枯れを知らぬ瞳
06

 血だらけの二人が、また倒れる。そしてまた起き上がって、殴られ、蹴られ、倒れた。全身から血を流しているルフィとゾロはそれでもなお立ち上がり、顎を上げ、凛と前を見据えたまま抵抗しない。

「何やってんのこんな奴ら相手にっ! 戦ってよ! ぶっ飛ばしちゃえばいいじゃない!!」
 ルフィの帽子を胸に抱え、ほとんど悲鳴のようにナミが叫ぶ。
「ハハハ…無駄だお嬢ちゃん。利口だぜ、こいつら。かなわねェ強さだと悟ったのさ。強ェ者に立ち向かわねェ……みっともねェ決断だがな…!」
「船長の面目もあったもんじゃねェな」
「どわっはっはっ! 違いねェ!!」
「あんた達なんかにルフィとゾロが負けるわけないじゃない! ねえ二人とも、戦ってよ……!」
 止まらない暴力と罵声と嘲笑。ナミとロザリーには傷一つない。彼らの背中を眺め続けるほどに、痛々しい彼らの姿にナミの胸の痛みと悔しさも募っていく。

「ロザリーも何か言ってよ! なんで何も言わないのよッ! ……っ!」
 怒りともどかしさでロザリーに怒鳴ったナミは息を飲み込んだ。彼女はブルブルと震えていた。俯いた顔は帽子で表情が見えない。ロザリーは自分の腕を固く握り締めて、ひと言も何も言わず、震えている。
「ロザリー……」
 ナミが言葉を失う。
「……何も言わないわ」
 やっと口を開いたロザリーが首を横に振る。喉の奥から絞り出した声はか細く掠れていた。「ルフィが買うなって言ったもの……」

 帽子の下から見える眼光に、ナミは彼女が怯えていたわけではないことを悟る。ベラミー達を睨むその桃色の瞳は、ぬらぬらと奇妙な照りを帯びていて、ロザリーの唇からは一筋血が垂れていた。

「ハッハッハ、威勢がいいのは嬢ちゃんだけか…! おトモダチは恐怖でブルブル震えちまってるぜ!」
「よぉ、帽子のねーちゃんにゃ海はまだ早ェんじゃねェか!?」
「やーねー、同じ女として気分悪くなっちゃう。喧嘩が怖いなら、家に引っ込んでた方がいいんじゃない!?」
 酒を飲みながら後ろで笑っていただけのベラミー一味の女が、ツカツカと近寄ってきた。
「ブルブル震えちゃって…ダッサ! 海賊の女になるなら覚悟のひとつもしてみなさいよ」
「……」
 黒いハットにサングラス、そしてウェーブした金髪の女だ。ずっとサーキースに引っ付いていた彼女が上から嘲笑う声をロザリーは無視した。
「よせよリリー、ハハ……哀れになっちまうだろ?」
「そういうのがムカつくって言ってんの! あ〜みっともない。弱い男に引っ付いてる女ってホントレベルが低いのよね」
 リリーと呼ばれた女はドボドボと頭の上から酒を降り注いだ。ナミが「何すんのよ!」と睨む。
「アンタもダサいけど、こいつよりはマシね。こ〜んなイモが海賊のオンナだなんて、一緒にされちゃたまんないわ! 聞いてんの!? 泣いてないでちょっとは言い返してみたら〜?」

 ペシッ、ペシッと軽く頬を叩かれる。ロザリーは何も言わなかった。ただ、ギリギリと握り締める腕が、どんどん白くなっていくだけだ。
「いいぞ、リリー!!」
「次はキャットファイトか!?」
「バカ、あんな弱っちい女が戦えるわけねェだろ!? あいつは一味のイロなんだろうさ! ぎゃっはっはっ!」
「リリー、どっちが上か教えてやれよ!」

 下品な野次にナミがわなわなと拳を握った。
「ナメないでよッ! ロザリーは強いんだから! ルフィもゾロも強いんだからッ! あんた達なんか、あんた達なんか……!」
 また、爆発的な笑い声が広がる。ナミが何を言ってもショーという名のリンチの起爆剤になるだけだった。
「強い? このイモが? キャハハ、じゃあ…これでも!?」
「ロザリー!」
 女のヒールが腹に叩き込まれ、ロザリーがゴロゴロと転がった。女同士の戦いに周囲のボルテージがヒートアップしていく。
 被っていた帽子が床に落ち、リリーが踏み潰した。腕を組み、勝ち誇ったように「ほんと強いじゃなァい」と嘲笑う。
「……」
「大丈夫!? なんであんたも黙って蹴られるのよ! あんたなら避けれたでしょ、あんな攻撃…!」
 ナミの手を掴み、ロザリーはルフィたちと同じように、ムクリと起き上がった。

