走馬燈 1

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 あの時、どうしたら良かったのだろう。
 どうしたら、君と幸せに生きられたのだろう。

 考えても考えても、答えは見つからない。永遠に見つかることはない。願望にも似た都合の良い祈りを浮かべることにすら、もう自分のものでは無くなった胸が張り裂けるように痛み、血を流す。
 結局今の自分がしていることは、どうしようもない自己満足だと痛烈にわかりきっている。


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 退屈なパーティー。物憂げな表情で星々の瞬きと、夜空のもとで映える肥大した自尊心の表れのような見事な庭を眺めながら、D・スペードは風に吹かれていた。喧騒から離れ、孤立するような静かなバルコニーが彼の逃げ場だった。胸の内に燻る不満を誰にも言うことが出来ない青い青年。
 ふと、柔らかな香りが鼻をくすぐって彼は振り返った。
 不思議な穏やかさを讃える瞳。美しい女性がDの隣に楚々として並び、庭に目を落とす。

「よく手入れされた素晴らしい庭園ね」
「ええ、実に見事だと思います」
 Dは可憐なレディの言葉を肯定した。彼自身にとって好ましいものではなかったものの、よく整えられたものであることは間違いがなかった。
「ふふ、美しい夜にはふさわしくない顔をしていたわ」
「……おや、見抜かれていましたか。少々パーティーに疲れてしまいまして」
 Dは肩を竦めた。女性は淡い微笑みを絶やさずに彼を伺っていた。

「あなたのお名前を伺っても?」
 気遣うような穏やかな口調からは上品さが滲んでいる。

「名乗るのが遅れてしまい申し訳ありません、D・スペードと申します。しがない三男坊ですが」
「まあ、スペード家のご子息だったのね。あなたのお父君や兄君たちには父がとてもお世話になっているわ」
「父、と言いますと……」
 Dの脳裏には彼女と同じ美しい金髪を持つ公爵家当主の顔が浮かび、目を瞠った。彼女が彼の娘であるなら、かなりのVIPだ。
 豊かな髪が風に揺れ、柔らかい香りがふわりと漂う。D・スペードの瞳をまっすぐ見つめる誠実な瞳には知性の光があり、驚きを顔にうかべるDに親しみやすい笑顔を送った。
「わたしはエレナよ。でも、ただのエレナとして接して欲しいわ、今は」
 その言葉には一種の諦めや切なさのようなものが浮かんでいる気がした。それも当然だろう。公爵家の娘に対し親しげに話すような存在は、そう多くないに違いない。
 けれど、個として扱って欲しい気持ちはDにはよく分かった。貴族というレッテルを剥がしたい気持ちが。

「それではエレナ、と呼ばせていただいても?私のことはデイモン、と。ここでは月と花だけが私達を見ている」

 エレナが目を開いて顔を上げた。まじまじとDを凝視する彼女の瞳には星々が映り込んでいた。
 やがて、エレナが目元を緩め、ふたりはお互いがよき友人になれることを確信し合っていた。


*


 エレナはDよりもよほど活動的であった。
 Dは彼女と過ごすと、自分の見識が広まり、様々な経験が出来た。より決意を深めることの出来る貴重な同志になっていた。

 ある日彼女に誘われてとある教会へ訪れた。その教会は孤児院を運営していて、彼女はもう何回も足を運んでいるという。
 神父はエレナを見ると嬉しげに歓迎してくれた。
 彼は領主に指名された司教であった。この土地の貴族はエレナと同じように、貴族だけが甘い汁を啜る社会への疑問を持てる人物だった。
 エレナが神父と軽いハグを交わし、Dを振り返る。
「この方は子どもをとても深く慈しんでいるのよ」
 エレナは有力な人物と既に深く関係を構築している。Dは繋ぎをつけてもらうばかりで、彼女との差が浮き彫りになって情けない心地がした。不満を持ちつつも、Dには燻ることしかできなかった。

