優太には友達の凪という男の子がいる。同じクラスだが、今までほとんど話したことはなかった。しかし彼が陰で嫌がらせの標的にされていることを知り、優太が主犯を含めた生徒たちを叱って、一件落着。凪もやっと心を開いてくれるようになり、二人は友達になった。
ところが、問題はここからだった。

『なぎちゃんの、おかーさんたちが…ずっと、家でけんかしてるんだ、って…』

又聞きの内容なので推察するしかないが、度を越えた夫婦喧嘩が連日起きているらしく、凪少年はすっかり行き場をなくしてしまった。いつも、暗くなるまで公園や校庭の隅でうずくまっているのだという。

『にいちゃん…っ、なぎちゃん、おかーさんたちにりこんしてほしくない、の。だから、一緒にかんがえて…おねがい』

優太は彼を元気づけようとあれこれ頑張ってみたものの、やはり根本をどうにかするしかないと踏んだようだ。しかし子供の力ではどうにもできず、かといって親には相談しにくい。そもそもうちの両親にそんな暇はない。頼れるのは俺しかいないんだ。

『なぎちゃん、ひとりぼっちになっちゃう…』

(ひとりぼっち……か)

寂しいという気持ちは、やがて育つと『怖い』に変わる。このまま、誰も来てはくれないのでは?自分なんて、みんな忘れてしまったのでは?
ーー電話を持った手が小さく震えた。
その、怖くて怖くてたまらなかった気持ちは今でも身に染み付いている。冷たいものがつっと背筋を這っていく感覚も。

『泣くな。大丈夫だから』

ふ、と優太が顔を上げる気配がした。針で刺されたように痛む胸を押さえて、俺はできる限り穏やかな声で言った。

『凪くんを連れて、遊びに行こう。いっぱい楽しんだら、ゆっくり話を聞いて、どうしたらいいか、みんなで考えよう』

『っ……ぅん……かんがえ、る!』

友達が抱えきれないほどの痛み。それを引き受けた痛みと、何もできない歯痒さ。きっと優太もつらかっただろう。ここで大人が黙っているわけにはいかない。

『子供は大人が守るよ。そうじゃなきゃ…』

そうじゃなきゃ、いけないんだ。



昨日は期待と興奮、そして心配でろくに眠れなかったろうに、優太は早朝から自転車で家を飛び出していくくらい元気だった。なぎちゃんと車の中で食べるの、とコンビニでおやつをあさってきたようだ。昨夜遅くに帰ってきた父さんには「元気の出るガム」というあからさまに怪しいやつを買ってきた。食べた父さんはしばらく噎せていた。クエン酸たっぷりのレモンガムだったらしい。まさかそれを凪少年に食わせるつもりじゃないだろうな。

朝食を終えてから母さんの車を外で軽く洗っていると、こそこそと門扉のあたりをうろつく小さな影が見えた。リビングの引き戸を開けて優太を呼ぶと、勢いづいた裸足のままぽんと草場へ降り立った。

「なぎちゃん、こっち!」

優太の号令に合わせて、ひょこりと頭が覗く。隣に立つ俺を警戒しながら、ゆっくりと凪少年が手扉を開けて庭へ入ってきた。優太より背が低く、なんとも華奢な子供だ。いや子供なんてたいていみんな細っこいけど、この子はちょっと儚い。優太みたいに日焼けしていれば違うのかな。手にしたビニールバッグを振り回す力さえ無さそうだ。

「……誰?」

訝しむようにちらっとこっちを見て、少年はすっと優太の陰に隠れる。目深に被ったキャップでよく見えなかった瞳と、ようやく対峙することができた。俺ははっと目を瞠る。
ーー似てる。この子は黒髪で小柄だし、外見はちっとも似てないけど。大人というものを全く信用していない目は、よく知った誰かに似ていた。そう、あいつも初めて会った時はこんな表情だった。懐かしくなって小さく笑う。

「兄ちゃんだよ。プール連れてってくれるの!」

「…おかーさんとかじゃ、ないんだ…」

ややがっかりした少年の声に、優太も戸惑っているようだった。俺はゆっくりとしゃがんで、少年と目線を合わせる。

「こんにちは。いつも優太と仲良くしてくれてありがとうな」

「……」

ふい、と顔を背けられた。嫌悪というより、どう接していいかわからない、といったふうだ。そういえば、ひとりっ子なんだっけ。年の離れた兄ちゃんなんてほぼ親だもんな、そりゃ困るか。俺は即座に大人として接することをやめた。

「な、なになにっ…!?」

ひょいと脇から手を入れて、軽い体を高々と浮かせる。目を剥いて慌てる凪少年に、俺は格好だけの笑顔を捨てて笑いかけた。

「きーめた。凪って呼ぼう!」

「や、やめて…なんで……ひゃっ」

くるん、とそのまま一回転すれば、遠心力に乗った凪が悲鳴を上げる。優太が嬉しそうに跳び跳ねた。

「いーないーなっ、次俺も!」

「ちがっ……下ろせ!下ろせってば!」

地面にそっと立たせてやったのに、凪はぺしょんと膝をついてしまう。眉根をぎゅっと寄せてるけど、嫌がってはいないらしい。もう一度きちんと体を起こさせて、膝を軽く払いながら言う。

「俺、湊っていうんだ。俺も友達になっていい?」

「……やだ」

あ、拒否られた。
でも顔は結構照れてる。こういうふうに接されたことがないだけなんだろうな。キャップ越しにぐりぐりと頭を撫でると、やめてよ!ときゃんきゃん騒いだ。なんだ、いい子じゃん。

「さ、洗車も済んだしプール行こうか。ほら、乗って乗って」

「うるさいな…乗ればいいんでしょ…」

キャップを直してから、凪は後部座席のドアをえいやと開けた。優太も急いで部屋に戻り、バッグを手にビーチサンダルで駆けてくる。なのに車に乗る直前で急停止して、また引き返していった。あいつ、お菓子忘れたな。

「凪は車酔いとかするか?」

「…ううん」

子供って酔いやすいの結構いるからな。シートベルトを締めながら後ろへ声をかけると、凪はふるふると頭を振った。他人の車で緊張しているのか、行儀よく膝に手を置いている。そこへ優太が脱兎の如く駆け込んできた。母さんたちにちゃんと言ってきてくれただろうな?

「よし、しゅっぱーつ!」

エアコンをフルにして。三人を乗せた自動車は軽やかに門をすり抜けていった。

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