あの日から夜の海を溺れていたあなたを、この腕で引き戻して救い出すことができたなら、どんなによかっただろう。
男は、中年にさしかかった己の手を見つめる。彼の顔がちらつくこの世界で、随分長く生きてしまった。
* 月明かりのような色をした錦糸の髪、澄んだ夜空のように青い瞳、見間違うはずのない彼の端正な姿が虚空に浮かぶ。
一番逢いたかった人に逢うと人間はこう簡単に膝を折るものか。男はその場に跪き、美しい青年の顎を見上げた。頭上のそれは上下して、少し掠れたような声で言葉を紡いだ。
「それでも君は私たちとは違う」
ええそうです、だからこそ、出来ることが、あるはずだと私は、
「すまないね」
謝らないでください、どうしてそんな、どうして……
目から涙が溢れる。これは夢だ。この方はこんなことは言わなかった。こんな、寂しそうな顔もしない。
頭の片隅でそう思いながらも、少年を幾つか出た程度の若造は、ボロボロと涙をこぼしていた。いつしか情けなく俯いていて、ずっと見たかったはずの彼の顔も見えない。 頭を優しく撫でる彼の手が苦しい。本当はずっと年上になってしまったのに、この方の前では、あの頃のままだ。ああ、馬鹿らしい。そう思いながら頭を撫でられ続けた。目からこぼれ落ちる涙が、床にぶつかっては弾ける。
腕を地面に付けたまま、動かせなかった。
*「起きたか」
彼によく似た面差しの青年が顔を出した。一瞬、夢の続きかと思ってしまうほど、よく似ている。
月のように美しい金髪は夜の光を讃え、青い瞳は晴れ渡る青空のように澄んでいる。
もう同じ夢は見られないだろう。
男は寝台から半身を起こして、青年と目線を合わせた。
「うなされていたぞ」
青年は水を汲んだコップを手渡してきた。ありがとうございます、と何とか笑ってそれを受け取る。
水を口に含むと、そのほんの少しの呼び水で、また夢の中に溺れていくような気がした。
そうだ。あの日からずっと夜の海を溺れていたのは、自分の方だったのかもしれない。
いつしか男の目からは、夢の中と同じように、涙が溢れていた。黒い睫毛を濡らすそれに、青年の指が伸びる。
「おまえは、自分のために泣けばいい」
少し頬を緩めてそう言う彼の青い瞳は、穏やかだった。男にはその瞳こそが海のように見える。
きっと私は今も溺れているのだ。
夢に見たあなたは、もう溺れてはいないだろうか。
頬を撫でる武骨な手に、男はその痩せた心を少しだけ委ねた。
月の海を溺れる
* 救済エンドを模索していました。難しい……
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