少年はピアノを弾いていた。来週の大会のために。

 ピアノを習い始めた頃は、何も将来の役に立たないと思ったからやりたくなかった。しかし、前の大会で三位を取った時に、テストで満点を何度取っても褒めてくれなかった父親が頭を撫でてくれたのだ。それで一気にやる気が出た。父の大きな手を思い出しながら、小さな手が鍵盤を叩く。

 父は少年にとって、偉大な存在だった。尊敬出来る人間は父だけだったと言ってもよかった。



 大会の日が記されたプリントを父に手渡すと、父は少し考えてから頷いた。そのときには何も解らなかったが、眠る前に父が部下と話しているのを聞いてしまった。
「あの日は某所で会議があるんだ、しかしあの子があんなに頑張っていた成果の晴れ舞台、見に行ってやりたい」
 こんなことですら、父の重荷になるということを知った。
 少年は考えた。考えて、考えて、父の前で笑って楽譜を置いた。
 大会の三日前、少年はそれを辞めてしまったのだ。


「お父様、あの日には大事な会議があるのでしょう、どうぞ心置きなく。仕事よりも私などを優先するお父様なんて嫌いになりますよ」

 それだけでやめてしまったということは、きっとピアノを弾くこと自体よりも父に認められることを欲していたのだろう。十年以上経った今になってそう思う。

 年相応の大きな手で、彼は鍵盤を叩く。少年は青年になり、今ではもう一人前の男だった。
 長い指が奏でるのはあの日への追憶だ。
 父が来なくても、大会に出てもよかったかもしれない。あるいはやめなければよかった……まだ弾けるじゃないか。幼い私は、あの人以外を欲することをしなかった。

 気が付かないうちに部下が入って来ていたことを、彼は一曲弾き終えた後にやっと気付いた。
「……意外だろう」
「いいえ、よくお似合いでした」
 少し年上のその部下は生真面目な顔でそう答える。馬鹿げている、こんな問答は。
「簡単な曲しか弾けんぞ」
「それで十分です」
「私はこれが嫌いだった」
「お好きなように見受けられますが」
「馬鹿め」

 もう父は忘れてしまっただろう。この白と黒だけで彩られた鍵盤の上で、彼が奏でたやさしい曲を。
 今は白か黒かにすべてを断罪する、それだけの人生だ。
「好いてなどいない、嫌いさ、これも、」
……父も。
「好きか、嫌いかなど、よいのではありませんか。白と黒だけではなくとも」
「それは私には出来ない」
 部下の顔を見ない振りをして、言葉を発させないことにした。
 今までずっとそうして生きて来たから、目を上げても白か黒かしかない。

 かわりゆく父の姿は、果たして白か黒か。
「愚問だな」
 結論は既に出ていた。








*



 お題・コルデさま
 別のところで書いていたものを加筆しました。ピアノ弾けるギレンとかあまりにも妄想すぎる……父との確執が永遠のテーマです。

 



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