臆病は病
05
臆病は病 05「……!?」
ロザリーは霞んだ視界の中で目を見開く。たしかに、かさついた感触から、素の自分の柔らかい唇に戻っているのを感じる。
クロコダイルが去っていくのがぼんやり見えた。ロザリーの築いた茨の盾をいとも簡単に砂にし、城下の喧騒を眺めている。耳も遠くなっているらしく、銃声が遠く聞こえた。
ニコ・ロビンはロザリーのそばで余裕そうに佇んでいる。
コブラ国王やチャカが叫んでいるのを聞く限り、状況はすこぶる悪いのだろう。けれど、ロザリーは乾いていて動きもできない。
薄い意識の中で、唯一動かせる脳みそを目まぐるしく回転させて、ロザリーは考える。考えることは、諦めないということだと思うからだ。
諦めて生きることが出来たら、心を殺してすべての理不尽をただ享受して生きることが出来たら、ロザリーはきっと、「楽」にはなれたかもしれない。
けれど、ロザリーはそう出来なかった。
諦めることの方が苦しかった。
抗い、戦い続けることに光を見出した。賢く強かに、機を伺うことで生き続けてきた。
だからロザリーは考える。枯れ果てた身体でも、脳みそがある限り、道を探し続ける。
なぜ、唇だけが元に戻ったの?
もう一度舌で舐めると血の味がした。喉はヒューヒューと空っ風の様な音を立てるが、口内は湿っていて、僅かだが唾液が溜まった。
そういえば、さっきの攻撃もなぜかクロコダイルに傷をつけた……。
なにか…何か共通点があるはず。
力の入らない緩んだ口を動かし、コク、と飲み込むといくらか呼吸が楽になった。
砂……。
乾きの力……。
血……。
果汁……。
唾……。
急速にピースが嵌っていく。
呼吸が楽になるということは、喉の乾きが癒されたということだ。いまだに喉は張りつく感覚だったが、もう一度ロザリーは唾を飲み込み、脳みその片隅でランプが光る。
乾きの対極にあるのは、潤い。
砂に染み渡るのは、液体なのだ。
ドクン、と心臓が一際強く高鳴った。まだ出来ることがある。
注意深い瞳でニコ・ロビンを足元から見上げる。彼女は意識をロザリーに向けてはいるが、視線を向けてはいない。
慎重に指先から小さな小さな種を生み出す。
小指の爪ほどの種。
それをピンッと指で弾く。コロコロと音もなく柱の方に飛んでいく。ニコ・ロビンは反応しない。この場の誰にも気付かれた様子は無い。
彼女に見逃されているだけだろうか?
視界もままならないロザリーに確認するすべはなかった。ただ、成すべきことをするしかない。
生み出した種がコロンと柱のそばで留まったのを感じる。
── 芽吹(グロウ)。
生み出した種を遠隔で操作し、種から小さな芽が生える。それだけでも枯れかけのロザリーには飢える程の労力に感じた。陽光が弱い。風の音から察するに、砂嵐が吹いているのだろう。光合成での回復も見込めない。
胸を酷く上下させながら、ロザリーは芽吹いた小さな芽をどんどん成長させていく。
「逃げなさい、ビビ!! その男から逃げるんだ!!」
血を吐くようなコブラ国王の叫びが聞こえる。ビビが、危ないのか……。
「ビ、ビビ……ウグッ!」
よろよろと芋虫のように這おうとしたロザリーの腕に鈍い痛みが走った。ヒールで踏みつけられている。
「悪いわね。あなたに何か出来るとも思えないけど…見張りが与えられた任務なの」
冷たい視線を感じる。
だが、痛みとうらはらに僅かな希望が生まれた。気付かれていない。ロザリーは呻きながら、成長させていく。
柱の影の種は、芽を伸ばし、茎を伸ばし、花をつけ、小さな果実を実らせていた。ロザリーは果実をもっと、もっと大きく……と成長させていく。
栄養不足で全身が震えてきた。
果実が大きくなるのが早いか、ロザリーが意識を失うのが早いかどちらかだ。そして意識を失えば、同時にそのまま命を失う可能性が高いことも分かっていた。
死因は乾きではなく、餓死だ。
けれど、ロザリーは力を送るのを止めない。
もっと大きく……もっとみずみずしい実を……。
意識が朦朧とする中、ロザリーは上から降ってくる声を聞いた。
「クロコダイル〜〜〜〜〜ッ!!!」
それは、一度は諦めたはずの船長の声だった。
*
「ル…フィ……!?」
幻聴だろうか?
