・例のセーター。遥が微妙に頭のゆるい団地妻


『毎度ご贔屓に!米屋でーす!』

インターフォンに応答したモニターがぱっと明るくなり、キャップを被った眼鏡の女性が映される。リビングでクイックルワイパーをかけていた遥は壁にそれを立て掛けると、タンスの抽斗から『米』と書かれた封筒を手に玄関へ躍り出た。鍵を回してドアを開ければ、いつもの米屋、成島佳奈子が米袋を担いだまま笑いかけてきた。少し息が荒い。ここはマンションの四階だが、まさか階段で来たのだろうか。

「よっ、と」

「…ご苦労様です」

ドアを体で押し開け、佳奈子は上がり框にどさりと米袋を下ろす。指で封筒を押し開けて中身を確認し、遥は大して笑いもせずに佳奈子へ金を差し出した。銀行員みたいに達者な数え方で、はぁい確かに、と佳奈子は封筒ごとポケットヘ捩じ込んでいく。

「ふふー、奥さんはいつも美人ですねぇ。旦那が羨ましー」

「…それほどでも」

彼女のリップサービス――驚くべきことに本心らしいが、それにも逐一反応せず、遥はついと視線を逸らして謙遜する。佳奈子は気にした風もなく、口許をそっと遥の方へ寄せてきた。

「と、こ、ろ、で。日頃のお礼と言っては何ですけどぉ、今日はちょっと変わったものを持ってきたんですよ」

「…五穀米?」

「あ、それは今度持ってきますね。食べ物ではないんですけど、よかったら奥さんにどうかなーと思って」

こんな態度で接してはいるが、愛嬌のあるこの米屋を遥はそれなりに気に入っていた。口下手な自分と違って話題も豊富で、もちろんサービスもいい。以前に試供品としてもらった五穀米は味も腹持ちも申し分ないものだった。旦那も好んでいたようなので、少しなら分けてもらおうと思ったのだが。

「食べ物じゃない…?」

首を捻る遥に、佳奈子は内緒話をするように両手でラッパを作った。

「ところで奥さん。旦那さんとうまくいってます?」

「は……?」

にやぁ、と米屋が頬を照らせて好色な笑みを浮かべる。

「結婚三年目でしょ?三年って結構節目の年でしてね、多いんですよぉ」

「?何が」

両手の人差し指をぴたりとくっつけた佳奈子が、しょんぼりした顔でぱっとその指同士を離す。

「り、こ、ん」

「!」

「三年目の浮気って言うでしょお?下世話な話かもしれませんけど、ずっと仲睦まじくあるにはお互いの努力が欠かせませんよ?…主に、夜の方で」

う、と言葉に詰まった遥が視線を床のタイルに落とすと、にやにや笑いに戻った佳奈子が背中からごそごそと包みを取り出す。

「ってことで、ささやかですけどあたしからの応援でーす。使う使わないは奥さん次第ってことで。じゃっ、再来週は五穀米持ってきますんで!」

「っおい!待て…っ」

ラッピングされた柔らかいものを遥の胸に押し付けるや否や、佳奈子はひらりと手を振って部屋を後にした。バタンと味気なく閉まるドア。
うなだれた遥は玄関先に胡座をかいて座り込み、包みのリボンを解き出す。包装紙を留めたテープを剥がす。どうやら衣類のようだ。さらりとニットの生地を撫でる。グレーのセーターか何かだろうか、という遥の予想は半分当たっていた。あくまで半分だが。

「!なっ、んだこれ…っ」

◆◇◆

「ただいまー」

夕暮れ時。
革靴を子供のようにぽいぽいと脱ぎ捨てて、旦那が帰宅した。ちゃんと靴を揃えろ、と玄関先で叱るとへらへら笑いながらごめんと謝ってしゃがみ込む。時々こいつは怒られるためにわざとやっているんじゃないか、とさえ思う。それくらい旦那は嫁にデレデレだった。
すらりと伸びた身長。甘いルックスに、柔らかな物腰。今日はそのスーツ姿で何人に押印させてきたのだろう。ノルマなど何のその、未だに月間成績は課でトップらしい。彼は大手商社の営業マンであった。

「ねー、お帰りのちゅーは?ちゅーは?」

「っ、うるさい。さっさと飯作れ」

正面からぎゅうと抱き込んでくる腕の中でもがく。玄関先でこんな台詞を堂々と吐いて、恥ずかしくないのだろうか。社宅でないことが救いだが、同じ会社の面々が何人か近所に住んでいるのは知っている。聞かれたらたまったもんじゃない。

