・湊視点


夜、十一時。
並んでソファにもたれたまま、薄いブランケットを纏う体をそっと抱き寄せる。反応は特にない。とろんとした瞳はまだニュース番組に向いていた。ねぇ、こっち見てよ、と甘えるように髪を掻き混ぜたら、こてんと頭がこちら側へ傾ぐ。撫でられているのが気持ちいいのか、すりすりと肩へ寄せられる頬にきゅんと胸が鳴る。湯上がりで紅潮したほっぺにかぶりつきたい。細い髪を散らしたうなじに吸い付きたい。肌を暴いて、一番深い場所に触れたい。即座に本能が芽吹く。
これはいけるかもしれない。今日こそ、今夜こそきっと――。

「眠い…」

「ごふっ」

どつかれた脇腹を押さえて目を剥いた。
嘘だ。嘘だろ。今めちゃくちゃいい雰囲気だったろ。二人とも風呂上がりのいい匂いで、何となく離れがたくてテレビ見ながらスキンシップして、さぁこのまま熱い夜を楽しもうって感じだったろ。なのに殴るのか。殴るのか!

「もう寝る…」

ふわぁ、と俯いて欠伸を噛み殺すと、恋人はすっくり腰を上げてペタペタスリッパを鳴らしていく。俺は慌てて後を追った。

「ちょっ!な、なぁ、俺の部屋で寝――」

「………」

無言で振り返ってきた恋人の言わんとしていることは、疑心に溢れた目を見ればわかる。
『どうせ寝かさないくせに』だ。そしてそれも嘘にする気はない。俺は寝かす気なんて毛頭ないし絶対に寝かさない。だからといってここで騙すのは卑怯なのでぐっと押し黙るしかない。
深くため息をついた恋人は、去り際にいつもの一言を放った。

「寒い」

料亭の主がさっと暖簾をしまうように、くるりと後ろ姿を見せて遥は自室へ向かってしまった。

「なんでだよぉ………」

残された俺はがっくりと肩を落とす他ない。だってそうだろう。途中までは完璧なシナリオだったのに、こんなラストがあってたまるものか。今日もだめ、と脳内日記に正の字が一画足される。通常なら、その字は多くとも二個程度で収まる代物だ。今は倍近くになってるけど。

『明日の天気予報をお伝えします。明日は寒さがいっそう厳しくなり、最高気温は今日より二度ほど下がるでしょう』

「えぇ…」

温もりの消えたソファに掛け直すと、ニュースを終えたキャスターがさらに絶望を投げつけてきた。あぁ、と額を押さえつつスマホを力なく操作する。無料電話は割とすぐに繋がった。

「俺死ぬかも」

『かもねー。明日また寒くなるらしいし』

「それ今聞いた」

カップラーメンでも食べてるのか、電話越しからずるずると汚い音がして僅かに耳を離す。が、この不満を聞いてもらわないうちは収まりがつかない。

『また断られたの?遥ちゃんに』

返事の代わりに、俺の口からはため息が漏れる。テレビはもう次のバラエティにシフトしていた。

『直球すぎんじゃないの?「えっちしてよ遥ぁ、ハァハァいい匂い」とかって発情期の犬みたいにじゃれついてたんでしょ』

「俺のことなんだと思ってんの…?うん…まぁ最初はそんな感じだったけど」

相変わらずの遠慮のない物言いに軽く心を抉られるけど、真っ向から否定できないのが悲しい。ていうかなんでわかるんだよ怖い。

「いや、でも今日はほら、いい感じのムードだったんだよ。風呂上がりであったかいまま引っ付いてさ、頭撫でたりすりすりしたり…で、いきなり『眠い』だよ。信じられるか?」

『信じられるわよ、そりゃ遥ちゃんだし』

違う、そこは同意じゃなくて否定がほしいんだ。

「俺がまだ何も言わないうちに脇腹ごりって肘で打って、もう寝るって出ていったんだぞ。ていうか今考えてみたらあの場面で『俺の部屋で寝よ』ってすがった俺馬鹿みたいじゃんああもうやだ死にたい」

