたことが出来る男じゃないのだ。

 ラヴィーナは泣きながらクスクス肩を揺らした。
「ダメねえ」
 愛おしさに溢れた母の声だった。獄寺の肩の上に顔を乗せて、頭をゆっくりと撫でる。吐息が髪にかかる。彼女は百合の花の香りがした。

「泣いてる女の子がいたら抱きしめてあげるのよ」
「な……で、出来ねえよ」
「イタリア紳士でしょう。女性に優しく、守ってあげるのよ。女の子にはエスコートして褒めてあげるの」
「柄じゃねえんだよ。んなシャマルみてえなこと」
「まあ。お医者さまね。あなた懐いてたものね。知っていた?あの方私の主治医なのよ。そう、彼とまだ関わりがあるのね」
「……マア」
「ビアンキさまは? あの子とは仲良く出来てる?」
「……今ふたりで日本にいるよ」
「日本に。日本に来てくれたの。ふたりで……。今あなたは幸せ?」
「……おう」
「そう。良かった。良かった……。隼人。幸せになってね。ずっと元気で、笑っていてね。いつか恋をして、大人になって……。それでたったひとりを愛するのよ」
 ラヴィーナはまっすぐ獄寺を射抜いた。強い瞳だった。愛人にされて、将来を奪われて、息子と会えなくて、母親として振る舞うことも許されずに、病で死んでいく彼女。何故こうも気高いのか。

 彼女の潤む瞳が、綻ぶ目元が、笑む唇が、ラヴィーナの全てが獄寺を愛していると叫んでいた。獄寺は圧倒的な母の愛に包まれていた。
「隼人、一生懸命生きて、幸せになってね。母さんとの約束よ」
「ああ……」
「良かった。約束よ。大好きよ。私の可愛い隼人……。ずっとずっと愛しているからね」


 軽く俯いて物思いに耽る獄寺の横顔に、綱吉はあたたかくなった。何が起こったのかは分からないけれど、彼にとって本当に得難い何かがあったのだと分かって、嬉しい。
 ちいさな獄寺くんは、今日はピアノのレッスンがあるのに、と言っていた。あの人とはたまにしか会えないのにって。
 もしかしたらその人に会えたのかもしれない。
 ちいさな獄寺の貴重な一回を減らしてしまったのはすごく申し訳ないけれど、二度と味わえない奇跡が彼に起きたなら、綱吉はそれを大事にしたかった。
 ちいさな獄寺は、たぶん、違うパラレルワールドに分岐してしまっただろうけど。今隣にいる獄寺の中にもしかしたら、今日の自分たちの記憶が眠っているかもしれないと思うと、それも何だかちょっとだけワクワクした。

「獄寺くん! もう準備出来てるよ! 行こう!」
「ハイ、十代目! お母様にめいっぱい感謝の念を伝えさせていただきます!」

 獄寺が抱えていた僅かな胸の重みは、もう溶けてなくなっていた。
 焦がれていることを認めたくなかったもの。
 きっと誰にでもあったはずの光に、生まれた時からずっと、照らされていたと知ったから。

*


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