天国で見る夢

 連日、城門に国民が押し寄せて来ています。こんなことは初めてです。民の顔に笑顔はありませんでした。みんな泣いていたり…怒鳴っていたり…暴れて兵士に取り押さえられている人もいます。

 部屋のレースカーテンからひっそりと顔を出していた王女さまは、悲しいような恐ろしいような心地でその光景を眺めていました。心臓がいやなふうにドクドク鳴っています。最近は城の中まで、街に降りた時に感じたようなぴりぴりと肌が刺されるような感覚が広がっていました。
 お父様もお母様も、いつも厳しいむつかしい顔をなさっていて…幼い王女さまには「大丈夫だよ」と微笑むけれど、その顔にはぐったりと疲れが滲んでいました。

 どうして民がこんなに怒って、嘆き悲しんでいるのか…王女さまは知っていました。
 お父様が……王さまが、国の命と言ってもいいほど昔から愛されてきた「ローレル」を…この国のすべてから消し去ってしまおうとしているからです。

「……」

 王女さまは俯いて、唇をキュッとすぼめます。ふんわりとしたドレスの裾をシワになるほど固く握りしめました。王女さまには民のきもちが痛いほど分かりました。
 城からはもう、ローレルがすべて撤去されています。
 壁やテーブルに飾ってあった真っ白な美しい花も、王女さまや王さまと同じ、緑かがったような金に近いふしぎな色合いの若葉もこの城にはありません。ローレルがなくなったお城は、急にがらんとしてとても寂しく映ります。他に色とりどりの花で飾りつけてあっても、ローレルは生まれた時から王女さまに寄り添う樹で……民に寄り添う樹でした。

 王さまがなぜ、そんな決断をしたのか、王女さまにはまだよく分からないと知りながらも、王さまは教えてくれていました。
 お父様は忙しくて、ふだんあまり王女さまとは一緒に過ごすことができません。
 週に何回か一緒に夕食を取れればいいほうです。それでも以前までは休憩中に王女さまが執務室に遊びに行って、お仕事の邪魔をしてかまってもらったこともありましたが、年々王さまは忙しくなっていきました。

 いつか王さまが「今この国は転換期にある。この時期を乗り越えて国を安定させたあと、お前に継がせたいんだよ」と優しく言っていました。
 "てんかんき"が何なのか王女さまには分からなかったけど、王さまはいつも、国と民、そして王妃さまと王女さまのことを考えてくれています。王さまはとても、愛情深い人なのです。心が大きく、いつも穏やかで、真面目で誠実、そして人を信じることができる人でした。彼は人を愛しているのです。

「ローレルを……駆除しなければならない」
 だから、王さまがそんな風に言った時も、王女さまはたしかにショックだったけれど…国のためなのだとわかっていました。
 国の象徴を消してしまうことが国のためであるということが、むつかしくても、王さまが悩んで悩んで悩んだ末に決めたことなら、きっとそうなのです。
 王女さまはお父様のことを信じています。
 あの夜、お父様もお母様もとっても苦しそうだったから。

「……"パライソ"のせいね」
 食事を終えたある夜、珍しく王さまが寝室に来ました。しばらく談笑していた王さまは、何度か言い淀んで決断を口にすると、顔の前で手のひらを固く結びました。
 王妃さまは目を瞑り、分かっていたように深くうなずきます。王妃さま…お母様がお父様に寄り添って、背中を優しく撫でてあげます。
「パライソって?」
 王女さまは不安を瞳いっぱいに浮べ首をかしげます。聞いた事のない言葉だったけれど、ふたりには分かっているようでしたし、それが悪いものであるというのは両親の表情から分かりました。
「くじょってなに? ローレルをどうするの?」
「そうだな…お前にも説明しなければならない。今理解できなくとも、いずれ理解できるように」
「うん…」
「駆除というのは…ローレルを取り除くということだ。国中にあるローレルをすべて燃やして、この国から消し去るんだ」
「……!」
「二度とローレルが育つことのないように」
 王女さまは思ってもみなかったことに息を飲みました。怖くなるくらい強い言葉でした。
「パライソというのは、ローレルから作られた麻薬のことよ」
「まやく…?」
「麻薬というのはね、人をダメにしてしまうんだ。ダメにしてしまうのに、一度吸ったらまた吸いたくなって、死ぬまで辞められなくなる、怖い薬のことなんだよ」
「薬…。でも、ローレルから作られる薬は外の世界の人にも求められるくらいいいものだって、ヴェラ先生、言ってたよ」
「……薬には良いものと悪いものがある。ローレルの葉からできた鎮痛剤は革新的でも、ローレルの根から作られた薬物は人を廃人にするんだ…。それに、お医者さんが決めた量をただしく使うのには問題がないものでも、普通の人の手に渡ったら、悪い使い方をされることもある。ローレルは危険なものだったんだよ」
「ローレルが、危険……」
 王女さまにはうまく飲み込めませんでした。生まれた時からそばにあったローレルが危ないものだと言われても、よく分かりません。