 さらには、Dには自分を卑屈にさせる恐ろしい秘密があった。自分は神に嫌われていると思い込んで生きていた。
 教会へ足を運ぶというのは、ひどく落ち着かない気分になったが、それをエレナには気取られないようにとDは頑なに思った。
 不思議な力を持っているということは、酷く罪深く感じていた。

 彼に連れられて孤児院へ足を向ける。
 彼女の姿を見ると子どもたちが歓声を上げて取り囲んだ。エレナは慈愛に満ちた瞳で子どもたちを優しく見つめ、頭を撫でてやっていた。

 エレナがソファに座ると、子どもたちは周りに座り、床にまで座り込みながら彼女を見上げた。彼女に誘われるがままDは隣に腰を下ろした。子どもたちが期待に満ちた眼差しでエレナを見つめ、隣のDを不思議そうに見てくるのを居心地悪げに受け止める。
 鞄から薄い児童向けの文学を取り出して、彼女は深く柔らかな声で朗々と読み上げた。彼女の声は耳に優しく、するりと心の中に入り込んできた。
 子どもたちは誰ひとり退屈そうな様子を見せずに、早く先を知りたいというように身を乗り出して楽しそうに本を聞いていた。

「いつも本の読み聞かせをしているのですか?」
「ええ、それだけじゃなく、出来る範囲で教育もしているの」
 子どもがエレナに躊躇いがちに寄りかかってエレナは抱きしめた。子どもが嬉しそうな笑い声を上げる。
 始めは遠巻きに見ていた子供たちが、Dに微かに近付いた。彼らは聡い。エレナと接していても、貴族という存在への畏怖をきちんと持っている。
「呼んであげて」
 囁くようにDを促した。戸惑い彼にエレナは優しく視線を合わせる。
 Dは端に寄って、子どもを手招く。
「……こ、こちらへどうぞ」
 固い声に、子どもも少し緊張した様子でおずおず近寄り、エレナを見上げた。彼女の笑みを見て、Dの顔を不安げに見つめる。Dはもう一度告げた。
「こちらへお座りなさい」
 言ってから、しまったと思った。高圧的な物言いだっただろうか。エレナが子どもの背中を撫で、Dに流し目を送った。
 Dは同じように、おぼつかない手つきで子どもを撫でる。
 ちいさないのち。
 子どもがDを見上げると首を傾げて笑いかけた。Dの胸に暖かな満足感がじんわりと広がった。
「この子達は環境のせいで高い教育を受けられないけれど、知識欲の旺盛な賢い子どもたちばかりよ。わたしは市民にも知識の門は広く開かれてほしいと思うの」
 エレナの思想は深く、高く、未来を見つめているように思えた。Dは心が震えた。
 血や生まれでなく、実力や能力で評価される社会。それはDの理想そのものだった。

 子どもという生き物とあまり関わったことはない。少し躊躇いながらDは肩を微かに強ばらせて尋ねる。
「私も何か……教育の一助となりたい。しかしこのくらいの年齢の子どもたちにはどのような知識が必要なのか……」
 エレナが破顔し、神父も嬉しそうに頷いた。
「あなたみたいに優れたひとに教わったなら、彼らはもっと飛躍できるわ」

 その日からDの好きな場所が増えた。
 笑顔と、優しさの溢れる時間。向上心と好奇心に溢れる子供たち。志を同じくする素晴らしい友人。理想の詰まったちいさな箱庭。その場所は希望の象徴だった。


*

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 老人は、T世の生き写しのような、幼気で、愛らしく、無垢で弱い少年を、その高潔で忌々しい超直感で次世代のボスに相応しいと確信しているようであった。
 しかし、T世のことをよく知るD・スペードにとって、その考えは唾棄すべき呪いのようなものだ。初代の再来はまさしく悪夢だった。Dの思うボンゴレにとって、ジョットの思想は毒でしかない。
 九代目の選択や沢田綱吉の誕生、穏健派ボスが台頭し、緩やかに平和主義になっていくボンゴレ。
 ジョットという男の意志を感じずにはいられなかった。彼が戻ってきたのなら、Dが屠った軟弱な男もいるだろうと考え、そして、それは当たっていた。

