走馬燈 2


 Dは粗末な革のズボン、くたびれたチュニックに身を包んだ。みすぼらしいというより、さらにひどい格好に思えた。
「ふふっ、ふふ、いやだわ、デイモン、あなたってばぜんぜん似合ってない!」
 口を開けて、涙まで滲ませて笑うエレナに恨めしげな視線を送る。
「仕方ないではないですか、初めてなんですから……あまり笑わないでくださいよ」
 言い訳のように口から漏れた言葉は、意図せず拗ねるような響きを帯びてしまい、エレナはとうとう腰を折り始めた。
「あなたって、けっこう、可愛い人ね」
 上擦る途切れ声で言われても嬉しくない。Dは恥ずかしさと気まずさと擽ったさで押し黙った。微かに頬が熱い。

 ようやっと涙を拭ったエレナが言った。
「はあ、ふふ、ごめんなさい。素敵な体験をさせてあげるから、許してね」
「仕方ありませんね。……エレナ、もう笑うのはお辞めなさい」
「だって……ふふっ」

 馬車で少し走ると、エレナの別荘にも劣らない見事な屋敷が見え始めた。小高い丘の向こうに建ち、小さな森が見える。屋敷までは金と緑の景色に囲まれている。
 馬車が到着すると、気だるげな態度で青年が近付いてくるのが見えた。
「まずわたしの友人を紹介するわ」
「ランポウだものね。エレナ嬢の……友人で、一応ここら一帯を治めさせてもらってる」
「D・スペードです。彼女の友人なら、私達も良き関係になれるでしょう」
「別に高尚な思想があるわけじゃない……平和に暮らせたら、それでいいんだものね」
 甘えたような声でランポウは肩を竦めた。垂れ目に幼さの残る話し方は、女性にひどく好かれるだろうと思った。エレナを見ると、心なしかにこにこしているようにも見える。

 ふたりの挨拶が終わると、エレナが待ちきれないようにうずうずとDの手を取った。
 Dが眉を下げ、ランポウが目をくりくりっとさせた。

「ランポウの家は農民と距離が近いの!わたし、いつも畑にお邪魔させてもらっているのよ」
「畑にお邪魔させてもらっている?」
 思わず大きな声で聞き返したDを気にもとめず引っ張ってエレナは進んでいく。ランポウは諦めたような顔をしていた。

 丘を下ると、作業をしている農民たちがぽつぽつといた。
「こんちには!良いお天気ですね」
「ああ、こんにちは。おや、坊ちゃんじゃないですか」
「ランポウちゃん、降りてきたのかい」
「アンタは、ああ、そうそう、エレナだったっけね」
「去年ぶりだねえ」
 農民たちはエレナの別荘の近くの市民たちよりよほど親しげで、ともすれば無礼と打ち首にされてもおかしくないレベルで、Dは思わず口元を引き攣らせた。
 ランポウも近隣の農民たちに可愛がられているらしい。慣れた様子だった。
 生粋の貴族であったDにはあまりにも馴染みがなく、のみ込みづらい光景だったが、同時に温かくも感じる。

 エレナは農民たちと盛り上がり、躊躇いなく畑に足を踏み入れた。止める間もなかった。エレナの靴が土と草を踏みしめる。
「汚れてしまいますよ」
 狼狽えるDにエレナはなにかを企むように目を笑ませ、「汚れてもいい格好っていったでしょう?」とDの手を強く引いた。
 よろめき、畑に足を置いたDに清々しい笑顔で言う。
「これであなたも一緒ね」

 木に生えたオリーブの実を見るのは初めてだった。Dにとってオリーブとはオイルになっているものか、勝利の象徴である葉だった。
 葉がちょうど人間の頭の低いところに生い茂っていて、風が吹くたび良い音がする。低い木であることは知識で知っていたが、実感を伴う機会があるとは思わなかった。
 戸惑うDをよそに、エレナは農民に長い木の棒のようなものを手渡されて、枝や歯を揺らし実の収穫にかかっている。
「きゃあ、獲れたわ!実は傷ついていない?」
「上手だねえ、お嬢ちゃん」
「ありがとう、おばさま。とっても楽しいわ」
 エレナはひどくマイペースだ。ランポウが言った。
「彼女ほど自由なひとを見たことないんだものね」彼は土の上の熊手のような道具を手に持った。
「だからこそ、俺は彼女と友人になった」
 頬を土をつけ、粗末な服を着て、楽しげに跳ね回って、木漏れ日に照らされるエレナは実に眩しかった。
 Dは自然と笑顔を浮かべながら、柔らかな土を踏みしめた。


*


 彼女との会合はもっぱら外で行われた。貴族の子息子女が表立って互いの家を行き来することも、逢瀬を交わしていると思われることも問題になり得たが、彼女は不思議なことに噂になりづらい信頼できる店というのをよく知り尽くしていた。