 ロザリーは泣いてはいなかった。怯えてなどいなかった。
 ライムゴールドの長い金髪がはらりと目に垂れる。花の色の瞳は言葉よりも雄弁に、その怒りと気性の強さを乗せている。
 帽子が剥ぎ取られあらわになったロザリーの美貌に、男たちが「ほお…」と下卑た声を漏らした。
「意外と見れる顔してんじゃねェか」
「お前らが連れるには勿体ねェなァ!!」
「一晩いくらだ? 教えてくれよ!」
「ギャッハッハッ!!」
「あいつら…! なんでこんなの、黙って許さなくちゃいけないのよッ! ルフィ! ゾロ! 戦ってよ……!!」

 その言葉はまるごとロザリーの内心を表している。
 ロザリーはまた強く自分の腕を…手首を握った。ロザリーの癖だ。失った手首をつい触ってしまう。何かを耐えるとき、考える時、怒りに震える時……。

 この状況も、ベラミー一味も、全てがロザリーの大嫌いな『理不尽』そのものだ。
 理不尽をロザリーは許さない。抗わないことは理不尽を肯定することだと思うからだ。
 だからアラバスタで戦ったのだ。クロコダイルの理不尽を許せなかったから。こんな奴ら、こんな奴ら……!
 内心で血を吐くほど怒りで震えているのに、それでも抵抗しないのは、それがルフィの戦い方だと分かったからだった。
 ルフィは抗わないことで、戦っている。
 そう思うから、ロザリーは必死に耐えた。こいつらを殺したいと思うのを手首を握って、震えながら押さえつけた。

 こんな奴らと同じ土俵には立たない……!

「くだらねェ…下がれよリリー。ショーにもなりゃしねェ」
 ベラミーがジョッキを煽る。
「無抵抗主義──そう言やァ聞こえがいいか。弱ェ上にプライドもねェ…ケンカの一つも買えねェ……しかし頭の中は夢いっぱい。まるで"虫ケラ"だ!」
「違いねェ!」
 酒場が湧く。夢を嘲笑われ、殴られ、笑いものになっても麦わらの一味は言い返すこともしない。
 興が削がれたベラミーがショーを切り上げる。ルフィ達に口いっぱい含んだ酒を浴びせ、ゾロに膝を叩き込んだ。横薙ぎに吹き飛ばされ転がっていく。ルフィは窓に顔面から打ち付けられ、割れたガラスでまたドクドクと鮮血が流れた。

「ルフィ! ゾロ!」
 倒れ込んだ二人に駆け寄ったナミに、サーキースが声を投げる。
「おい女! そんな奴についてても先の時代に進めねェぜ。おれがお前を買ってやろうか。いくらでついてくる?」
「……!!」
 青筋を立てたナミは、一瞬俯いて不敵な笑顔を浮かべて振り返った。
「言ってくれるわ……私を買うですって?」
「そうさ。こっちに来い、楽しいぜ?」
「お生憎…!! あんた達みたいな小物チームには、私は勿体ないわ!!」
「ハハ…そりゃお高いこって!!」
「ウワッハッハッハ!!」
「一味全員大バカ揃いだ……!!」
「救いがねェなコリャ…」
「揃いも揃って妄想集団か……!」

 ナミまでアクセサリー扱いをされ、ロザリーは胸のあたりで嘔吐くようなぐるぐるとした黒いもやが渦巻くのを感じた。
 ルフィとゾロを抱え起こす。彼らもナミへの嘲笑を、必死になって押さえつけているのが伝わってくる。

「金髪のお嬢ちゃんはどうだ!? 臆病者ならそいつはといるのは荷が重いんじゃねェか?」
「ちょっとサーキース!」
「どうせどっかで負けるんだ、ここらで強ェやつに乗り換えるってのも一興だろ? いい女は計算高くなくちゃなァ…!」

 リリーが咎めたが、サーキースはニヤニヤと悪意的な笑顔を浮かべている。断られること前提で、ロザリーをただの酒の肴、ショーの火種にしているのは丸わかりだった。
 ここで答えたら、また火に油を注ぐだけだ。
 破れた唇をさらに強く噛み締めた。
 だが、怒りと羞恥、そしてそれを上回る傷つけられた心を、それでもなお去勢を張って啖呵を切ったナミを思うと…思うと……!

 ブルブル震え、ロザリーは立ち上がる。
 前髪をわざとらしくかきあげて、顎をツンと上げてサーキースを見下した。
「お誘いありがとう、サーキース…だったかしら?」
 初めて通る声で喋り始めたロザリーに、彼が面白がる。
「ほう…? 乗る気になったのか?」

「まさか。格下の船と、つまらない男の上には乗らないわ」
 ロザリーはにっこりと微笑みを浮かべて答えた。

「ヒューーーッ」
「ハッハッハ! 言うねェお嬢ちゃん!!」
「ビビってた女だとは思えねェぜ!」
「俺の上はどうだ!? ギャッハッハッ!」
 つい言い返してしまったことに、スッキリした気持ちと同時に、悔しさが滲む。結局こうして消費されるだけだとわかっていたのに。
「ロザリー! よく言ったわ!」
「ナミこそ」
 喧騒の中でナミが彼女の背中をバシッと叩いた。
 相手の土俵の中に自ら進んでしまったかのような苦いもどかしさが、それだけでするすると消えていく。