『うわ、情けな』

すかさず呆れた声が飛んでくる。この時間にカップ麺啜ってる奴には言われたくなかった。

『てゆーかもう春が来るまで諦めたら?これから寒くなる一方じゃん』

「三月まで生きてられる気がしない…」

疲労のこもったもにょもにょした声で呟く。電話口からべしゃっと汁へダイブする音がした。こいつ米入れやがったよ。

『そもそもいつからだっけ?レスになったの』

「今月に入ってすぐだな。あれだ、最強寒波が来たあたり」

師走に入ったばかりの頃だった。かねてから『今年の冬は寒い』と様々なメディアで報じられていた予想が、まさに的中したのだ。列島を渦巻く前線の本数たるや、コートはもちろん、ヒートテックが、マフラーが、手袋が手放せなくなる。大学と家の往復さえもがつらく、俺に関してはバイトだの買い物だのがあるため防寒は欠かせない。まぁ、そこまで寒さに弱い体じゃないし、動けば温かくはなるから、路面の凍結にさえ気をつけていれば走ることもできる。ところが、遥はそうもいかなかった。
元来インドアで出不精な恋人は、大学こそ持ち前の知的好奇心を振り絞ってどうにか通っているが、その他の外出はもちろん、通学ついでの散歩や遊びにさえ出歩くことはなかった。講義が終わればとっとと帰宅し、あとは家のこたつでぬくぬくと趣味に耽る。適度に食事をとり、適度に勉強して、入浴後も体が冷えないうちに布団へ入り、ぬくぬくと朝まで眠る。この繰り返しだ。俺はというと、早起きして朝食を準備しながら部屋を暖めたり、もふもふのブランケットを買ってあげたり、湯たんぽを毛布に突っ込んだりと甲斐甲斐しく世話を焼いている。大好きな人に尽くすのは好きだし、それはそれで楽しい。けれど――実際は、それだけで満たされるようなかわいい欲ばかりじゃない。
好きだから触れたいと思う。甘く蕩けた顔も見たいし、べったりねだる声も聞きたい。身も心も全部俺しか感じられなくなるくらい、いっぱいいっぱいにしたい。冬だからこそ、あっためてあげたいしあっためてほしい。

寝巻きの上から、華奢な体をぎゅっと抱き締めて。しよ?って耳元で囁けば、一応の抵抗はするけどたいがいは折れてくれた。だからあの日も耳に唇を寄せたのに。

『寒い。もう寝る』

俺が口を開く前に、ぷいっと顔を背けて遥は言った。照れてるのかなぁ、なんて淡い気持ちは全力で振り解かれた腕で萎んだ。俺は目を瞠る。

『うそぉ!えっ、具合でも悪い…?』

『うるさい。眠いから寝かせろ…』

こしこしとかわいく目元を擦りながら。微妙にズレた答えを寄越して、呆気なく横を通り過ぎていく恋人。ま、まぁ、タイミングが悪かったんだよ、そう。
その時はそんなふうに納得していた。その時は。

『お風呂ですればいいんじゃないの?始末も楽だしあったかいじゃない』

「試したよもちろん。…一緒には入らせてくれるんだけどさ、ちょっとでも手が逸れるとすげー睨んでくんの。あれは照れてるんじゃなくて本気で嫌がってる」

体を洗うついでに、泡のついた手を足の間に入り込ませ――る前にラリアットが飛んできた。喉仏が鈍い音で潰されかけて、俺は半泣きになりつつ手を引っ込めた。悲しすぎる。そこにルシがとんでもない一言を放つ。

『じゃ、単に嫌われたんでしょ』

「違うううう!それはない、絶対ないっ」

『だって、いくら寒いからってずっと拒むのも変じゃない?あんたとくっつきたくないっていうなら納得できるけど』

「できるわけねーだろーがぁぁ!だいたいっ、それなら風呂だって一緒に入らないだろ!」

『んー…同情で?』

同情されるほど哀れに見えたんだろうか。普段は気にも留めないけど、一応これでも外へ出れば女の子がちらちら振り向いてくるくらいには困ってないんだよ、そういうことには。肝心の恋人は少しも甘えさせてくれないけど。

「あぁ……」

だんだん落ち込みがひどくなってきた。本当に寒いだけが理由なのかな。春になったらまた睦み合ってくれるのかな。ルシの言う通り、触れられたくもないほど嫌われてたらどうしよう。十数分前、このソファに二人で寄り添っていた時は幸せだと思えたのに。

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