(よく考えたら、こいつが浮気なんてするわけないだろ…)

新婚でもないくせに、恥じらいもなくキスをねだってくるような男だ。今更他の女に簡単に惚れるとは思えない。ふぅ、と遥は安堵のため息をつく。

「……ん」

「!」

自ら唇を合わせにいく度胸はない。やや上向いて、つんと唇を突き出してやるだけ。それでも彼はぴょいと軽く跳ね、へにゃっとだらしなく緩んだ顔を近づけてきた。ちゅ、と小さな音を立てて触れる唇。

「へへ…」

「…腹減った」

照れたように髪を掻く湊にさっと背を向け、遥は精一杯つまらなさそうな声を零してリビングへ闊歩していく。赤らんでいるような気がする耳元は、さりげなく癖毛で隠しておいた。鞄を手に、後からぱたぱたと湊が追ってくる。

「寄越せ」

「え?あっ、ありがと」

鞄をひったくるように奪い、仕事部屋――二人の共用の書斎だが、入口に近い場所へ置いてくる。明日は仕事も休みだからここでいいだろう。リビングに戻り、脱いだジャケットを預かってハンガーに掛けてやる。旦那は嬉しそうだったが、こいつに任せておくとソファへ放ったまますぐ皺にするのだ。親切心からの行いではなかったものの、喜んでいるのでまぁいい。

「さぁて、ご飯にしようかな」

ワイシャツの上から黒のエプロンを纏い、湊は腕まくりをしてキッチンへ向かう。昼間は家に居る遥がほとんどの家事を請け負っているが、料理だけは元より不得手で、しかも上達が極端に遅かった。たまに時間をかけて夕食を作ることもあったが、多くはこうして旦那が腕を振るってくれるのだ。彼はもともと人に、特に恋人やパートナーには奉仕を通り越して貢ぐレベルで『何かしてあげたい』サービス精神の塊みたいな奴で、料理は仕事の息抜きにもちょうどいいらしかった。
程なくして、リズミカルに食材を刻む音が溢れる。遥もその間、テーブルを拭いたり食器を運んだりと妻らしく補佐に回る。やがて食卓を彩る赤色。遥の好物のひとつ、鶏肉のトマト煮込みだ。そこへサラダなんかの副菜が並び、汁物と白米も添えられる。

「頂きます」

「…頂きます」

二人で仲良く手を合わせ、色違いの箸を取る。テレビで今日のニュースを眺めながら、美味しいものを共有するひととき。結婚以来、むしろそれ以前からも喧嘩は絶えなかったが、その分幸せだって人並み以上のものを築いてきたと今では胸を張って言える。片時も外したことのない、薬指のシルバーリングがその証だ。

「ん、そうだ。来月昇進することになってさ」

忙しなく口を動かしていた湊は、缶ビールを煽ってから何気なく告げてきた。ぱっと遥は眼鏡の奥で瞳を見開く。

「…ふうん」

おめでとうとか、凄いとか。素直に彼を褒める言葉はなかなか出てこない。こんな時までへそ曲がりな自分が心底嫌になる。

「褒めて褒めてー」

彼は対照的に、罪のない笑顔で素直に甘えてきた。もう長い付き合いだ、自分の心くらい見抜いているのだろう。屈託のない表情にきゅっと胸の高鳴りを覚えつつ、遥は手を伸ばしてぐりぐり頭を撫でてやった。格好よくセットした髪がぐしゃぐしゃになっても尚、彼は嬉しそうに手に擦り寄ってくる。どれだけ妻に甘いのか。
ひとしきり掻き回してから、遥は鶏肉をぱくりと口に収めた。とろりと溶けたチーズはもちろん、加熱されたトマトの酸味がマイルドで食べやすい。

「今度ボーナス出たら旅行しよっか」

「夏だろ」

「ぎりぎり初夏じゃない?日本海見に行こうよ」

「そんな暇あるのか」

「これでも有休溜まってるんだって。二泊三日なら余裕」

「…魚」

「魚ね、魚。昼は寿司か海鮮丼だな」

「夜は…」

「刺身に酒…がいいけど、海鮮焼きも惹かれる。あっ、水族館行こう。好きだろ?」

あれこれと楽しそうにプランを捏ねる旦那へ相槌を打ちつつ、近いうちに旅行雑誌を買ってこよう、と遥は密かに決意した。




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