「議会はなんて? 世界政府に加盟することになったの?」
「意見が割れていてね…。だが、時間がない。強権を発動してでも加盟するつもりだ。一刻も早く」
「政府と話は進んでいるの?」
「加盟して十年は上納金を倍収めることと、ローレルを駆除することを引き換えに加盟すること自体はまとまっている。上納金も用意できるだろう」
「そう…でも反発が強いでしょうね。突然ローレルが栽培・所持禁止植物に指定されたと言われても…」
「ああ、貴族ですら受け入れられない者も多い。いっそ貿易を辞め、完全な鎖国に戻すという意見も出たが…」
「それはダメよ!」
 悲鳴のような鋭い王妃さまの声に、会話においていかれていた王女さまはビクッと肩を揺らしました。

「もうローレル王国という存在は世界政府に認知され、睨まれている。北の海(ノースブルー)のいくつかの国の商船と細々交流していた頃と違って、ローレルの名が広まってしまった今、彼らとの貿易を辞めたってこの国が許される道はないわ。どれだけ理不尽な条約でも受け入れて加盟しなければ、ローレル王国が生き残ることは出来ないのよ」
「……世界というのは恐ろしいな。貴族も議会も説明しても理解出来ない人が多くてね。そういう私だって本当の意味で理解しているとは言い難い…その世界政府の秩序とやらに組み込まれることにどのような利があって、どのような害があるのか。私はこの島から出たことがないからね……」
「……」
「世界政府や海軍というのはそれほど強大な力を持つものなのかい? この国の歴史においても、他国の船が無事にこの島まで辿り着いたという記述はほとんどない。凪の帯(カームベルト)はこの国を閉ざしたが、外界から守ってくれてもいただろう」
「海軍は凪の帯を渡る技術を持っているわ」
「! なんと…。ローレルがなくてもか?」
「詳しくは知らないけれど…海楼石というみたい。この島が見つからなかったのは色々なことが噛み合った奇跡のような幸運に過ぎないわ。ローレルによって海王類から守られていたこと…島が小さいこと…島に豊富な資源があったこと…春島であったこと…偉大なる航路との境界になっている海域が複雑な海流に挟まれていること…。あの海域に巻き込まれたら普通の船は越えられない、私が生きて流れ着いたのはほとんど奇跡だったわ」

 王妃さまがなにかを噛み締めるように目を伏せました。それは懐かしんでいる瞳にも、悲しんでいる瞳にも見えました。

 ヴィリディス島には外の人はほとんど訪れません。たまに、難破船の残骸や、死んだ人、そしてギリギリ生きていた人が流れ着いてくる程度です。
 お母様もそのうちの一人でした。そしてお城で保護されたことによってお父様と出会い、恋をして、王妃さまになったのです。
 それまでお母様と一緒に旅をしていた人たちは、全員死んでしまったと聞きました。ほとんどの人はこの島にも辿り着けず、何人かは死体となって流れ着きました。生きていたのはお母様だけだったそうです。
 王女さまの家庭教師であるヴェラ先生も、遭難してこの国になんとか生き延びて辿り着いた一人でした。