だが、幻聴というには生々しいリアリティと迫力の伴う声だった。ロザリーは絶望してなどいない。心折れてなどいない。泡沫に見る夢としてはそぐわない。
けれど、遠くなった耳では、もう彼の声をとらえることが出来なかった。
やはり夢なのだろうか?
命の危機に瀕した時に彼を思い出すほど、彼に夢を見ている?…
「あら…間に合ったのね、おたくの船長さん」
面白がるような声でニコ・ロビンが言った。たぶんロザリーに向けられたつぶやきだ。
じゃあやっぱり……。
「ルフィは…生きてるの……!?」
「死んだと思っていたのかしら? 意外とシビアなのね」
「本当に…」
まさか、生きているなんて……。
急激に襲ってきた安堵感に、もう枯れたと思っていた涙が溢れ出そうな気がしてくる。
ロザリーな彼がクロコダイルに殺されたと思っていた。無駄な期待をするだけ、悲しくなると知っていたから。
蜘蛛の糸のように細い希望に縋るよりも、残酷な現実を直視して、その中で生きる道を探すことの方が受ける痛みは少ない。
ルフィが生きている……。
その事実がこれほどまでに心が震え、これほどまでに勇気が湧いてくるだなんて、知らなかった。
なんの根拠も無いのに、ビビはもう大丈夫だと思える。
その感情がどういうものかロザリーは言語化するすべを持たなかったが、それは人が「信じる」と呼ぶものに近い感情だった。
いまだにクロコダイルは立ちはだかっていて、爆発が控えていて、城下では国民が殺し合っていて、ロザリーは干からびていて、そして餓死しかかっている。
状況は何も変わりがないのに、もうひとりじゃないと思えた。
気付いていなかっただけで本当は最初からひとりじゃなかったのかもしれない。
「は……っ」
吐息を震わせ、ロザリーは活力を振り絞る。肉体はひび割れて萎れた花そのものだったけれど、ロザリーの心は潤いにみずみずしくみなぎっていた。
「ん〜〜ッ!!にゃろうが!!!」
ルフィ!
彼の声が、今度は明確に聞こえた。薄れた世界の中でもハッキリと聞こえる。ルフィがいると。
そして、けたたましい轟音と、激しい戦闘音が響き出した。何かが叩きつけられた音。
彼がクロコダイルとすぐそばで戦っている。
「……クロコダイルを……!!」
呆然と呟くコブラ国王の声。ルフィは、一度敗れたはずのクロコダイルを押しているらしい。敗れたからこそ、対策を見いだしたのかもしれない。
「あの時お前の手にかかった、"ユバ"で貰った水が教えてくれたんだ。水に触れたらお前は砂になれなくなる!」
「クク……」
「だから雨を奪うんだろ。お前は水が恐ェから!!」
そこには希望があった。
「これでお前をぶっ飛ばせる。こっからがケンカだぞ!!」
響き渡るルフィの声が、ロザリーに力を与える。
彼が戦っているのに、いつまでも乾涸びたまま倒れ、足でまといになるわけにはいかないと、ロザリーは最後の仕上げに力を振り絞る。
そして、果実が実った。
「ロザリー! どこだ!? 大丈夫か!?」
「だい…」
ビビから聞いたのだろう。ロザリーを探す声がする。けれど、掠れて声が出ない。
「彼女なら死んでないわ。この状態を無事と呼べるかは分からないけれど」
「! ロザリー…!! ちょっと待ってろ、この水をすぐに……!」
ニコ・ロビンが淡々と告げる。
ルフィが駆け寄ってこようとする気配があった。でも、クロコダイルを倒すための水をロザリーなんかに使わせるわけにはいかない。それに、ロザリーだってただ倒れていたわけではないのだ。
だから、いらないと叫ぶ代わりにロザリーは腕を茎にして、伸ばした。
栄養を送り、種から実らせた果実に……柱の影で隠れた巨大な果実に、茎を突き刺す。
これは、大きいだけの果実ではなかった。"花宴の招待状(フロス・パーティスタ)"のための果実。
成分の95%以上がアルコールを含んだ"水分"で出来ている。そしてロザリーは、植物由来のアルコールでは酔わない。
本来は、このアルコールを相手の血液に直接ぶち込んで殺すための武器だが……今は復活の福音となって、茎から吸収した水分で枯れきったロザリーの肉体はみるみる潤いを取り戻していった。
ニコ・ロビンが仕方ない子ね、という風にこぼした。
「あら…いつの間に」
後悔しても遅い。だが、その声は楽しんでいるように聞こえた。
ぼやけた視界が鮮明さを取り戻す。
目の前に、ルフィの顔が見えた。
