・声が出ない遥の話


「………」

「あれ!珍しいな、自分で起きてくるなんて。体調どうだ?」

とある月曜の朝。
寝間着に祖母手作りの半纏を羽織った遥がリビングに現れると、湊は僅かに目を見張って近づいてきた。キッチンから魚の焼ける匂いが漂ってくるが、朝の食卓は粗方できあがっていた。

「…」

遥は小さくため息をついて――そっと、自分の喉元を押さえた。察しのいい湊は途端に苦笑いだ。

「あぁ……なるほど」



それから約一時間後、大学にて。
授業開始を五分後に控えた大教室は、月曜の朝一とあって沈んでいた。ただひたすらに黒板と向き合うだけの教授の講義など、手を痛めてまで出席する価値は果たしてあるのか。そんな屁理屈を携えた学生たちは無論この場にはいない。淡々と、あるいは津々と勉学に励む数学科の生徒たちは今日も眠気をこらえて教授を待つ。

「はぁ、それで声が出ねーわけだな?」

荷物を置いた席を挟んで、隣の榛は遥に向き直った。彼、もとい榛は、遥にとって唯一の同学科の友人である。気さくな雰囲気は湊に似るものがあり、ちょっとした縁からこうした講義や食事を共にするようになった。
湊は未だに彼が気に入らないらしく、嫉妬以外の理由を尋ねたところ『イケメンだからムカつく』という取りつく島もない返事が寄越された。同族嫌悪というやつかもしれない。

「そういや金曜も咳してたよな。土日寝込んでたんだろ?」

榛の察する通りだ。この頃の寒暖差にすっかりやられた遥は、今の今までぐったりと床に臥していた。先週の金曜から風邪の兆候は現れ始め、土曜に咳喉鼻炎高熱と四拍子揃ったピークを迎えた。バイトをあっさりと無かったことにした湊の献身的な――残念ながら比喩ではない――看病のおかげで日曜の夕方には熱も下がり、各々の症状もかなり和らいだ。これならば明日から大学にも行けるだろうと、快癒を喜んでいたのも束の間。今朝、ぬくぬくとした布団を未練がましく這い出た遥は絶句した。いや、絶句する他なかった。吐息は空気をさらさらと掠めるばかりで、全く音にならないのである。喉の痛みは昨夜に比べれば引いたものの、使い物にならないのでは意味がない。しかし。

――別に、困ることなんてないだろ。

元来自分は決してお喋りなほうではない。実家に住んでいた頃は一言も言葉を発しない日もざらにあった。今でさえ、湊との会話がyes/noで済むこともしばしば。講義での発言や発表の必要がなければ、特に不便とは思わなかった。偶然だろうが、そんな気持ちを掬ったように榛が陽気に笑う。

「もし指名であてられた時は俺代わりに言ってやるよ。出欠は大丈夫だな、カードだし」

――助かる。

礼のつもりで頷くと、タイミングよく始業のブザーが鳴る。病み上がりとはいえ、それを理由に勉強を疎かにするのは自分が許さない。くるりと回したペンを握り、遥は黒板と対峙した。



「ええ!遥ちゃん、声出ないの?そっかぁ」

食堂にて、佳奈子の残念そうな声が響く。彼女のトレーは、AかBかは曖昧だがその辺りの日替わり定食だろうか。珍しく煮魚を食べている。
それにしても何がそんなに残念なのだろう。自分と会話できないことに対してだとしたら、彼女はつくづく奇特な人物だと遥は思う。そうだ、と佳奈子は手持ちのバッグをがさがさやり始めた。

「はい、これ。もう遅いかもしれないけど、喉にはいいはずだから」

――飴か。

差し出されたのは個包装の飴玉。かの有名な蜂蜜金柑なんたらだ。甘みは容易に想像できるが、これは物より気持ちの問題だろう。ありがとう、と口だけで言ってみたが、佳奈子には伝わったようだ。早く治るといいね!と鯖にかぶりついていた。遥はきつねうどんをゆっくりとすする。

「しかし、風邪とは災難だったな。最近は朝方が冷えるからな、注意したまえよ」

――………。

翼がそっと手渡してきたのは貼るタイプのカイロ。発言とは微妙にズレているものの、彼が心配してくれていることはわかる。いやに庶民的なそれを受け取り、ぱくぱくとまた礼を告げた。風邪自体はもう治りかけだというのに、何だかもらってばかりだ。

「そういえば小宮の姿が見えんが?」

AかBか、佳奈子と違う定食をこちらも食しながら翼がふと呟く。事情は遥も知っているが、佳奈子には任せた方が早い。

「あいつなら、午後休講になったからって帰ったわよ。遥ちゃんは四コマまで授業あるから、その頃に迎えに来るって」

「ふうん、それは律儀なことだ。私の車で家まで送ってやるというのに」

――家で待ってればいいだろ…。

道中何があるかわからないから、と要人の護衛みたいなことを言う。もちろん病み上がりの自分を労って、というのはわかるが、自分自身を省みない彼の性格はどうにかならないのだろうか。今だって、空いた時間を『彼なりに』有効活用しているに違いない。遥の布団を干したり、半纏のほつれを繕ったり、栄養たっぷりの食事を作るべく買い物に出たり――恐ろしいくらい手に取るようにわかってしまう。

そしてそれが想像と違わぬことを、やはり遥は思い知るのだった。
校門からアパートまでの完璧なエスコート。汗を散々吸ったはずのふかふかの布団。丁寧に縫われた半纏。ビタミンたんぱく質その他諸々が豊富に揃った消化の良い夕食。何もかもが予想通りで逆に安心してしまった。

――こいつは相変わらず…。

過保護か、あるいは心配性か。少々呆れつつも、大変湊らしくはあった。しかし。

――ん?

