「じゃ、ちょっと戻ったところで遊ぼっか」

腿の深さまで波から逃れてくるとほっとした。促されるまま膝をそっと折り曲げ、上半身を徐々に濡らしていく。ラッシュガードは水を含んでも十分に軽い。波が肘にぶつかり、僅かな飛沫が肩にかかった。命綱も同然の手は、海中でしっかりと握っている。

「やっぱ同じ太平洋でもこっちとあっちじゃ全然違うな」

『あっち』は地元を指すのだろう。さりげなく腰に回された手を払いのけ、意味のなさそうな発言に「どの辺が」と遥が返す。

「波が荒いよ」そうだろうか?「あっちはこんなに白波がくっきりじゃないし」

毎夏海を訪れるような気質でない遥にはさっぱりわからない。考え込んでいると避けたはずの手が腹部に舞い戻り、着衣の上から撫で回される。こいつ、やはり適当なことを口にしただけか。

「そういえばちゃんと見えてる? 危ないから離れないでな」

心配そうに顔を覗き込まれる。いつもなら眼鏡を通してかち合うはずの瞳だ。至近距離で視線が絡み、さっと目を逸らして遥は頷く。佳奈子はコンタクトを付けているが、目の中に異物を押し込むなんてとんでもない、と頑なに拒んだ遥はあくまでも裸眼を貫いていた。さすがにこの近さなら恋人の表情も読み取れるし、己がよたよたと覚束なければすぐにでもこの男が助けてくれるだろう。

「これいいね、日に焼けなくて済むから」

遥の白いラッシュガードを摘まんで言う。だったら自分も着ればいいのにと思うが、彼は焼けても肌が弱ることはない。普通に日焼けして、ターンオーバーが進めば普通に戻っていく。因幡の白兎の如き赤剥けになる遥とは造りが違う。男らしくて何よりだ、と露骨な差にむくれたくなるが、このパーカーのおかげで全身に日焼け止めを塗りたくられる悪夢のようなイベントが回避できたことは僥倖といってもよかった。友人たちの前で赤っ恥をかかされては堪らない。

「これ着てると、なんか羊みたい」

「羊……?」

「白くて、髪がふわふわしてて」

あまりにも突飛な空想。何を言っているのかさっぱりだ。
絶え間なく進んでくる波をいくつも恋人と乗り越えながら、涼やかな水に身を浸す。インドア派にあるまじき夏の過ごし方だ。エアコンの効いた室内で数字と向き合うのも健全には違いないが、こうしてただ揺られているだけなら悪くない。砂の城を作るとか、サーフィンに興じるとか、そんな暴挙は御免だ。
しばらくはおとなしくしていた命綱が腰にも腹にもそれらしく巻き付いてきたタイミングで、遥は躊躇なくその頭を塩水に沈めてやった。

***

「ひどいじゃないか! 私は寝ていただけなのに!」

砂まみれの全身を男性用シャワーでがしがし洗い流し、振り返った翼が恨み言をぶつけてくる。濡れた遥の髪をふわふわのタオルで優しく拭いつつ、責められた彼は飄々と嘯いた。

「あんなとこで寝てたら埋めてくださいって言ってんのとおんなじだろ」

「誰も頼んでない! うわ今口の中がジャリってした! ぺっぺっ、お前と成島ときたら全く!」

哀れな彼にどのような災難が降りかかったのかは割愛するとして、遊泳が許されている時間より少し早めに切り上げた彼らはいったん別荘へ戻ることにした。夕食は外で取るのでそれまでは各自で休憩とする。
シャワーが混み合う前にと砂汚れを落として佳奈子と合流し、六人で夏風家所有のヴォクシーに乗り込んだ。運転席には湊が座り、器用にステアリングを切って狭い駐車場を後にする。遥は未だ免許を取らずにいるが、たとえ取ったとしてもこんな大型車を操るのは無謀だろう。安定した運転を横目に、助手席でほっと息をつく。