「お父様は血と歴史に拘りすぎなのよ」
 憤りを感じる口調でエレナは言った。ワインで唇をしめらせた彼女はなおも言葉を続ける。Dはてらてらと濡れる彼女の唇に吸いよられる視線を紳士的に逸らそうとして、何とか成功させた。
「もちろん伝統を重んじることは重要なことよ。でも、生まれに拘って他のことが見えなくなるのは、飛躍や発展から最も遠い行いなのに……」
 形の良い美しい眉が八の字に下がり、瞳には大きな悲しみを浮かべていた。彼女のそんな表情を見ると、D・スペードは彼女に襲いかかる全ての困難を取り除いてしまいたくなる。
 花の綻ぶような幸せな微笑みを常に湛えていてほしい。

「しかし公爵は騎士階級の者を、文官としても登用したではないですか。彼は実力を見ることのできる人物ということでしょう?」
「お父様は進言してきたある貴族に報いたに過ぎないわ。そしてその貴族に進言したのはわたしよ……。お父様にとってわたしはただ、儚くて無力で弱くて愛らしいだけの存在なのよ」
 お兄様にとっても。エレナはまたワインを飲んだ。白い肌が、首筋まで薄桃に染まっていて、Dは彼女の瞳だけを見つめることに腐心した。彼女が弱さをあからさまに零すのは初めてだった。
「あなたはこれほどまでに賢く、物事を深く捉えているというのに……。女性であるというだけで、評価されないのは間違っている。私よりもよっぽど、弱者に寄り添うということの意味を考え続けている」
「ありがとう……デイモン」
 彼女は弱々しく笑みを浮かべた。彼の言葉が深く染み渡り、瞳が薄い膜を張る。ずっとエレナは、可愛がられるだけの存在であることに悩み続けていた。
 女性は弱者だ。それを変えたかった。
 けれど、Dだけは、エレナを分かってくれている。

「あなたみたいに誠実で、思慮深い人に理解してもらえたら、それだけでいい……」
「もちろん私はあなたを理解していますよ、エレナ……。あなたの力になりたい……そして、私の決意のためにもあなたが必要です」
「ああ、デイモン……」
 エレナの声が微かに震え、きらきらと潤んだ瞳に見上げられると、たまらない気持ちになった。今日ずっと、紳士的でいようと課してきた自分の芯の部分がくらくらするのを感じた。

 エレナがDを見つめている。
 瞳の潤みが、都合の良い、何かを期待する瞳に見えてしまう。己の男としての愚かさを嘲笑いつつ、どうしても目が離せない。
 唇が扇情的に艶めいていた。
 Dはエレナの背中にそっと触れた。彼女の身体は発熱しているように熱く、Dの手のひらが一瞬で同じ温度になった。

「エレナ……」
 Dは断ち切るように視線をカウンターに向けた。
「少々酔いすぎてしまったようですね……。そろそろ帰りましょう。レディをこんな時間まで連れ回すなんて、紳士的ではなかった」
 今までの人生の中で、いちばん忍耐を必要としたが、Dは欲求に打ち克った。彼女を失望させずにすんだし、彼女にあさましい感情をぶつけずにすんだ。
「そうね……」
 ぽやぽやした声音でエレナは頷いた。「そうね……」
 見ている方が心配になるくらい無防備によろめきながら、彼女はふらふら立ち上がった。慌てて手を取り、腰に手を添えて彼女を支える。
 隣に立つエレナは小さく、腰は折れてしまいそうでどぎまぎとした。
「……あなたは紳士的すぎるわ……」
 Dにはエレナが唇を尖らせ、声には拗ねるような響きを含んでいるような気がしてならなかった。もちろん、自分の願望を多大に含んでいるとはわかっているのに。
「可憐な花を慈しみたいのです、エレナ」
 髪をひと房掬い、キスを落とす。彼女を抱きしめたい。女性への感情に振り回されることは今までになかった。胸に迫る甘い痛みがほろ苦く感じられる。

 恋をするのは初めてだった。


*


 エレナとの出会いで、自分の考えがより深まり、実現への具体的な道筋が見えたDは以前とは見違えるようだった。
 自分の中の燻りを行動に昇華出来るようになったDは、貴族社会を上手く泳ぎ、積極的に社交界へ参加するようになっていた。以前までは、人前に出ることすら嫌がっていた彼の変わりようは、注目を集めた。
 政治的見解などにも時折意見を述べるようになり、美目は良いが大人しくて人の好いだけの男、と思われていた(正しくは思わせていた、だが)Dの評価は徐々に変わりつつあった。

「ミスター・デイモン。あなたのお噂はかねがね。隠していた爪は実に鋭かったようだ」
「光栄です、伯爵」
 差し出された手を柔らかく握り返し、謙虚に微笑むDを年老いた貴族の男は気に入ったようだ。「お前、来なさい」
 呼ばれた女性はブラウンの髪をまとめあげ、育ちの良さそうな挑戦的な瞳をしている。
「ミスター、この子は私の娘だよ。親の贔屓目かもしれんが美しいだろう?少々お転婆だがそれも愛らしくてね。多少の我儘は大目に見てこそ男の度量がはかれるというものだ。どうだねミスター、この子は」
 男は見事な口ひげを撫でつけて得意げな表情だった。最近は特にこういうことが増えていた。
「とても美しいレディだ。瞳に吸い込まれてしまいそうです」
 聞き飽きたお世辞だとでも言うように女性はツンと顎を上げ、Dをその強い瞳で睨んだ。高慢さと気品が両立した雰囲気に、お転婆という範疇で収まりきらないであろう性格だと察する。
「私は少々席を外すがね、会話を楽しんでくれたまえ。、失礼のないように」
「わかってますわ」
 女性は素っ気ない口調で顔を背けDは苦笑する。伯爵は格上である。この令嬢を軽んじることは許されない。

