◆◇◆

「うーん…この世の春って感じ」

「春だろ」

「まぁそうだけど。天国みたいってこと」

嫁の腿にぽんと頭を預け、畳に寝そべった旦那は贅沢な空間にすっかり酔いしれていた。一方の嫁は梵天のついた耳掻き棒を手に、洗い立ての黒髪を撫でながら耳掃除を続けている。
ここは日本海に程近い、とある老舗旅館。新年度で昇格した湊の祝いと、結婚三周年の記念も兼ねて、二人は宣言通り旅行に来ていた。湊の有休消化のため、今日も明日も平日だ。道路もすいすい、週末は混雑するらしい水族館にもすんなり入館できた。

昼間はレンタカーで観光名所を巡り、海産物を堪能してから土産を買った。夕方は少し早めに宿へ向かい、疲れを癒すために広い大浴場で軽く体を流した。食事も済ませ、部屋付きの露天風呂に二人きりでゆっくりとつかり、程よくしっとりとした雰囲気で酒を酌み交わした。膝枕をねだると耳掃除をしてやるとの嬉しい提案もあり、今はお言葉に甘えて心地よさに浸っているわけだ。

「昼の浜焼きと海鮮丼も旨かったけど、やっぱ旅館の料理って豪華だよな。上膳据膳で最高だし、ちょっと食べ過ぎたかも」

「ちょっと…?」

おひつを空にした挙げ句、自分が残したしゃぶしゃぶやデザートまできれいに平らげておきながら、何がちょっとだと遥は訝しげな表情で呟いた。二膳とも残さずぺろりと食べたので、仲居にはたいそう喜ばれたが。
浴衣に包まれた膝をすりすりと撫でつつ、湊は苦笑を浮かべる。

「明日、朝風呂で体重計乗っとこうかな。しばらくはセーブするよ」

「どうせ…太らないくせに。健康診断だって受けなくてもいいだろ」

「んなことないって。年も年だし、腹だけぽっこり出ても嫌じゃん? いつまでもかっこいい旦那じゃないと、愛想尽かされちゃうもんな」

ぐっ、と遥は耳掻きの手を止めて押し黙る。笑いながら言っているところからして、先日の恥を茶化すつもりか。ふわふわの梵天で頬をぐりりと抉れば、ごめんと慌てて謝罪が飛んできた。

「でも冗談言ったわけじゃないって。そりゃもう、嬉しかったってこと」

「もう喋るな」

ぺしんと頭を叩いて、耳の中でも梵天をくるくると回す。これで仕上げは完了だ。終わったからどけ、と背中をぐいと押しやれば、やだやだと子供よろしく駄々を捏ねて腰にしがみつく始末。びく、と遥は僅かに体を引いたが、暴れていた湊は気づかなかったようだ。

「もうちょっと堪能させてよ」

甘えるように髪を擦り付けて、湊はそっと目をつむる。遥もそっと、詰めていた息を吐き出した。
どうやらバレてはいないようだ。

「――何隠してるの?」

びくっ、と今度は大袈裟に膝が跳ねた。悪戯っぽくぺろっと舌を出して、湊は太腿をつうっと指で辿る。

「さっきから変だよ、遥。やたら俺に優しいし、いつもより喋るし。なんか隠し事してるよな」

「……別に」

ちっと舌打ちも表に出して、自棄気味に話を遮ろうとする。なんだってこいつは勘がいいのだ。口下手な自分にとって、察しがいいのは大変助かるのだが、こういう時は素直に憎らしいと思わないこともない。
遥のつれない態度を見かねて、体を起こした湊はむっとしたままの唇を押し付けてくる。

「教えてくれないんだ。夫婦なのに」

「………」

「ふーん」

もちろん湊も無理に聞き出す気はない。秘密のひとつやふたつ、人間なら当然持ち合わせているし、何もかもオープンにすればいいというものでもない。でも、やっぱり少しは悔しいのだ。ちょっと拗ねてみたくもなるのだ。

「ん?」

くい、と浴衣の袖を軽く引かれた。見れば遥は俯いて、部屋の中央をひょいと指差している。座卓と椅子が隅に寄せられた今、そこには仲居が食後に用意した布団が二組、整然と敷かれていて。湊がぱっと視線を戻すと、サイドの髪の隙間から真っ赤な耳が覗いていた。本能の奔流に、ごくりと喉が鳴る。

