「その調子だと、お昼もまだだろ? 長期戦になりそうだし、しっかり食べておきなよ」

どうやら中身は湊お手製の弁当らしい。昼食はもともと凌也の家で何か作る予定だったし、こちらへ来てからはそれこそ食事どころではなかったので、これなら行きの電車の中で食べられる。凌也と連絡が取れず、こうなったら地元に向かうしかないとかりんが決めてから、せっせとこしらえてくれていたのだろう。

「わぁ、ありがとうございます。助かります」

餞別とはいえ、なんだか至れり尽くせりだ。と、思う間もなく、携帯で何やら会話していた翼がこちらを振り返った。

「迎えが来た。駅まで行くぞ」

「ええっ!」

少しでも早く出発できるよう、翼は車を手配していたらしい。驚くかりんに、佳奈子は精一杯のエールを送った。

「頑張ってね、かりんちゃん。負けちゃだめよ」

その相手は凌也でもなく、お見合い相手でもない。他ならぬ自分だ。
はい、とかりんはしっかり頷いた。

「皆さん、お世話になりました。どうなるかはわかりませんけど…先輩に会って、確かめてきます」

「行ってらっしゃい」と湊。

「変な遠慮はするな」と遥。

なんとも対極な反応だが、どちらとも思いやりが感じられる。自分たちとは少し違うけれど、こんなふうになれたらいいな、とかりんは思った。



「着いた…」

バスを降りて歩くこと五分。重厚な石造りの門構えを見上げ、かりんはほっと息をつく。早く着けるようにとめったに乗らない新幹線を使ったのだが、湊と遥のアパートを出たのが昼過ぎというのもあって、既に辺りは夕闇に包まれていた。ひゅう、と心もとない肌を掠めていく風が冷たい。

「…よし」

きゅっと覚悟を固めてから、今にものしかかって来そうな瓦の下をくぐり抜けていく。石がはめ込まれた小路を渡り、格子の引き戸の前で立ち止まる。目線の高さにあるインターホンを鳴らして待ったものの、中からの応答はない。

「…あれ?」

首を捻ってから、はっと思い当たる。今まさに、凌也と彼の両親はどこかで食事会をしているのではないだろうか。見合いというイメージから何となく昼食かと思っていたが、手紙にそんなことは書かれていなかった。凌也の父の車がすぐ隣に停めてあるのも相まって、てっきり在宅していると思い込んでいたのだ。

(今頃、何してるんだろう…)

相手の両親がセッティングした席ならば、凌也だっていつものように不機嫌を表に出すようなことはしないはずだ。あの写真で見た、素敵な女性と談笑しているのか。ズキリと少しばかり胸が痛む。

(仕方ないよね…)

それを阻止するために来たのではないし、凌也に会えればそれで満足なのだ。しばらく時間をつぶしていればそのうち帰ってくるだろう。今夜泊まる旨を叔母に連絡するために、携帯を取り出しかけたその時。背後から聞き覚えのある女性の声がした。

「かりんさん?」

透き通った声音に驚いて振り向くと、そこにはセーラー服姿の女の子が不思議そうな顔で佇んでいた。かりんはにこりと微笑む。

「こんばんは、さっちゃん。久しぶりだね」

さっちゃんと呼ばれた少女はふっと表情を落ち着かせ、ぺこりとかりんに会釈をした。彼女は守山紗千、かりんもよく知る凌也の妹である。土曜の夕方に帰宅ということは、きっと部活だったのだろう。

「お久しぶりです。…兄は今朝こちらへ戻りましたが、かりんさんもいらっしゃっていたのですね。我が家に何かご用でしょうか」

「えっと…用事があるってほどじゃないんだけど…」

淡々と問いかけられると、ただ会いに来たとは言い難い。しかもこの時間帯だ、紗千が訝しむのも無理はない。
それでも、先輩に話したいことがある、と小さな声で伝えると、紗千は困ったように口を開いた。

「でしたら、申し訳ありませんが今日はお引き取り下さい。両親も兄も戻ってくるとは思いますが、もしかしたらお客様もいらっしゃるかもしれませんから」

「それって……お見合いだから?」

沈んだ声でかりんが尋ねれば、紗千はすっと目を細めた。

「ご存じでしたか」

「うん……ごめんね。先輩から、直接聞いたわけじゃないんだけど…」

なるほど、と紗千は納得する。詳細を知っていたら、わざわざこんな時間には赴かないはずだ。紗千は形のいい唇を動かした。

「兄は両親と会食に行っています。場所は…確か、天帝と聞きました」

「んーと…ごめん、それってどこ?」

目をぱちくりさせたかりんに、紗千は特にリアクションを示さず続ける。

「少し遠いので私もあまり存じていませんが、有名な料亭だそうです」

「へ、へぇー…」

何となくだが、庶民に縁遠い場所であることはかりんにもわかった。将来、いい給与を得たとしてもきっと自分は行かないだろう。

「…かりんさん」

「ん? なに?」

かつかつとローファーの踵を鳴らし、紗千は門をくぐって玄関へ近づいてくる。ほぼ同じ高さの目線で対峙すると、凌也に似た漆黒の瞳が自分を覗き込む。紗千は改まって口を開いた。

「…いい機会ですし、かりんさんとはお話したいことがあります。どうぞ」

鍵を開け、ガラガラと引き戸を開けた先に紗千が向かう。告げられた言葉に驚きつつ、かりんも後に続いて靴を脱いだ。磨かれた檜の廊下を進み、中庭に面した客間へ案内される。鯉が巡る丸池や手入れの行き届いた季節の草花を、外の灯篭がぼんやりと照らしている。風流な景色を一瞥してから、かりんは客間の座布団に腰を下ろした。
紗千は石油ストーブの火をつけ、障子を閉めて廊下と部屋とを区切る。

「すみません、着替えてきますので少々お待ち下さい」

「あっ、うん」

制服のままでは居心地が悪いのだろうか。紗千は奥の襖を開けて部屋を出ていった。

(懐かしいなぁ…)

ぐるりと客間を見渡して、かりんはふっと息をつく。昔はよく、放課後や休日を凌也とこの部屋で過ごしたものだ。宿題を教わったり、パソコンでゲームをしたり。広い故に、家の中はもちろん、庭を探検するのも飽きなかった。品のいい畳を撫でながら、そんなことを思い出す。

「お待たせしました」

「あ、お帰り」

膝丈のワンピースをまとった紗千は、茶と菓子を乗せた盆を持って戻ってきた。もしかしたら着替えてくるという名目で気を遣わせてしまったのかと、かりんは少し申し訳なく思った。
壁にかかった時計は、六時半を過ぎた頃だ。

「お茶、ありがとう。頂きます。……先輩、まだ帰ってこないよね」

そうですね、と紗千は向かいに座ってから頷く。

「兄とお相手の方はわかりませんが、両親は楽しみにしていましたから。八神様は、父の大事な友人だそうです」

「あ、そうだよね。お友達、なんだっけ…」

確か、手紙にもそんなことが書かれていた。かりんはまた、こくりと茶を一口飲んでから続けた。

「さっちゃんは、八神さんのご一家に会ったことあるの?」

ええ、と紗千は曖昧に頷いた。

「一応は、そうですね。昔、あちらのお宅を訪問したことがあるそうですが…私は幼かったので鮮明には覚えていません」

「そっか…」

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