彼のシャツの袖口からちらりと覗く白いもの。紛れもなく、包帯のそれだ。遥は反射的に二の腕へ掴みかかった。

「った!なに……あ、それか…」

――怪我したのか…?

ゆっくりと視線を上げて問い掛けると、はは、と湊は気まずそうに苦笑を浮かべた。

「ちょっとね、ケンカになっちゃって。昼頃帰ろうとしたらさ、少し前に俺に告ってきた女の子の彼氏が――そう、彼氏いるのに告るってのがまずアレなんだけど、ともかく逆上した彼氏に胸倉掴まれてさ。そんで木に打ち付けられた時、表面の固い皮でざっくり切っちゃってな。周りがざわざわし始めて彼氏もそそくさ逃げたから、俺も帰って傷口消毒して…」

――そんな、馬鹿なことがあるか…!

ぎゅ、と袖を握り締めたまま、遥は唇を引き結んで湊を睨む。その彼氏とやらをむざむざ逃がしておいて、何故湊は笑っていられるのか。そもそもの原因は彼女との縺れにあるくせに、湊へ報復するとは自分勝手もいいところだ。その場にいたら罵詈雑言を――声は出せないが、どうにかして浴びせてやったのに。つくづく悔やまれる。

「え、あー…ごめんな。その、告白されたのはわざと黙ってたわけじゃなくて、」

――そうじゃない…っ。

どうやら湊は、遥の怒りの根源は自分にあると勘違いしているらしい。誤解を解くべくかぶりを振るが、ええぇどうしたら許してくれるんだ、とこれまた湊を困らせてしまう。意思の疎通がまるでなっていない。

――もし、声が出たら…。

お前は何も悪くない。
むしろそいつをぶん殴っても許された。
女のほうが無茶苦茶だ。
何で平気な顔してられるんだ。
…そして。

――怪我、大丈夫かって…言ってやれる…のか…?

悔しかった。
言葉などなくても、周りとのコミュニケーションにおいて必要性は感じなかった。少しくらい頷いてやれば大体の話は通じる。湊もそう、言いたいことなど端から全て汲み取ってくれる。自分から発するものなど、最初からなくても良かった。そのはずなのに。

――俺は、こいつに何もしてやれない…。

「はる――」

すがるものが欲しくて、目の前の体にぶつかっていく。しっかりと受け止められてから、痛々しい包帯をそっと手のひらで撫でた。こんな、こんな思いをしても、こいつは。

「…大丈夫だよ」

――こいつは、そうやって笑うんだ。

安心させるように逆側の手で髪を掻き混ぜられる。それに応えようと、遥も優しく傷痕を撫でていく。悔しさの覚めやらぬまま、なだめるような口づけをもらった。猛る思いを込めて噛み付きながら返したら、また嬉しそうに微笑んでいた。

――…もう、勝手にしろ。

呆れと共にふわりと霧散する怒り。何だかこっちが馬鹿みたいだ。幸せそうだから、まぁよしとするか。小さく吐息をついた、瞬間。

「―――ぁ…?」

唇からぽろりとこぼれ落ちた音はやや掠れていたが、拾った湊はぱっと破顔して遥を抱き締める。

「よかった!治ったんだな!」

「……ん」

鈍い声を絞り出して頷けば、労るようにそっと喉元を撫でられた。

「いいよ、まだ無理に出さなくても。ゆっくり治そう」

またかわいい声を聴かせてねと囁かれた遥は眉をひそめる。声にかわいいも何もあるかと。
負担をかければそれだけ治癒に時間がかかることは予想できたが、ようやく取り戻せたこの声だ。自身に愛着はなくとも、望まれたら捧げてやらないこともない。無くても同じと割り切っていた代物は、失ってから気づくものだ。

「   」

「…え?えっ、今何か言った?」

唇を結んだ遥はゆっくりとかぶりを振った。えぇ?と困惑した様子の湊は、懸命に唇の形を思い出そうとしている。

「なんか、う……い……あ?母音はそんな感じだよな?うーん…?」

――…聞こえなくていい。

音を乗せるにはまだ早い。経験、感情、自分の中のあらゆるものが不足しすぎている。そんな中途半端な気持ちを声にしたところで意味などない。

『愛してるよ、遥』

いつでも心に蘇る温かな声。形のないものにどうやって熱を込められるのか、不思議でならなかった。けれども。

――わかった気がする。こいつが、言葉にしたがる訳が…。


そっと目を閉じる。
しばらくしてから遠慮がちに触れてきた唇が、ひどく愛しかった。


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