「……」
「…………」
 Dにとっては重たく感じる沈黙が数瞬流れ、女性は不機嫌そうな、高慢な顔つきで手元のグラスを眺めている。
「………私などが同席させていただく栄誉に預かりまして、光栄です、レディ」
 若い女性はDに慇懃に褒め言葉を贈られるとたいそう喜んだが、女性は口元を釣り上げた。嘲笑の色がまざまざと乗っている。
「あなたに恋をした女性は哀れですわね」
 返す言葉を失う。思っていた返事とあまりにも正反対で、少し間をあけて、疑問を返す。
「……それは一体どういう?」
「あなたの目を見ればわかりますわ。わたくしに好意があるかどうかなんて」
「おや、随分と警戒されてしまっているようです……。あなたの美しさに目を奪われてしまうのは、世の男性に共通する事実だというのに」
 エレナ以外へ調子の善い言葉を口にするのは微かな罪悪感が伴ったが、女性に賞賛を送るのはイタリア男性の義務だ。
 そして、貴族社会における女性は嫁として扱う駒、社交会の華の役割が主だった。しかも相手は伯爵令嬢である。

 女性は鼻で笑うとぞんざいに手を振った。その雑な動きですら優雅さを伴っている。
「もうよろしくてよ、辞めてちょうだい。お父様は私にいい相手を探したくて仕方ありませんの。でも、あなたは有り得ませんわね。そのせいであなたの株が落ちることもないから大丈夫でしてよ」
「……レディがそう望むのであれば。大切な娘には最高の結婚をして欲しいと願う父親心でしょうね」
「所詮貴族は政略結婚ですのに。でもわたくしには幸いある程度選ぶ余地がある。それならわたくしは、わたくしに恋してくれる相手にいたします」
 彼女はDを横目で見た。
「たとえば、他人に恋する殿方などは……決して選ばなくってよ」
「………」
 何も言えずDは押し黙った。女性が含み笑いを送ってくるのを見ないようにして、ワインの味に集中する。そこまでわかりやすいだろうかと気恥ずかしかった。それとも、この女性の観察眼がとびきり鋭いだけだろうか。そうだといいと思った。
 今まで社交界で数々の女性に言い寄られ、数々の女性に甘い表面上の言葉を形式的に送ってきた自分が、あまりにピエロではないか。
 そこまで考えてさらに羞恥心と情けなさが煽られて、Dは手のひらで顔を軽く押さえた。
「あら、多少可愛らしいところもあるのね」
「もう、よしていただけませんか、レディ」
「つまらないわね。数多の女性を翻弄した紳士への、軽い悪戯心だというのに」
 女性はクスクスとその日初めて温度のある笑みを零した。

 高飛車な令嬢に翻弄されていたDは精神的に堪えるものがあったが、Dとその女性のその様子は、外野からすると、かなり親密そうに見えた。特に彼のことをよく知る人からは、決定的に彼の違いがわかった。
 Dは社交界でいつも隙のない完璧に穏やかな好青年然と振舞っている。そこに貴族としての魅力はあれど、彼本来の柔らかさは見えなかった。
 けれど、今日のやり取りでは、D自身の表情が現れているやり取りをしていた。エレナには彼がナチュラルに振る舞えているのがよく分かった。

 Dの様子が視界の端に映っていたエレナは、ちいさなちいさな声で呟く。
「彼に友人が出来るのは良いことだわ……とても……」
 そう思うのに、何故かエレナの胸中は理由のわからない靄に覆われている心地がして、どうしても重たくなるのを抑えられなかった。

 エレナの中に芽生えた感情が、蕾み、もうすぐ花開くのだ。


*

*


 抱きしめた彼女の肢体から徐々にあたたかさがうしなわれていくのは、Dの長い永い時間においても、最も耐えがたい絶望の時間だった。
 星が宿っていた瞳はもう二度と煌めくことはなく、花が蕾むような朗らかで柔らかい響きに癒されることはないのだ。

 彼女の白魚の手で慈しまれるように髪を梳かれるのが好きだった。
 彼女の膝の上で体温と柔らかさ、規則的な鼓動を感じるのが好きだった。
 くるくると目まぐるしく変わっていく表情を、顔を近づけるとほのかに色づく眦を、自分を呼ぶ声を。 全てを忘れたくない。

「あなたは弱き者のため……ボンゴレとともに……」

 エレナ、私の永遠の光。


*

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