「はる…ちゃん?」

「うん、遥さんていうの。兄ちゃんのだーいじな人。すごく算数が得意で、優しいんだよ」

首を捻った凪に、優太が別人を紹介するような言葉で説明していく。決して間違ってはいないけど、凪の中では現実と180度違うイメージが形成されたことだろう。たぶん性別も合ってない。

「まぁ、ずっと一緒にいるから喧嘩なんて何回目かわからないんだけどな。ここまで口きかなかったのは久しぶりかな」

アパートを出る数日前から、遥はだんまりを決め込んでいた。俺は何度も謝ったけど、こっちも全て話したわけじゃないから、やっぱり納得してはもらえなかった。
もー、と優太がぷりぷりと怒っている。

「だめじゃん。ちゃんと謝ってよ」

「わかってるって。どうにかなるだろ」

苦笑いを浮かべる俺に、辛辣な一言が放たれた。

「ならないよ…そんなの」

うつむいてこちらに背を向けたまま、凪がぼそぼそと口にした。諦めに近い口調は、本当なら子供が覚えるべきではないもので。
びく、と体を震わせた優太にそっとバスタオルを纏わせ、俺は凪の後ろ髪を撫でる。

「なるんだよ。仲直りしたいって気持ちがあれば、絶対どうにかなる」

「っ…ならないって!だって…だっ、て……」

ショーはいつの間にかマジックに変わっていた。何もないはずのプールから次々と水柱が出現する。
勢いよく振り返ってきた凪は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。儚い背中にもバスタオルを羽織らせ、端でちょいと涙を拭いてやる。

「もう、相手のことなんか、どうでもいいんだもん…っ!僕の…ことだって………」

「凪」

肩を抱き寄せて背中をさすってやれば、少し気分が落ち着いたみたいだ。泣きじゃくりながら、凪はしまい込んできた思いを切々と訴える。

「最初は、ほんとに…ちっちゃいこと、だったんだ…。僕が、学校に給食袋を忘れちゃったの…。それでお母さんと取りに行ったら、帰ってきたお父さんが、ごはん…できてないって、おこって」

「うん」

「そしたら、お母さんもおこって…ごはんなんか、自分で作ればいい、って…っ………僕が、わすれもの、しなかったら…っ…」

「忘れ物しなくても、違うことで喧嘩になってたかもしれないだろ?お前は悪くないよ」

「お母さんも、ぜんぜん…しゃべらなくなっちゃって……僕のと自分のしか、ごはん、作らないしっ…お父さんは、帰ってきたら、すぐ…寝ちゃう、し…」

「うん」

「もう、やだ……やだよぉ…っ」

今まで抑え込んでいた気持ちが溢れて止まない。ほとんど抱き締めるようにして凪の背を撫で、こぼれる悲痛な声に、俺はうんうんと頷いた。そして言う。お前は悪くないんだよと。ちらりと優太を窺えば、涙を溜めたままショーを凝視していた。俺はゆっくりと凪に尋ねる。

「凪は、お母さんたちにどうしてほしい?」

「…仲良く、してほし…っ。前みたいに、みんなで、ごはん、したい…!」

「じゃあ、それをお母さんとお父さんにちゃんと言おう?二人とも、もう周りが見えてないんだ。でも、大事な大事な子供にそう言われたら、きっとわかってくれるはずだ」

ふふ、と。
優太が泣きながら、しかし微かに笑っている。

「前に、あったよね。はるちゃんが怒っちゃって、兄ちゃんが謝っても許してくれなくて。俺、それ見ててすごく悲しくなっちゃったの。だから、はるちゃんに『俺も謝るから、兄ちゃんのこと許してあげて』ってお願いしたんだ」

高校何年生かの夏だった。きっかけは些細なことだったんだけど、あの時の遥はーー今も割とそうだけど、意地っ張りでさ。一度大きく出たら引くに引けなくなっちゃったんだよな、たぶん。だから俺はいつでも遥が引けるように謝ってたんだけど、優太はそんなこと知らないから遥がいつまでも怒ってるんだと勘違いしたんだ。ぼろぼろ涙をこぼして「お願い」されて、さすがの遥も慌ててたっけ。
そんな話をあまり深刻ぶらずに喋っていたら、凪が涙に濡れた顔をそっと上げた。