「そこの二人連れてさっさと失せろ! 命があるうちにな、雑魚共!」

 ショーが終わる。
 力の抜けたルフィとゾロをロザリーが抱え、引き摺るようにしてロザリーたちは酒場を後にした。
 追いかけてくる嘲笑に、未だに腹の中は煮えくり返っている。けれど、ルフィたちは戦ったのだ。戦わないことは戦いだったのだ。
 ロザリーの中には決して持ちえない選択肢を選んだルフィが、彼女にはどうしてか大人びて見えた。血だらけのルフィとゾロは、変わらず誇り高い輝きを失っていない。

「"空島"はあるぜ…」
「!」

 低い声が投げかけられる。
 店の前にはさっき揉めかけたチェリーパイの男がいた。

「何を悔しがるんだねーちゃん…今の戦いはそいつらの勝ちだぜ」
「え…」
「分かってくれるのね…!」
 男の言葉にロザリーはパッと喜びを浮かべた。安堵と嬉しさのあまり気が緩んで、ドサドサと両腕から抱えていた二人ご落ちる。

「分かるとも…! ねーちゃんも中々やるじゃねェか、ゼハハハ……!!」
 全てが敵だった中で、一人でも分かってくれる人がいる。それだけでもロザリーは思わず涙腺が潤みそうになるほど嬉しかった。
 ルフィたちの戦いを見届けてくれた人がいるのだ。
「おめェの啖呵も大したモンだったぞ! 肝っ玉の座った女だ!」
 ナミのことも褒め、上機嫌に高笑いしている。

 地面に落とされたルフィとゾロが立ち上がった。その背中に男は語り始める。
「アイツらのいう"新時代"ってのはクソだ」
 新時代……。
 四人は何も言わず、彼を見ていた。
「海賊が夢を見る時代が終わるって……!? えェ!? オイ!!」
 腕を広げて語る男の言葉には熱がこもっていた。呆気に取られて見つめているうちに、サーッと周囲の音が遠ざかり、男の声がダイレクトに届いた。

「人の夢は!!! 終わらねェ!!!!」

 男が叫んだ。
 理由の分からない風のようなものが、ロザリーの顔をはたいて流れていくようだった。気圧されて彼女は咄嗟に言葉を失う。

「そうだろ!?」
「………」

 男の質量が突然倍になったかのようだ。視線を外せない。ルフィと男がまっすぐ対峙していた。
 やがて、周囲の音が戻ってきて、初めてロザリーは今世界に男と自分たちしか存在していなかったことに気付いた。
 街をゆく荒くれ者たちが、突然叫び始めた男に野次を飛ばしていたが、男はものともせずルフィだけを見ていた。

「人を凌ぐってのも楽じゃねェ! ──笑われて行こうじゃねェか。高みを目指せば、出す拳の見つからねェケンカもあるもんだ!!」
「……」

 ゾロが歩き出す。
「……行くぞ」
 だが、ルフィは男と対峙したまま足を踏み出さない。ナミが呼んでもしばらく見据え合った末、視線を断ち切ったのは男だった。
「行けるといいな、"空島"へよ」
 ルフィはやっと背を向けた。

 ナミとロザリーも慌てて着いていく。
 ルフィの表情……。
 あの男は、ルフィたちの夢を肯定し、激励するものだった。なのに、ルフィはずっと思考の読み取れない…真顔を浮かべて男を見ている。
 ルフィと男の間に何かが通っていたような……。

「ねえ…あいつ"空島"について何か知ってたのかも……何者かしら」
「さァ…それに、あいつじゃねェ……」
「? あいつじゃない? じゃ…何?」
「あいつらだ…たぶんな」
 ルフィの謎の答えに、ゾロが続けた。疑問符を投げるナミに二人は答えず、スタスタと歩き続ける。
 ロザリーにも分からなかった。
 ルフィがあの男に何を感じ取ったのか。

 酒場といい、今といい、分からないことばかりだ。
 理不尽を決して許したくないロザリーが、それでもルフィに従ったのは、彼がいつもと違ったからだ。戦わないことが今回の戦いであると分かっても、その内心まで正確に読み取れたわけじゃない。
 普段快活なルフィが真顔になると、何を考えているか全く分からなくなる。
 ルフィの真顔に怒りはないように思えた。悲しみも、屈辱も、悔しさも、義憤も……。でも彼に譲れないラインがあり、腹の決まった顔をしていることは分かった。

 でも……。
 酒場のことも、今の男も、ルフィも……。

 みんな『夢』の話をしていた。
 彼女は瞳を伏せる。ロザリーには夢がなかった。
 やらなければならないことや成し遂げたいことはある。でも、人が憧れてきらきらと追いかけるような…そういうものが…ロザリーには分からない。
 ルフィたちには夢がある。
 それを嘲笑われていいわけがない。

 同時に、昔言われた言葉が蘇った。

『人は欲深い動物なのよ。欲望には終わりがない。もっともっとと膨れ上がり、足掻き、手に入れようとする。それを人は綺麗な言葉で覆い隠してこう呼ぶのよ──夢とね』

back

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -