「読み聞かせってなんだ」

穏やかな夜のリビング。
ゴミ箱を両脚に抱き込む形で胡座をかき、湊はパチパチと爪を切っていた。湯上がりの柔らかい爪は小気味良く刃を鳴らしている。

「――え?」

垂れ流しになっているテレビの音声かと思いきや、退屈そうにそれを眺めていた恋人の声だったらしい。やや遅れて反応すると、遥が眉を寄せて今一度同じ台詞を繰り返した。 湊は爪切りを所定の引き出しに戻しつつ、そのままじゃ?と至極当たり前のように告げる。

「読んで聞かせるものだろ。なんで今、そんなこと?」

あまりにも脈絡がなさすぎやしないかと訝れば、恋人はシャープペンの尻でついとテレビを指した。

「『こどもに読み聞かせたい昔話』のCDが、3980円で売ってた」

「あー、よくあるやつね」

英会話を聞くだけで英語力がwellになるとかそういった教材――と並べては失礼か。心に響く演歌の名曲百選、ヒーリングミュージック詰め合わせ、自宅で歌えるカラオケセットなどなど。サブスクや動画配信サービスの普及に伴い数は減っているが、現在でもCMで時たま見かける通販だ。とんでもない数のCDが詰め込まれていたりする。
いや、しかし朗読ならば名の知れた芸能人や声優を使えばそれなりの需要は見込めるのかもしれない。可愛い孫にプレゼントしちゃるぞと意気込む祖父母の皆さんもきっといらっしゃるはず。一度購入したら最後、子供のいる世帯から世帯へと連綿に受け継がれていきそうだ。

「珍しいじゃん、本なんか全然気にしないのに」

恋人の所有する書籍はほとんどが横書きの左開きだ。まれに右開きもあるが『面白い数学』とかなんとかの新書や雑学系に限り、小説はただのひとつも持っていない。逆に湊の本棚はほとんどが漫画と小説で埋め尽くされ、その比率は3:7といったところ。漫画も昔から買い漁っていたのだが、少年漫画なら優太も読むだろうと、多くは実家に残してある。
まぁともかく。物語仕立ての本をほぼ読まない彼が、子供向けとはいえそうした書物に興味を引かれているのには何か訳がありそうだ。
春休みで二人とも夜更かしには慣れているので、湊はいそいそとキッチンからカップを二つ運んできた。遥は横目でカップを認めると、青と黒でペアになったうちの黒に手を伸ばす。両方ともムスッとした猫のイラストがメインだ。シャープペンをノートの紙面に投げ、吐息で執拗に冷ましてからノンカフェインのコーヒーをすする。

「読んで聞かせる意味がわからない」

「うん?」

猫舌とは無縁の湊がゴクゴクとカップの半分を消費する。がぶ飲みなんとかみたいな飲み方だ。

「あのくらいの絵本なら、自分で読めるだろ」

CMを見逃した湊は『あのくらい』がどのくらいなのか曖昧だが、絵本ならばおおよそのニュアンスは伝わる。

「買うならCDじゃなくて絵本でいいだろってこと?」

「違う」

恋人は困ったように睫毛を伏せる。自分の中のもやもやを如何にして湊に汲み取らせるか、語彙の少ない遥は難儀しているらしい。彼はもどかしそうに言葉を絞り出す。

「だから…大人が読み聞かせる理由は、なに、って」

「あ、CD関係ない――わけじゃないか。CDに仕立ててまで読み聞かせるメリットとは、って話?」

そうそう、とシャンプーの香を振り撒くように揺すられる頭部。ボールが無事キャッチされた安堵にコーヒーがひと口ぶん減る。ローテーブルにティッシュを敷いて、湊は豆菓子の小袋をばりっと裂いた。歯磨きは二人とも済ませていたが、コーヒーを口にした以上、どうせやり直すのなら何を食べても同じだ。

