「…………」 翌日。 ぬっと玄関の引き戸から現れた遥は、仏頂面はもとより全身から不機嫌オーラを放っていた。客が俺じゃなかったら逃げ出してるぞ。いや、ピンポン連打した時点でだいたい想像つくか。10回は押したし。 「帰れ」 地を這うような恐ろしい声に負けるわけにはいかない。別にまた喧嘩をしようってんじゃない。仲直りに来たんだから。 「帰らない。……ごめん、俺が悪かった。ちゃんと話すから、上がってもいいか?」 「………」 しばらくの逡巡の後、遥は扉を開けたままくるりと背を向けて階段へ向かっていく。仕方ないな、のサイン。俺もその後をおとなしくついていった。あれだけピンポン押しても業を煮やした遥しか出て来ないんだから、綾さんは不在だ。まだお盆前の平日だし、晶さんも仕事なのかな。階段を上がりながらそんなことを思う。 遥の部屋は珍しく散らかっていた。昨日帰ってきたばかりだからか、服や参考書がその辺に転がっている。遥がベッドを陣取ってしまったから、俺はちょいとそれらを片づけて床に腰を下ろした。ここまで走ってきたおかげで汗だくだ。遠慮なく扇風機の前に座らせてもらう。 「…曖昧にしててごめんな。一緒に映画観るの、ほんとに楽しみにしてたんだ。それだけは信じて」 「うるさい。反故にした奴がえらそうに言うな」 尊大な態度を取る割には居心地が悪そうだ。俺の電話は全て無視されてきたけど、俺も遥も喧嘩の時は最後まで意地を張りきれないタイプだから、少し罪悪感を覚えているのかもしれない。いいんだよ、悪いのは俺なんだから。 「…実は、優太の約束っていうのは――」 凪のこと、凪の両親のこと。 プールに行ったこと、凪が泣いて訴えたこと。 俺は昨日のことを一から全部話した。喧嘩と仲直りのくだりで遥は僅かに瞬きを多くしたけど、俺が話している間はうつむいたまま黙っていた。 「凪のこと、放っておけなかったんだ。優太もすごくつらかったと思うし。…でも、遥がどうでもよかったわけじゃない。ほんとは映画もデートもしたかった。テスト中、ずっと我慢してたんだから」 「…プールなんか、その日じゃなくてもよかっただろ」 遥が初めて口を開いた。きつい口調だったけど、それよりも泣きそうな顔をしていることのほうが俺にはこたえた。 「ううん。…昨日は、結婚記念日だったんだって」 ああ見えてマメな凪は、毎年何かしらのプレゼントを両親に贈っていたという。だから、二人には何としてでもその日を思い出してもらって、仲直りをしてもらう必要があった。お揃いのプレゼントを身につけて、これからもよろしく、などとはにかんでほしかったのだ。プールを相談場所に選んだのは優太だったらしい。なぎちゃんはプールが好きだから、心から楽しんでくれればきっと気持ちも軽くなる。そういうことだったと。 「――何で、今まで言わなかった」 つらそうに眉を寄せて、遥はベッドからするりと下りる。子供みたいに床にぺしょんと座り込んで、俺をきっと睨み付けた。 わかってたよ。遥は優しいから、俺が最初から全てを話していれば、渋々ながらも折れてくれたと思うんだ。遥が一番怒ってるのは、約束を反故にしたことじゃない。俺が事情を隠していたことだ。 「…心配、かけたくなかったんだ」 俺は咄嗟にそう告げた。嘘だけど、嘘じゃなかった。遥が知ったら、きっと遥もあれこれ悩むだろう。大人として、凪に何を言えば、何をすればいいのか。精神的にあまり丈夫とは言えない恋人を、巻き込みたくはなかった。そう思ったことは事実なんだから。 「嘘つけ」 ひたり、と眼鏡越しの瞳に見据えられて、俺は動けなくなった。はったりなんかじゃない。遥は、俺のフェイクを即座に見破ったんだ。驚いたままでいると、遥はぐっと拳を握りしめて言った。 「お前はただ、弱みを見せたくなかっただけだろ」 「え……?」 ――どうして、わかった? 思わずはっと見開いた目には、きっと涙を浮かべた恋人が映っている。遥はそれさえ拭わずに叫んだ。 「いつもそうだ…。