「夕飯、居酒屋にするんだろ? この辺いろいろありそうだけどどうする?」と湊。

「だいじょーぶ、もう決めといた」

頭からタオルを被った佳奈子が、バックシートから遥にスマホを見せてくる。Googleマップに赤いピンが立っているのは『漁火』という店だ。口コミも申し分なく、この近辺で獲れた海産物が豊富との評判だ。サザエの壺焼きの写真に、わぁおいしそう、と好き嫌いのないかりんが期待を膨らませる。ホタテ以外の貝類がそこまで得意でない遥は、お造りや海鮮丼を眺めて小さく承知した。酒もご飯ものも揃っている。満場一致。
遊んで泳いで腹が減ったので、夕飯までの繋ぎにと一度コンビニに寄って食料を買い込む。別荘でのんびり寛ぎながら、居酒屋に向かう英気を養っておこう。
それにしても、と再び車に乗ってから凌也が口を開く。

「バカンスのための別荘の名前が海鳴荘とは、どういうセンスなんだ? なかなか物騒に思えるが」

「確かにそうだなぁ」と翼が応じる。「おじい様は変わり者だからな。ほら、大昔は子供にわざと奇怪な名前をつけて厄災から守る風習があっただろう。あれの家版じゃないか?」

いわゆる『御守り名』だ。乳幼児の致死率が高い中世以前は、子供に華々しい名を与えると悪魔や鬼に魅入られ、不幸が訪れると信じられていた。有名な話では豊臣秀吉が自らの子に『棄』『拾』などの字を幼名として与えた歴史がある。
一方で、海鳴りとはその言葉通り、海から轟くうなりを指す。沖の荒れた天候によって生じた波浪が崩れる際の音が原因で、台風や津波の前触れであることから縁起としてはもちろん良くない。そんな不穏な御名を担ぎ上げた別荘に、六人は故あって向かっている。

『海水浴に行かないか?』

とある真夏日。同じインドアを自負していた翼が夏の青空へ寝返った事実に遥は驚愕した。いつも寄る自販機でいつも買うジュースが忽然と消えていたくらいの衝撃だ。人工的な涼風に満たされた快適な部屋で、思わず恨みがましい視線を投げてしまった。
遥以外の四人も訝りながら尋ねていくと、おじい様の所有していた別荘が海際にあるので泊まりに行こう、とのこと。

『あんたのおじー様ってまだ生きてるよね?』

所有『していた』の部分に引っかかりを覚えた佳奈子が首を捻る。

『ああ、半分隠居しているがな。その別荘は今、私の弟の物なんだ』

『そのおじい様から弟さんが譲り受けた、ってことですか?』

かりんの相槌に頷いて翼は続ける。バブルの頃に買い付けた別荘で、若い頃は家内や友人を招いて趣味の釣りやサーフィンに繰り出したそうだが、隠居生活には不要となったので翼の弟に権利を移したらしい。

『奏も――あ、弟だぞ。東京からは少し遠出になるが、学校の友人を呼んでBBQや花火をして楽しんでいるらしい。「兄さんもお友達ができたんでしょう? ぜひ使ってください」と勧められてな』

何故か得意げな翼に「もっとマシなことで弟くんを安心させてやれよ」と湊が代表して突っ込んだ。
近くには管理人が住んでおり、事前に連絡を入れておけば掃除などは済ませてくれるそうだ。部屋数も多く、六人ならひとり一部屋でも十分だと聞く。現地までの足に夏風家の車を借り、二泊三日で遊びに行こうと計画を立てた。

「なぁ、気になったんだけど」

右折優先を待って切り返しながら湊が後部座席に声を送る。

「弟くんが別荘もらったんなら、お前も何かもらったのか? 普通は長男に権利が行くんじゃね?」

もっともな疑問に大きく頷き、翼は気持ち胸を張って発言した。

「私は博物館をもらったんだ。小さいが立派なものだぞ」

「すごい! どんなものが展示されてるんですか?」

興味津々で三列シートから身を乗り出すかりんに、これ以上ないほどのキメ顔で彼は宣言する。


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