ひとまずよくやったと自分を労うことにして、人のまばらな学食で昼食をとってから、本屋へ寄るために遠回りをして帰った。湊はどうせ午後まで塞がっているので、暇潰しのナンプレ雑誌と参考図書を買い込むためだ。ナンプレは最近湊にアプリの落とし方を教わったのでスマホでも遊べるが、不器用なのかやたらミスタップが多く、広告にも嫌気が差していたのできちんと紙で買いたかったのだ。 ここ最近は神経がピリピリしてばかりだったが、もう勉強を念頭に置かなくてもいいのだ。すっかり気が楽になった遥は、暖房器具と空気清浄機をフル活用した贅沢な空間でナンプレに励んだ。遥の場合は趣味も勉強に他ならないが、自分の好きにやるのと誰かに採点されるのとでは自由度が全く違う。湊が淹れるものより格段に味の落ちるコーヒーをすすりながら、それでも機嫌よくページをめくっていく。 おやつ時に差し掛かるとかなり眠たくなってきた。夜更かしというほどではないが、寝る直前まで勉強していたせいかこのところ寝付きも寝起きも悪く――いつものことだが――、普段のそれより酷かったため、安心しきっていたこともあってやっと心地よい睡魔が降りてきた。コーヒーも朝以外はノンカフェインのものを飲んでいるから、寝る以外に解消することはない。 ナンプレもこれからの春休みで好きなだけできるわけだし、参考書も新年度までに読めばいい。何も焦ることはないと自分に言い聞かせ、こたつだけはきちんと切って、ソファでブランケットを被った。 その後、一時間強。夢など見ずにぐっすり眠りたかったのに、なんともはや、体は正直である。 最近、見て見ぬふりをして奥へ奥へと押し込んでいた、桃色の欲望。しかもなんだ、見てほしいってなんだ。遥は頭を抱えるしかない。そんなのない、そんな願望はない。なんかあれだ、あいつがやたらと意地悪したがるだけで。 兆したものがひくりと揺れる。知らないふりで押し通すにはちょっと無理のある反応だ。うう、と股座を押さえて座り込む情けなさよ。まごまごしているくらいならさっさと処理してしまえと思うのだが、酷にも時刻は四限終了の鐘が鳴ってから五分を過ぎた辺り。現在進行形で、湊はそれこそ世界を狙える速さで帰路を駆け抜けているのだろう。 なんてったって試験最終日である。華の金曜日どころの浮かれっぷりではない。晩餐に向けての買い物も昨日のうちに恐らく済ませて、試験でへとへとになった自分が家で寝ていることも折り込み済みで、さあ早くご飯を作って風呂を沸かしてあげなくっちゃ、と災害ボランティアをも凌ぐ勢いで奉仕の精神に燃えていることは容易に想像がつく。そりゃあもう、たった今まで取り組んでいた試験の内容などとうに頭から吹っ飛んで、何とは言わないが諸々の『してあげたい』欲一色の、今の遥にとってはたちの悪すぎる恋人が次の瞬間に玄関のドアを開け放っても何の不思議もないのだ。 (どうする…) この状態を見られた日にはもう、どんな言葉をかけられても慰めにはならない。確かにそう、無理して溜めていたのは自分の責任ではあるけれど、それだってずいぶん昔は必要なかったのだ。頻繁に――といっても世間では普通かもしれないが、定期的にアレを抜かなければならなくなった原因は奴にある。もちろん遥の預かり知らぬところで、そいつが直接的な要因となっているのは間違いないので嘘ではない。 (とりあえず寝ておくか) 外出できないのだから、家の中でフラグを踏まないようにするしかない。一番いいのは即行でトイレに入って処理してしまうことなのだが、彼に不審がられないくらいの短時間で行える自信は残念ながらなかった。入浴もちらっと考えたが、知った途端に颯爽と浴室に乗り込んでくることは猿でもわかるだろう。ともかく、布団に潜り込んでしまえば会話もしなくて済むし、疲れているから寝させろと言えば部屋から追い払うこともできる。 贅沢空間の演出に買ってくれた家電を軒並み切って、遥はリビングを脱した。自室に滑り込んだ時、ただいまぁ!と嬉しそうな一声が聞こえて慌ててベッドを這っていく。とはいえ最初はリビングに向かうだろう。焦った様子を見られては元も子もないので、呼吸を落ち着けつつ毛布をかぶる。 「……あれぇ?寝てんのかな」 廊下に響く独り言。どくどくと心臓が嫌な音を立てる。何も殺されるわけではないし、かなりの恥をかく程度で済むと言えば済むのだが、『しばらくはしたくない』と言った手前、こちらにもそれなりの矜持はある。深呼吸を繰り返していると、とんとんとドアをノックされた。黙っていると勝手にドアが開けられる。 「寝てんの?…あ、もしかして起こしちゃった?」 てくてくと何の衒いもなく近づいてきた湊に背中を見せるように寝返りを打って、遥は至極迷惑そうにしっしっと手を振った。 「うるさい。出てけ」 思いの外ふわふわした声になってしまったが、むしろ寝ぼけている感じが出たのではないか。湊も特に疑う様子はなく、仕方ないなという笑みで軽く髪を撫でるだけに留めた。 「はいはい。ゆっくりお休み」 遥の考え通り、湊はあっさりと部屋を辞してくれた。奉仕精神万歳。きっちりドアが閉まる音を聞いてから、遥はほっと胸を撫で下ろす。緊張もあってか、今のやり取りで脚の間のものはまぁまぁ収まってくれた。このまま本当に眠ってしまえば落ち着くかもしれない。無論、余計な夢を見ないという条件でだが。 眠りやすい体勢を取ろうと、毛布の中でもぞりと身動ぐ。その時。 (ん……?) 肩の下に固い何かがあるようだ。浮かせて手で探ると、こつりとプラスチックのような小さなものに指先が触れる。恐る恐る摘まみ上げて、相貌の位置まで持ってきた。どこにでもありそうな、水色の四つ穴ボタンだ。ボタンとしてはまぁ大きめではある。 (このボタン…どこかで……) 数秒考えてから、遥はゆっくりと体を起こした。ドアに隙間を空けて、リビングのほうからカチャカチャと調理の音が聞こえると、ドアをすり抜けて素早く隣の部屋へ飛び込む。試験期間というのもあって、普段から程々に汚い室内はさらに散らかっている。う、と遥は嫌な顔をしつつ、ベッドに放られていた寝間着を掴み上げた。 (やっぱり…) 前開きのパジャマに付いているボタンと一致した。ついでに、一番下のボタンが取れていることも確認する。ベッドにパジャマを投げつけて戻し、自分も部屋へ帰りながら遥は思案を巡らせた。 (おかしい…) あんなもの、昨日はなかったはずだ。正確に言うと、寝る前。その時気づかなかったとしても、昨日は時間があったので、昼間に布団掃除機をかけていたのだ。ボタンが落ちたのは確実にその後ということになる。しかも、パジャマとくれば入浴後から早朝までに限られるだろう。その間、遥の知る限りで湊が入室してきたことはなかったはずだ。しかもしかも、ベッドの枕元という偶然落ちるとは思えないような場所で。きゅ、と遥の眉間に深くシワが刻まれる。 ↑main ×
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