「…そう、なの…?」

「たぶんな、どっちも意地っ張りなんだよ。だから、何かきっかけがあればすぐに仲直りできると思う。……お母さん、結構気が強いか?」

「…うん」

「お父さんは?」

「そんなに強くない…けど、最近、仕事が忙しいみたい…」

「じゃあ、ちょうど苛々してたのかもな。ほら、腹減ると機嫌も悪くなるだろ?タイミングが悪かったんだよ」

話を聞く限りじゃ母親も凪には食事を作ったり話したりしているらしいし、父親も遊びに行くための小遣いを寄越すくらいの優しさはある。二人とも、子供は見えているけど子供が何を感じているかまでは気づけていないんだろう。それは口にしないとたぶんわからない。

「大人になると、すぐに『ごめん』が言えなくなっちゃうんだ。面倒だけどさ、凪がしっかりリードしてやってくれよ。大人も、実は子供っぽいとこいっぱいあるからさ」

優太から電話で『離婚』なんて聞いた時は冷や汗かいたけど、よくよく事情を窺ってみると売り言葉に買い言葉だったんだな。とはいえ、子供には本気かそうじゃないかなんてわかるわけもないし。
俺だって、いつだかの喧嘩の時に「別れてやる」って遥に吐かれたことがある。泣いてすがったら蹴られたけど。

「えらかったな、凪。…寂しかっただろ。よく頑張ったよ、えらいえらい」

バスタオル越しに細い体を抱いて、よしよしと安心させてやる。ひとりぼっちの幼少期を過ごしてきたからわかる。つらくても悲しくてもそれに耐えたんだって、頑張ったんだって、本当は認めてほしいんだよな。
凪はぐすぐすと鼻をすすって頷いた。ぎゅう、と痛いくらいに俺の背中にも腕が回されてる。隣で涙を拭き終えた優太がくぅ、と安堵の息を漏らした。



『お留守番サービスに接続します。ピーという…』

画面をタップして、五秒足らずの通話を終了させる。半ば予想はしてたけど、やっぱり出ない。こっちは拳を振り上げたんじゃなくて、ほんとに怒ってるんだろうな。あぁ、どうしよう。さっきは凪の前だから説得力を持たせたけど、どうにかなるのか、これ。

「兄ちゃんほら、ペンギン売ってるよペンギン!」

ぬいぐるみな。ペンギン売ってたらやばいだろ。
あ、でもかわいい。小さいやつ、俺も買おうかな。
すっかりプールで遊んだ俺たちは、帰り際ということで施設の売店で土産を選んでいる。イルカ型のプールもあったし、ここはイルカ推しかと思ったらペンギンもいるなんて節操がない。いや、売れれば何でもいいのか。

「お。なんか買ったのか?」

ショップの小袋を提げて戻ってきた凪に声をかける。むっとした顔は相変わらず子供らしくはないけど、どこか晴れ晴れとしていた。

「お土産。お揃いの、買ったから…」

優太と?と訊きかけて、合点がいった。両親に、か。

「きっと喜ぶぞ」

わしゃわしゃ髪を掻き回したらやめてよ!と蹴られた。でも、口許には初めて見る笑みが浮かんでいる。やっぱり笑ったほうがかわいい。

「ーーねぇ」

「ん?」

凪がくいと上着を引っ張った。

「たくさん喧嘩したんでしょ。…いつも、ハルカとどうやって仲直りするの?」

好奇心をたたえた瞳がくりっと大きくなる。
そうだ。俺はいつもーー

「ごめんって、まずは謝るよ。優しく抱き締めて、な。それで、『大好きだ』って気持ちを込めて言うんだ」

言葉にすれば、拍子抜けするくらい簡単だ。ただ、そこに行き着くまで、そこに至るまでのプロセスは長い。自分の怒りを鎮めて、なおかつ相手のことを考えられる余裕が生まれるまで、何日もかかる人だっている。遥や凪の両親もそう。でもそんな人はきっと、物事を決しておざなりにはしない。だから、きちんと向き合えば必ず応えてくれる。

「ついでにキスなんかしちゃえばもう、こっちのも」

「うわぁ…」

ドン引かれた。これはいらない情報だったらしい。別にふざけたわけじゃなくて、結構真剣に答えたのに。凪は大人のように、やれやれとかぶりを振って優太のもとへ向かった。

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