「歴史は繰り返す、ですか……。ジョット……シモン=コザァード……。ヌフフ、いいでしょう。またも立ち塞がるなら、私が阻んでみせましょう。あの時のようにね……」

 偶然にも必然にも、繰り返す歴史にも、土の中の亡霊、あるいは指輪に取り憑く過去の幻影などにも、ボンゴレを好きにさせる気は毛頭ない。

 古里真は鈍く、善良で、扱いやすい駒だった。迫害され息を潜めるようにして仕事に打ち込んできた誠実な男は、何者かが自分を装ってボンゴレを襲撃しているなどとは露にも思い付かず、罪を払拭するアリバイも証拠も強さもなく、ただ手をこまねいているだけだった。
 彼が事態を理解する間もないまま、Dは古里真を装い、つつがなくすべてを完了させていた。

 ボンゴレの近年において、最も残虐だと言われる血の洪水事件。
 エレベーターを血で浸したDは、そうして、今度は沢田家光を装うと、まだ7歳だった古里炎真に地獄を見せつけた。彼に復讐心を根付かせ、シモンを使い潰す計画が、またひとつ進む。

 Dにはもうおおよそ人間の人間らしいあたたかな感情は失われていた。罪悪感も、憐憫も、慈愛も。
 ただ、悪魔になったD・スペードのすべてと言える、過去の決意によって、苛烈さは増し突き動かされていた。


*

*


「素敵な場所へ招待するわ、デイモン」
 艶やかな髪を耳へかけながら、上目遣いでこちらを見やる彼女の瞳には、悪戯気な色が含まれている。
「もちろん喜んでお受けします。あなたの誘いは全てが輝きに彩られている」
「ふふ、ラフで動きやすい服で来てちょうだいね。今回の旅は長いわ」
「おやおや、エレナのサプライズには随分と振り回されますからね。今回もどんな驚きに満ちていることやら」
「ホストとして期待に応えなくてはね」
 ふふふと口元を押さえて耐えきれない笑いを零した。彼女はずいぶんとご機嫌だ。とても素敵な旅になりそうだとDの心も浮上した。

 当日、彼女の馬車が家の屋敷からは離れた場所に迎えに来て、Dを回収する。彼女はおおよそ貴族とは思えない、ましてや公爵令嬢とは思えない衣服に身を包んでいた。
 普段の衣装より数段グレードの落ちる目の粗い麻のワンピース、エレナ本人の気品は隠せていないので、大商人の娘くらいに見える。
「その格好は……」
 開いた口が塞がらないDをジロジロ眺めて、エレナがため息でもつきそうに冗談めかして言った。
「ラフな格好をしてって言ったのに」
 じゅうぶん言葉通りの格好をしていた。Dは本当にシンプルなシャツとパンツで、公爵令嬢との逢瀬とは思えない格好をしていた。エレナがあまりにも貴族の枠を超えているだけだ。

 ふたりを乗せて馬車が走り出す。
 御者はエレナの信頼出来る側近であり、こっそりと会合する際はいつもこの男がいた。

「どこに向かうのですか?」
「ふふっ、着くまで時間はたっぷりあるわ」
 彼女は何を聞いても答えてくれず、楽しげに笑うだけだった。Dは諦めて馬車の外を眺める。行先のわからない旅というのも悪くない。エレナと共にいれば。
 家には少し遠出することのみ伝えてあった。
 父親も、兄も、おおよそDには興味を持っていなかった。上の兄のように家を継ぐわけでもなく、下の兄のように王城に務めてもいなかった。Dは当主補佐の兄から軽い仕事をもらっているだけで、あとは自由だった。
 Dは優秀な男だけれど、大人しく無害で、毒にも薬にもならない、美しいだけの無能な男だと周囲に思わせていた。貴族社会で能力を見せ、搾取されるのもいいように利用されるのもごめんだったからだ。


