・湊視点


久しぶりに、大きな喧嘩をした。


「ーーじゃあ、行くから…」

ドアの端を掴んで隙間から告げた声は、小さな背中を振り向かせることなく床に落ちた。室内に響くのは、いつもより雑に書き付けられる紙の音だけ。恋人は微動だにしない。

「…帰ってきたら、連絡しろよ」

何と言ってよいかもわからず、懇願に近い台詞を残して静かにドアを閉める。
本当は謝りたかった。全部話してしまいたかった。けれどまだ、その時じゃない。

「…ごめんな」

ドア越し、聞こえるはずのない囁きを口にしてから、俺はスーツケースを引き摺って家を出た。



電車に揺られ、最寄り駅で待っていた母の車にも揺られ。体を半分置き忘れたように茫然となっていた俺は、ようやく実家に到着した。庇の下に飾られた風鈴がちろちろと出迎える。ドアを開けるなり、弾けた笑顔が飛んできた。

「お帰り、兄ちゃん!早かったね!」

「はは。焼けたなぁ、お前」

元来色白でもないけど、ここまで黒くはなかっただろう。夏休みを満喫してますとばかりに、弟はすっかり日に焼けていた。棘の刺さったままだった心が僅かに緩んだ気がする。俺の腕をとってリビングに駆けていく優太につられ、自然と小走りになった。父はまだ帰っていないらしい。いや、本来なら母だって仕事のはずだ。今日は俺のために少し早く帰宅してくれただけで、いつもこの時間は家には優太ひとり。今は夏休みだから、ちょくちょくバスに乗ってばあちゃんの家に行ってるみたいだけど。

「もう、準備できたのか?明日早起きだぞ」

「へっへー!」

じゃーん、などと効果音付きで示された部屋の隅には、青いビニールバッグが鎮座している。早々と浮き輪まで膨らんでいて、思わず吹き出した。

「今から膨らませたんじゃ、車乗る時邪魔だろ?」

「だって、着いたらすぐ遊びたいじゃん!」

ボールもあるよ!と主張しながら蹴り出された球は見事に母の後頭部を弾いた。途端に降りかかる怒号。優太はきゃっきゃっと部屋を駆け回っている。

「ったく、もう!兄ちゃんが帰ってきたら寝るって言ってたでしょ!」

「はーいはいっ。お休み、兄ちゃん!」

ぶんぶんと右腕を振り回して、優太はリビングを出て寝室に向かっていった。あのはしゃぎ様じゃ、しばらくは眠れなさそうだ。俺も昔は所謂遠足前日症候群みたいなものにかかっていたから、似たんだろうけど。
はー、と息を吐き出した母さんがゆっくりとこちらを振り返った。

「あんた、よかったの?いつもはお盆にならないと帰ってこないのに、バイトとかあったんでしょ?」

軽食は電車の中でとったけど、まだ腹には余裕がある。夕飯の残りならある、と言うので遠慮なく食べることにした。

「大丈夫。前倒しでやって、休みももらったし」

米を掻き込みながらおざなりに告げる。母は相変わらず不思議そうな顔をしていた。そりゃそうだ。誰かに帰ってこいと言わなければ俺はずっとあのアパートにいる。恋人との同棲生活を夢見て飛び出した放蕩息子だもん。

「うーん…あんたがいいならそりゃいいけど。優太を遊びにつれてってくれるのは嬉しいし」

「こういう時のために免許取ってんだからさ。…明日、父さん時間ある?朝、病院に寄ってってもらうんだろ?」

「うん、それは心配ない。私に合わせて遅出になるから、今日はまだ帰らないみたいね」

病院てのは母さんの職場。明日は俺が母さんの車を借りるから、その関係で父さんには母さんを送り届けてもらわなきゃならない。そうか、それで帰りが遅いのか。箸と茶碗を持って席を立つ。

「片づけやっとくから、先に風呂いいよ」

「そう?じゃ、入らせてもらうわ」

自分で飲んだグラスだけはシンクに運んでいって、母さんはふと尋ねてきた。

「遥くんは?一緒に帰ってきたの?」

歩みかけた足がすっと止まる。俺はゆっくりとかぶりを振って、できるだけ静かな声を出した。

「いや、お盆前に来るって」

「そうなの?てっきり戻ってるんだと思ってたわ」

それに関しては特に気にも留めないようで、母さんは無造作な髪を掻いてすたすたと風呂場へ向かっていく。つられて待望を凝縮したような部屋の隅の荷物が目に入り、俺はいたたまれなくなる。

喧嘩の理由。
俺が潰したんだ。
二人きりで出掛けるはずだった予定を。



大学生にとって、夏休みとは即ち天国。しかしながらその高みへ昇るには、期末考査という名の試練を越えることが絶対条件となっている。例に漏れず、俺と遥もせっせと勉強に打ち込んだ。そうしてようやく勝ち取った長い休みの前日に、俺はある提案をした。

『デートしよう』

テスト期間中はどう足掻いてもいちゃいちゃいちゃできない。できないことはないにしても、しようものなら本気で遥に殴られる。だからこそ、俺は忌々しい考査を終えた後には必ずこうして埋め合わせを図っていた。絶対口にはしないけど、遥だって俺に及ばずとも寂しさは感じていたはずだ。一時の思いに流されて俺が単位を落とさないよう、叱咤してくれている感謝も込めて。
思いを告げてからはそこそこの付き合いになる。知り合ってから数えれば、結構長い付き合いにもなる。遥だってその辺りは察してくれていて、渋々といった感じを出しながらも決して断りはしなかった。
どこかに食事に行ってもいい。何なら奮発してお泊まりでもしちゃおうかと冗談を混ぜる俺に、遥は珍しく行き先を指定してきた。
ーー映画が観たい、と。
娯楽に明るくない恋人の発言には、ちょっとどころじゃない驚きを覚えた。詳細を聞いて納得。へぇ、数学者の映画なんてあるんだ。数字アレルギーの俺はやや震えながら了承した。かわいい恋人の滅多にないおねだりだ、死んでも寝るわけにはない。
日取りまでしっかり決めて、ディナーはどこがいいかな、とスマホで検索をかけながら心待ちにしていたある日。弟から、とある電話を受けた。

『友達と、プールに行きたいの』

電話自体はよく掛かってくる。
でも、昆虫を捕まえただとか、素麺ばかりだとか、そんな世間話は一切なく。単刀直入に用件だけを切り出されたことに、俺は気づいていなかった。

『ーー日なんだけど…兄ちゃん、こっち、来れる…?』

『あー、悪い。もう予定入ってるんだ。もっと遅ければそっちにも帰れーー』

『だめ!!』

カレンダーに目を向けていた俺は、頬をいきなり打たれたような衝撃を電話口から受けた。冷静でない弟の様子に、少し焦って唇を濡らす。

『どうした…?』

優太は昔から人に聡いところがあった。あの遥とあっという間に打ち解けてしまったし、情緒も豊かで無闇に怒ったり泣いたりはしない奴だ。電話の奥で声が震えた。

『にい、ちゃん……どうしよう…っ』

『おい?』

『その日じゃなきゃ…早くしないと、だめなの…。なぎちゃんが、なぎちゃんのおかーさんと、おとーさんが…ぁっ』

ぐすぐすと泣きじゃくりながら訴える言葉の端々を拾い上げ、俺は十五分かけてようやく事態を理解した。

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