「遥は読み聞かせてもらったことないの?」

尋ねてから、無神経な質問だったかもしれないとソファで伸びる恋人をそっと窺う。遥は表情を変えないまま、ほんの少し逡巡して首を振った。

「……ない」

「綾さんにも?」

「教科書の、音読ならある」

小学生の頃だろうか。普通は子供が宿題で課されるものだが、桜井家はちょっとした事情で綾子が先生代わりの時期もあった。ならばと湊は顔を上げる。

「ただの字面より、人の声の方が認識しやすくない? 特にほら、子供って文字ばっかりじゃ飽きちゃうし」

「飽きるような子供は、CDだってまともに聴かないだろ。本のほうがまだ、目で見るから勉強になる」

「むーん、CDは俺見てなかったからなんとも言えないけど。違うんだよ、勉強云々が目的かっていうとそれだけじゃなくてさ。子供に関心を持ってもらう前提として、最初に『安心感』が必要なの」

「安心?」

「保証って言うべきか。例えばだよ? 夕飯時、遥が食卓に来たらそこには見たこともない料理が乗っていました。俺が『ほら食べなよ』って言うのと、『これね、バイト先のブイヤベースをアレンジしてリゾット風にしたの。海鮮のトマト煮だからクセも少ないよ、召し上がれ』って言うの、どっちが食べる気になる?」

むう、とあからさまに遥は唇を尖らせる。

「それとこれは別だ」

「別だけど別じゃないってば。自分の知らない世界を、信頼の置ける誰かが案内してくれるっていう安心感は大事だよ。子供は俺たちが思ってるよりもずっと大人を観察してるからな。本を読んでる人が楽しそうなら『きっとこれは面白いんだな』って刷り込まれるし、逆もあり得る。いくら絵本を買い与えても、まず読み方を教えてあげないと子供はどう楽しんだらいいかわからないんじゃないかな。読めるっていっても単に発音できるだけで、面白さを感じ取れるかは感性によるし。情緒というか、それは生身の人間から知らず知らずのうちに吸収するものじゃない?」

「楽しむためには補助が必要って、言いたいのか」

「まぁね。もちろん、ひとりで果敢に挑む子もいるよ。ただ、かたい文字より身近な人の声のほうが意識も傾くし、雰囲気やニュアンスも言動で伝わりやすくなるよな。仕掛け絵本とかも、一緒に手を使って楽しむ過程で本に対するプラスが印象づけられていくじゃん。人と関わった記憶って頭に残りやすいからな」

「記憶…」

言い負かされたような苦い顔でコーヒーをすすった遥は、少し前に己が綴った数字の羅列に目を落とした。読み聞かせが国語ならば、算数は何に該当するのかを考えあぐねているのだろう。高名な数学者の名をもじった教育番組か。球体がゴールめがけてドミノを倒したりするやつ。と思いきや、全く違う回想をしていたらしい。

「昔」

「昔?」

「優太に、してやってただろ」

優太が幼稚園に通っていた辺りか。湊の部活がない日は、小宮家で課題をこなしたりおやつを食べたりゲームをしたり、だらだらと放課後や休日を過ごした。遥が勉強から離れず、湊が暇を持て余していると、優太はとてとてと子供用の本棚からお気に入りの絵本を選んで『にーちゃん』と差し出してきたものだ。随分とまぁ昔の話をよく覚えてくれている。カップの底に溜まった闇をシンクで景気よく洗い流して、湊は苦笑を浮かべた。

「懐かしいなぁ。俺も実は誰かに読んでもらったことないんだけど、読んであげるほうが合ってたみたい」

「うるさかった」

「なにおう。構ってくれない誰かさんに振り向いてもらおうと情感たっぷりに読んでただけですう。んでも…だいたい優太が途中で寝落ちするから最後まで読めたのはあんまりないな。あいつ、盛り上がるとこ過ぎたらスヤァなんだもん。しまいには遥まで寝だしてさ、俺なんのために読んでんだよって」

「仕方ないだろ」

温かくて柔らかい場所へと、聞き慣れた声が優しく導いてくれる。安心感、充足感、特別感。すべてのものに満たされながら眠る心地よさを、この身は嫌というほど覚えているのだ。あの時から、ずっと。

重くなりかけた瞼を無意識に擦って、遥はソファで膝を抱える。疑問をぶつけるだけのつもりが、奥底で要らぬ引き金を引かれてしまった。
絵本の内容はまるで覚えていない。シンデレラの結末も、豆の木を登った先にあったものも、岩の扉を開ける有名な五文字すらうろ覚えだ。

それなのに、どういうことか。
物語の外側へ弾き出される間際の断片。弟に語りかけていた横顔だけは、このとおりいつまでも記憶から消えてくれなかったりする。


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