水分によって視界も聴覚も肉体も元通りになったはずなのに、ロザリーはまた視界がぼやけるのを感じた。
「水があったのか! 良かった…ロザリー、もう平気か?」
「ルフィ!」
「うぉっ」
感極まって、思わずロザリーはルフィに抱き着いた。力強く抱きとめられた胸からは、心臓の音がたしかに聞こえていた。
「生き…生きてて……」
「…あァ!」
言葉にならない想いを受け取って、ルフィがニッと笑う。
「心配すんな! おれはもう負けねェ!」
「う"ん…」
ロザリーの桃色の瞳からは、やっぱり涙は流れなかった。でも、震えるほど、嬉しくて…ルフィの生きている体温が安心できて……。
「ハッハッハッハッ……クハハハハ!」
だが、喜びを分かち合う時間は長く続かない。クロコダイルが起き上がりながら、まっすぐルフィを睨んでいる。殴られた後だというのに、彼の笑い声には余裕がある。
「ルフィ、わたしは砲弾を止めに」
「おう! ここは任せろ!」
「困るわね。あなたを止めろというのが指令なのに」
「かまわず行って!」
「…分かった」
意志を込めて見つめ、ルフィはうなずきを返すとクロコダイルと相対する。ロザリーは自分を妨げる女性を鋭く睨む。
ミス・オールサンデー。
……悪魔の子。
「あなたにはわたしを止められない」
「あら、さっきまで老婆のようだったのに、ずいぶん強気だわ」
彼女の能力は超人系(パラミシア)。たしかに餓死しかけていて、復活したばかりで、ふらつくし戦闘をする余裕なんてないけれど、それでもただ花になって逃げることくらいはできる。
ロザリーは彼女を慎重に見つめた。
彼女のことは以前から知っていた。ずっと話してみたいと思っていた。共感、そして親近感すら持っていた。
それなのに……。
「なぜ、あなたはクロコダイルに付き従うの?」
「くだらないこと聞くのね…」
「故郷を滅ぼされたあなたがなぜ、同じことをしようとするの?」
「…」
余裕を保っていたニコ・ロビンの表情が一瞬崩れ、目に凄みが乗った。ロザリーは畳み掛ける。
「あなたの故郷オハラが世界政府の意向に逆らったことは分かってる。そして、その生き残りのあなたにおそらく罪がなかったことも。そのあなたがどうして? 憎しみ? 怒り? 奪う側に回りたいから? もう奪われたくないから? 弱者から強者になりたかったから?」
「…黙りなさい。ずいぶんと口が回るみたいね」
「クロコダイルに希望を見たの? オハラへの仕打ちと同じことをしてまで、貫きたい何かを見つけたの?」
「二輪咲き(ドス・フルール)ッ!!」
胸の前で手を構えた彼女が叫ぶが、ロザリーから手が生える前に、ひらひらと花びらに変わってゆく。
覇気や海楼石がない限り、彼女からの攻撃は脅威ではない。
答えがあると思ってはいなかったが、たずねずにはいられなかった。きっと8歳から世界政府の敵と定められたニコ・ロビンには、手を汚すしか生き残る道がなかったと、分かってはいるのに。
だって、たった8歳の女の子が戦艦を何隻も沈めた世界の敵だと、政府が本気で信じて懸賞金を懸けるわけがない。そもそもオハラの罪状だって、どの程度まで真実かなんて分かりやしない。世界政府の公表する事実に、どれだけ信憑性があるものか。
ロザリーがその体現者だ。
なにが強盗だ。なにが殺人未遂だ。ロザリーはただ、地獄から逃げ出しただけだった。必死で媚を売って、必死で機会を狙って、必死で逆らわないと思わせて、一瞬のチャンスを焦がれるほどに待って、ある夜睡眠薬を盛った。そして、15歳のロザリーは世界の敵になったのだ。
だからきっと被害者であったはずの…故郷を滅ぼされた彼女が、同じことをするのが、虚しくてたまらなかった。
きっと、彼女に殺されるほどの罪はなかった。
ニコ・ロビンはロザリーと同じ"D級リスト"に名を連ねているから。…
だから分かる。"D級リスト"は懸賞首というだけでなく、世界政府の敵にかけられる、政府内の内部リストのことなのだ。
花びらがニコ・ロビンの周りをふわふわとひらめいた。風に乗って飛んでいく最中、ニコ・ロビンの耳に諦めたような声が聞こえた。
「残念だわ…あなたに勝手に親近感を抱いていたから……。世界の敵として生きざるを得なかった、孤独な子供同士として……」
掴めもしない花びらが遠くなって行くのを横目に、ニコ・ロビンは一瞬、ギリリと強く手のひらに力を込めた。
その表情は誰にも見えなかった。
ニコ・ロビン自身にも。