 王さまと王妃さまは、それからもしばらくむつかしい顔でむつかしい話をしていました。ふたりともとても苦しくて、辛い顔です。話の内容が分からなくても、王女さまの心もどんどん沈みました。
 お父様の目の下にはくっきりと黒いクマがありました。ヴェラ先生と同じです。それに、前よりもやつれてしまった気がします。

「この国が乱れているのはわたしのせいなのかしら…」
 眉根を寄せて、お母様がぽつりと悲しそうに呟きました。お父様が「何を言っているんだ」と肩を優しく掴みました。
「人が生きている限り、人は人と関わり、人の流れは絶えず変化してゆく。国も変わってゆくものだ。それが君のせいだなんて傲慢ですらある。私たちはただの人なのだから」
 王さまの声はどこまでも優しいものでした。
「そうよね…」王妃さまは僅かに微笑みを浮かべましたが、お顔は晴れません。
「わたしも運命など信じない。歩んだ後ろに道ができるものだと思うから……。でも」
「……」
「世界を回る中で色々なことを言われたし、聞いたわ……。わたし達は嵐を呼ぶ。名に運命が定められているなんて信じない。でも、でも……」
「君は自由だ。君がいつも言う通りに。そうだろう、アスチル」
「ええ……自由に生きてきたつもりだった」

 しん、と途切れた会話のあいまに、王女さまは王さまのお膝の上によいしょよいしょとにじり上りました。

「どうしたんだい? 難しかったね、すまない、放っておいてしまって」
「お父様、ねむれていないの?」
 目の下を痛くないくらいの力で、そーっとなぞります。王さまはくすぐったかったのか、目を少し細めました。
「大丈夫だよ」
 王さまは深い穏やかな声でそう言い聞かせ、王女さまの頭を撫でました。
「優しい子だね…。愛しいお前とアスチルを守るために、今が頑張りどころなんだ」
 アスチル……お母様の名前です。自由という意味が込められているそうです。お母様がいつか語ってくれたことがありました。

『わたし達は自由なのよ。誰にも、何にも縛られたりしない。いつでも、どんなことでも、心のままに…あなたの望むままに、人はそう生きていけるの』

 お母様は王妃になる前は広い世界中を船に乗りながら、お仕事をしていたのです。王女さまはそんなお母様のお話を聞くのが大好きでした。
 王さまと王妃さまが王女さまを愛してくれるように、小さな女の子も両親を愛しています。

 国のために頑張っているお父様が、眠ることもできないなんて、かわいそうです。
 ヴェラ先生も、長い不眠症を患っていたと言っていました。昔は彼女の目の下はげっそりとしていて、酷くやつれていて…今もやつれているのに変わりはないけれど、クマは薄くなっています。
 王女さまはヴェラ先生が言っていたことを思い出して、王さまに「ローレルはだめなの?」と尋ねました。
「ローレル?」
「もちろん、くじょしなきゃいけないのは知ってるけど…でも、お医者さんの使い方を守れば、悪い使い方じゃないんでしょう?」
「ああ、まぁそうだが…ローレルは全て禁止なんだ」
「そっかぁ…」
「それに、ローレルは鎮痛剤や麻酔として使われるんだ。副作用としての眠気はあっても、睡眠薬としては少し違うんだよ」
「そうなの…? でも、ヴェラ先生が…」
「ヴェラが?」
「ローレルのおかげで眠ることが出来るようになったって言ってたよ? 天国にいるみたいに、素敵な夢を見れるんですって」

 無邪気にヴェラ先生が教えてくれたことを言うと、まるでピシッと音が鳴ったかのように、王さまと王妃さまが凍りつきました。

「パライソ……」

 パライソ。天国で見る夢。
 ローレルの葉に鎮痛剤としての作用があることを研究の末に実用化できる麻酔薬として完成させたのはヴェラ先生です。彼女はその功績を以て、保護難民ではなく国賓として遇され、国の主導する貿易事業にも自由に口を出せる立場にいました。
 ローレル王国の近年の急進的な発展は、彼女によって齎されたと言っても過言ではありませんでした。

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