「…もしかして、ご機嫌取ろうとしてくれてる…?」

だとしたら随分子供じみた真似をしてしまったものだ。遥は黙って、緩く首を振った。えっ、と思わず漏れる本音。

「てことは遥がしたいってことっ?」

「!ち、ちがっ…」

「もー、なんだよ早く言ってよ!」

肩と膝裏にさっと腕を回して遥を抱き上げ、破顔した湊はルンルンと布団へ向かう。もう秘密なんてどうでもよくなった。
電気、とか細い嫁の声をわざとスルーして覆い被さる。白いリネンにしどけなく横たわった姿はたまらなく色っぽい。浴衣の合わせから覗く胸元も、乱れた裾から突き出た脚も、全てがこちらの欲を煽る。

「遥……」

はむ、と唇を重ねて食んで、手は華奢なラインを外側から撫でる。よほど恥ずかしいのか、遥は決して目を合わせようとしない。

「さっき風呂でもいっぱい見たじゃん」

ていうか普段から裸なんて珍しくないし。
細い髪先が散った首筋にも吸い付いて、浴衣の上から胸の辺りを探っていると。

「………」

「、えっ」

する、と遥の手が自らの浴衣の裾を割り、露出していた脚が眩しい太腿までさらに露わとなる。はぁ、と荒くなる己の呼吸。こんなふうに誘われては我慢も形無しだ。

「っ、あ……」

柔らかな太腿にちゅっと唇を落として、中心を布越しに手のひらでさする。くすぐったそうに体を揺らされ、情欲は燃え上がるばかりだ。浴衣を捲り上げる手にも力が込もり、ばさっと一気に下半身を暴いてしまう。

「!ばっ…」

「へっ……!?」

いつもの、着古した、見慣れた下着が眼前に現れる、はずだった。

「ぱ、ぱんつ…」

後頭部をがつんと殴られたような衝撃に、営業トークで磨いた語彙力も消し飛ぶ。やや反応した股を覆っているのは、面積がごくごく狭い、左右の両端を紐で結ぶタイプの女性用下着だった。所謂、紐ぱん。紐ぱんつ。字面を意識した途端に膨れ上がる、正直な下半身。湊は狼狽える。

「な、なんでっ?だって、さっきは普通の…」

先程、部屋の露天につかった際は間違いなく普段通りのぱんつだった。何がどうしてこうなったのか、理解が追い付く前に湊は好奇心で遥をぺいっと俯せにした。ぷりん、と形のいい尻が丸見えになり、瞬間湯沸し器の如く脳味噌が茹だる。紐とまではいかないが、狭間は心許ない幅の布地しかない。やめろ、見るなと遥の泣きそうな声が上がった。

「見るなって無理じゃんこんなの!…え、まさか隠し事ってこれ…?」

再び体を仰向け、恐る恐る尋ねてみる。遥は両腕で顔を覆っていた。仄白い首元まで紅潮が広がっている。

「米屋…が……」

『この間のやつどうでしたー?…へぇ、旅行に!新婚旅行ならぬ、三周年旅行?ほうほう、そんじゃいいものあげますね、ほら!えー、着てみると案外ちっちゃくないですよぉ、たぶん』

なまじ付き合いの長い分、詳細を聞かずとも脳内再生は余裕だった。五穀米に続き、旨い土産をありったけ買っていってやろうと湊は決心する。

「い、嫌なら脱ぐ…」

おずおずと太腿で結われた紐に手が伸びるのを慌てて留め、湊はすーはーと深呼吸を繰り返す。どう足掻いても興奮は収まりそうにない。

「嫌なわけないじゃん。…大胆な遥もかわいいよ。俺のためにありがと」

ちゅ、ちゅっと頬に何度もキスを落とせば、遥はぎゅうと目を閉じて手を引っ込めた。薬指に嵌まった銀の輪にも口づけて、湊は囁く。

「脱がすのは俺がやるから、ね?じゃ、頂きます」

夕食と同様、きちんと両手を合わせて。アレンジの効いた最高のメインディッシュを、湊は今宵も変わらず味わうのだ。


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