「先生、オレはもっと早く強くなりたいのです」
 少年は明確にそう語った。だからわたしは総てを教えてやろうとした。少年がいくら傷ついても、殆ど見ないふりをして、本当に無茶な特訓ばかりしたと思う。
 文句の一つも言わずついてきたあの少年は、ただただ強い子なのだ、わたしはそう思っていた。あの晩までは。



 それはある寒い夜のことだった。少し離れたところで眠っている、あの子の声がする。どうやら少年は、寝言を言っているようだった。
 耳に入ってくる言葉は、心底意外なものだった。
「お……おかあさん、」
 お、お母さん?
 一瞬目が点になる。
 ああ、忘れていた。この子も人の子なのだ。



 翌朝、いつものように少年はわたしの前に膝をついていた。癖のある黒い髪が、上下に揺れる。
「先生、今日もよろしくお願いします」
「なあ……」
「はい」
「お母さんが懐かしいか、家族が懐かしいか?」
「な、そ、そんなことは全くあり得ませぬ!この身は、女神に捧げ……」
「いい。今くらいは」
 次の言葉が思いつかなかったので、小さな体を思い切り抱きしめた。「……今日はおまえの誕生日だろうに」
 腕の中で、微かに嗚咽が聞こえる。まだこんなに小さかったのだなあ、と薄い背中を撫でた。
「明日からもまた、一緒にがんばろうな」
 がらにもなくやさしい声を出して、わたしは少年を慈しんだ。
 いくら強いとはいえ、この子も母が恋しい普通の子どもなのだ。目の前の靄が晴れたような気がした。



 だからと言って、それからの修行に手を抜いたわけではなかった。少年はあっという間に成長した。そして、わたしの手を離れて行った。

「ほら。行くんだ」
 小さな背に背負った箱を押してやる。
 少年は何度も振り返って、わたしの顔を見た。やがて、頭を一度すこし下げて、走っていった。
 わたしは聖闘士になるまでにもっと時間がかかったものだ。多分あの子のような者を、天才と呼ぶのだろう。
 感慨に耽るわたしの元に、威厳に満ちた小宇宙と共に聖下の声が響いた。
「おまえは、よく勤めを果たした」
「聖下、わたしは……」
「好きに生きよ」
 教皇聖下はわたしにそう命じられた。

 感慨の中でわたしは、静かに仮面を置いた。そうして、何もかも置いて、聖域を静かに去ったのだ。
 わたしの聖衣はまたほかの若者が着るのだろう。それでいい。


*



 あれから何年経っただろう。五年以上は経っただろうか。それとも十年経ったか、時間の感覚が曖昧だ。
 わたしは夫を持つことがなく、またそれゆえに子もない。故郷であるドイツの山奥でひとり、自給自足の生活を送っていた。

 しかしわたしの平和な生活に、突如として戦いの影が現れる。
「女!貴様、聖闘士であろう」
「そう呼ばれた頃もあったがな、今はその肩書きはない」
 海闘士の配下か、それとも冥闘士の配下か?頭の悪そうな、いかにも雑兵といった風情の男がわたしを聖闘士と決めつけた。
「……貴様には死んでもらおう」
「よせ!わたしはもう、聖闘士ではない」
「問答無用だ」
 光が走った。鮮やかな技だ、雑兵ではなかったのかもしれない。勘違いをして済まなかったな。
 わたしの意識はそれきり途切れた。



 ふと目が覚めたら、そこは、見慣れた自宅だった。しかし、見慣れないものがただひとつある。
 影、だ。人影である。
 逆光で顔が全く見えない。しかしわたしをじっと見ているのはわかる。
「誰だ」
 わたしが起きあがると、影は近づいてきた。そうして、わたしの顔を覗き込む。
「……先生、気がつかれましたか」
「あ……」
 目の前で膝をついているのは、癖のある黒髪の青年だ。がっしりした肩から腕が伸びて、大きな手がついている。たくましい若者だと言って差し支えない。白い膚に鋭い目をしたこの青年、わたしには見覚えがあった。
「……おまえ、大きくなったな」
 わたしがかつて教えていた少年は、しっかりとした青年に成長していた。何か変わったことがあるとすれば、わたしがもう仮面をしていないことだけだ。彼もそれに気づいているらしく、控えめに聞いてきた。
「先生は……もう聖闘士ではないのですか」
「ああ、おまえを育て終えて、わたしは疲れてしまったからな。それに、もう少年という雰囲気でもなかった」

 青年は控えめに座って聞いている。わたしが自嘲を込めて笑ったら、彼は小さな声で言った。

「先生のお顔を見たのは初めてです」
「何だ、変な顔か?」
「いえ……ただ、先生は怖い顔をしていると思っておりましたので」





の女




*


 これからロマンスの神様が降りてきたりするわけです。はい。



 



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