 都を過ぎ、道が悪くなり始めた。
 石造りの建物はどんどん減り、木造になり、さらには民家もなくなった。周囲は広々とした畑や林ばかりになった。Dの家は都周辺にあるので、田舎の方に足を伸ばす機会はほとんどない。
 半日ほど揺られると見える景色は一変していた。

 青い空の下、照りつける太陽を反射して黄金色の海が波打っている。白く細やかな雲と、背の高い小麦が天地の境をなくし、呑み込まれそうな雄大さ。

 圧倒され、言葉もなく見つめているとエレナが嬉しそうに囁いた。風が吹き、胸いっぱいに気持ちの良い空気が流れ込んでくる。
「美しいでしょう?」
「ええ、とても……。こんなに清々しい神々しさを見るのは初めてです」
 Dは窓の外の景色から目を離さず言った。必ずエレナの瞳を見つめる彼の非常に珍しい姿に、お気に入りの光景を、彼も気に入ってくれたのだと喜びが満たす。

「周辺の穀倉地帯はうちが治めているから、近くに別荘があるの。シチリアで、わたしが最も開放的になれる場所よ」
 そう言う彼女の横顔はのびのびと輝いていて、背景の黄金と溶け合い、Dは目を細めた。
 目を翳した彼に不思議そうに小首を傾げて尋ねる。
「どうしたの?」
「いえ……」
 彼女にはDの気持ちは一生わからないだろう。エレナの内側から滲み出る輝きが、瑞々しく彼女を魅せていた。


 エレナは当然のように町に降り立ち、Dを手招く。市井は初めてで、庶民の集まる場所に来たことはなかった。
「ほら、行きましょうデイモン。案内してあげるわ。自慢の場所なのよ!」
 戸惑う彼の手を、はしゃぐようにエレナがおもむろに掴んで駆け出した。彼女の温かい手のひらがDのヒヤリとした指に触れて、熱が混じる。
 その途端、少年のように心臓が高鳴った。
 エレナはスキンシップがとても少ない淑やかな女性だった。しかし今、Dに触れ、小走りで駆けて行く。
「転んでしまいますよ、エレナ」
「そんなにこどもじゃないわっ」
 言い返す彼女の言葉は弾んでいる。初めて見るエレナの様子に心臓が落ち着かない。非日常のせいだと思った。きっと。

「お嬢ちゃん、久しぶりだねえ」
「よく来たね」
「元気だったかい?あ、これ持っていきな」
「あらまあ別嬪さんになって、まあ!」
 エレナは道行く人々に声を掛けられていた。人々はフランクで、まさか彼女が公爵令嬢だなんて思っていない様子で、エレナの無邪気な返事も普段の気品ある態度と少し異なり、気安さがあった。

 屋敷に辿り着く頃には、両腕では抱えきれない麦や、野菜や、オリーブ、檸檬などがあった。エレナは市民に愛されていた。

 別荘である屋敷は、公爵家に相応しい立派なものであり、ローマの食の宝庫と呼ばれる田園風景によく馴染む素朴な雰囲気も感じる。情緒的な風情のある屋敷だ。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「じいや、みんな、ただいま帰ったわ!会いたかった」
 使用人の数は多くないが皆深深と腰を折り、慈しむ表情でエレナを出迎え、彼女が大切に思われていることがよく伝わた。

 1人のメイドに案内され部屋に通される。
 調度品は品良く、穏やかな隠れ家のように落ち着く空間だっな。
 ゆったりと辺りを見回すDに、にこやかな顔つきのメイドが部屋を出ていく間際、淡々と言い放った。
「夕食のお時間以外で不審に出歩きましたら、追い出させていただきますので」
 あからさまな警戒に苦笑いしつつ、それも当たり前だとも思った。エレナはとても魅力的な女性だから。
 それとも、警戒しなければならないなにかが──昔あったのだろうか。その可能性に思い当たり、なぜか、上手く言い表しがたい感情が胸の中に浮かんで、過ぎ去った。


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