俺には散々…悩むな、頼れ…って、言っておいて……!」 ――なんだ、バレてたのか。 ふ、と諦めに似た笑みがこぼれる。でも、もう隠さなくていいんだ。心がすっと軽くなる。 「うん…。お前の、言う通りだ」 ゆっくりと華奢な体を抱き締めて、濡れた頬にキスを落とす。何も、遥が泣くことはないのに。 「怖かったんだ、俺。もし、凪の両親が和解できなくて、ばらばらになっちゃって、凪や遥や優太が悲しんで。それも不安としてはあったんだけど、何よりーー自分が、壊れるんじゃないかって」 抱いた体は思ったより温かい。触れた頬は冷たいけど、俺が火照ってるからちょうどいいかもしれない。 「昔…優太が生まれる前の話、したっけ…?」 「…アパートに、住んでたんだろ」 「そう。こじんまりした、築何十年の古いところ。トイレは外だったなぁ。冬、寒かった」 背中をそっと撫でる手。そんなに優しくされたら、俺もどうにかなりそうだ。 「俺の親って、若い時に二人で地元を飛び出してきたんだ。いわゆる駆け落ちってやつ。その時にはもうお腹に俺がいて、ほとんど勘当だったって聞いた。当然お金もなくてさ。…でも、それなりに幸せだったんだよ」 狭い部屋に川の字で寝たり、気のいい大家さんからおやつをもらったり。貧しかったけど、両親が笑っていてくれるだけでよかった。 「…いつだったかな。一度だけ、すごい大喧嘩したんだ。暴力こそなかったけど、家中の物が壊れまくって、出ていってやるとか離婚してやるとか、そればっかり怒鳴り合って。…今でも、思い出すと怖くなる」 ぎゅう、と遥の腕が背中を抱いた。震えてるのに、一生懸命俺を離さないでいてくれてる。 「公園まで逃げて、その夜は結局草むらで寝たんだ。朝になって、腹が減ったからこわごわ帰ったら、母さんが泣きながら俺のこと抱き締めてくれてさ。ごめんねって、二人して大泣きしてるんだ。俺も大泣きして怒鳴ったよ」 母さんの馬鹿、父さんの馬鹿、って。今なら殴られるだろうな、あの気性の荒さだから。でも今くらい威勢がいいほうが母さんらしいし、それに負けちゃう父さんもしっくりくる。そう言うと、遥はゆっくりと頷いた。 「こんな話するの、フェアじゃないと思うよ。遥、許しちゃうだろ。もっと怒っていいのに」 「…そこまで、心が狭くはない」 「わかってる。だから、もう一回ちゃんと怒ってほしいんだ。そういうこと、隠すなって」 ほんとはね、言おうか迷ったんだ。遥なら受け止めてくれるかもしれないって気持ちもなくはなかった。けど、言えなかったのはやっぱり『遥に守られるわけにはいかない』っていうつまらないプライドがあったからなんだろうな。馬鹿だな、恋人は対等でなくちゃいけないのに。 ぺしん、と軽く頬を叩かれる。本当に軽く。 「少しは、頼れ」 台詞だけなら随分と男前だ。いや、そうやって甘く見てるからこんなことになったのか。遥は、もう俺に守られてるばかりじゃない。俺だって、もうひとりきりで歩いて行かなくていいんだ。 「……はい」 素直に頷いたら、優しく頬に口づけられて驚いた。目を瞠ったら、本人は耳まで赤くしてそっぽ向いてた。忘れろ、と小さな負け惜しみが聞こえる。ふふ、やっぱりまだまだかわいい。 「ありがと。…大好きだよ」 やっと、凪に教えたような仲直りができた。ちょっと逸れた気もするけど、俺にすこぶる従順で思い通りになっちゃう遥なんてつまらない。かわいくないことばっかり言って、俺への愛情はごくごく乏しくて、いつもむすっとしてて――それでも懸命に向き合おうとしてくれる遥が、俺は好きなんだ。 「ん……」 ふんわりと両頬を包んで、お返しのキスをする。久しぶりに触れた唇は柔らかくて温かくて、一気に流れ込んでくる『遥』そのものに、胸がぎゅっと苦しくなった。唇を食むようにして、もう一度口づける。背中を覆うシャツに、ぐしゃりと皺が寄った。 ↑main ×
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