・大人になりたい湊と子供でいたい遥の話


かち、かち、かち。
ベッド横の置時計が時を刻む、真夜中。開け放した窓からは、昼間の暑さが嘘のようにささやかな涼風が舞い込んでくる。
音沙汰のない携帯に不安が募るが、予定通り、遥はそっと薄布から這い出た。寝巻きの上下を脱いで、枕元に準備していた服に着替える。財布をポケットに突っ込むと、マナーモードに設定していた携帯が忙しなく点滅しているのがわかった。素早く取り上げて、ディスプレイを確認する。

『着いたよ』

短い一言にほっと息をついてから、緊張を呑み込むように軽く呼吸を止めた。そのまま静かにドアを開き、隙間から体を廊下に出す。階下へ向かう時は細心の注意を払った。夕方に仮眠をとっておいたおかげか、今も眠さは感じない。むしろ期待で目が冴えてしまっている。
そっと靴を持って、回れ右をする。玄関は引き戸だ、どうしたって大きな音が出てしまう。茶の間も同様。となると、行き先は勝手口しかない。
台所は板張りなので、カーペットやマットを足場に選びながら戸口へ近づいた。祖母の部屋からはかなり遠いので、よほどの音を立てなければ気づかれることはない。靴を履き、内側から鍵を開けて家の裏側に出る。少々無用心だが、帰ってきた時のためにも施錠するわけにはいかない。外の鉢植えで軽くバリケードを作り、石畳を避けて土を踏んでいく。足跡は後で消しておこう。
門のほうへ回っていくと、しゃがんで二階を見上げていた人物と目が合った。こちらに気づくなり、嬉しそうに手を振ってくる。遥はむっとしただけで振り返すことはなく、さっと門を出てから塀に寄りかかった。

「よかった。抜けて来られたみたいで」

ぽんぽんと髪を撫でる手は優しい。興奮を抑え込んでいるのか、声は僅かに弾んでいる。深く息を吐いて、遥は共謀の主を睨んだ。

「こんな時間に…どこに行く気だ」

「さぁ。どこ行きたい?」

ふふ、と殺しきれない笑みを浮かべて、湊は遥の手を取る。暗闇を進む覚悟はできていた。
儚い街灯と虫の音に彩られた夜の中、二人きりの逢瀬が始まる。

何故、夜中にこそこそと会うことになったのかはよく覚えていない。おそらく、デートをしようと湊が誘ったにもかかわらず、夏は暑いだの人が多いだのと文句を垂れた結果、その両方を解決できる手段を彼が思いついたのだ。乗った自分も悪いが――夜、しかも真夜中に恋人と密会するなんて悪事は、いけないとわかっていながらも本能が求めてやまなかった。十五の子供にとっては、それが健全か否かにかかわらずひどく蠱惑的な誘惑だったのだ。

最初に辿り着いたのは近所の公園だった。安っぽいベンチに座ると、湊が自販機で飲み物を買ってきた。レモンスカッシュと、果肉入りのオレンジジュースだ。

「いくらだ」

「いいって。デートなんだから奢らせて」

財布をごそごそする遥を留め、その手に缶を握らせる。遥は渋い表情を浮かべたが、さっさと缶に口をつけた湊を見て、諦めてプルタブを引いた。果肉が入っている割には、相変わらず作りものめいた甘さだ。慣れた味で、逆に安心する。

「眠い?」

缶を煽る合間に、湊が尋ねてくる。遥は緩く首を振った。朝まで起きていることはさすがにできそうにないが、今はまだ睡魔と闘う必要もない。俺もだよ、とにんまり笑って、湊は円いブランコを指差した。

「乗ろ。乗ったことないんだろ?」

子供染みた遊具に、今更未練などあるわけない。しかし何か言う前に湊はベンチから跳ねていき、観覧車を思わせる籠の外側へ飛び乗った。ぎこぎこと軋む振り子にはお構い無しに、湊は膝を使って漕ぎながら手招きしてくる。軽くなった缶をベンチに置いて、遥もようやく腰を上げた。
籠の内側に乗り込むと、湊もいったん飛び降りて向かいの席に座る。揺らす者がいなくなっても尚、ブランコはゆらゆらと余韻を残して往復している。

「ほら、楽しい」

「そうでもない」

「じゃあもっと揺らす?」

「………」

無言で眉根を寄せた遥に、湊は頷きながら隣へ体重を移動させた。重りが片側に寄ったことで、ブランコは幾分もしないうちに傾いて停止する。

「好き」

唐突な響きが籠の中に落ちた。ざわざわと、夜風が周囲の草花を強引に撫でていく。落ち着かないのは遥も同じだった。

「……知ってる」

「へへ」

何がおかしいのか、湊は軽く笑って遥を抱き締めてきた。じんわりと伝う体温を直接感じた日を思うとたまらなくなって、肩口に額を押し付ける。髪をかき混ぜてくる手はもう子供ではなかった。

「好きなんだ。ずっとこうしてたいくらい、愛してるから」

真剣な瞳を最後に、ゆっくりと目を閉じる。それが最も自然な行為であると、少なくともこの瞬間だけは疑いもしなかった。熱情を静かに受け止めて、仄かに火照った体をもて余す。もう一度ぎゅっと抱き寄せてから、湊は繊細な手を取って籠を降り立った。

公園を出てから、街灯の下をあてもなく歩いた。コンビニで買ったアイスを分け合ったり、人懐っこい野良猫と遊んだり。そんなちっぽけなことでも、湊は実に楽しそうだった。
近所をぐるりと巡って少々疲れたので、どこかで休むことにする。どうせなら景色のいい場所にしようと、スロープを上った先の高台まで連れていかれた。運動不足の体にはこたえる坂道だったものの、明るみ始めた空が見せる町の展望は悪くなかった。柔らかな草の上に、ぴったりと並んで座り込む。

「風が涼しいな」

そんなことを呟いた、すぐ隣の横顔はやけに大人びていて。胸の奥のときめきと痛みは、どちらが先だっただろう。

「――遥」

やや逡巡してから呼ばれた名前は、思いの外上擦っていた。少しほっとして、なんだ、と相槌を打つ余裕が生まれる。けれども。

「…俺の気持ち、受け入れてくれてありがとな」

包み込まれた手のひらが熱くて驚かされる。大きさだってそこまで変わらないのに、どうしてこんなにも差を感じてしまうのか。
そんな心境をよそに、湊は嬉しそうにその手を揺らす。

「今、すっごい幸せだと思う。こんなふうに二人きりでいられるのも、正直に好きって言えるのも。…まだ、遥としたいことたくさんあるんだ。だから…」

澄んだ瞳にひたりと見据えられ、遥は身動いだ。受け止めるだけで精一杯の自分に、堂々と応えられるほどの気持ちなどありはしない。中途半端な心を見抜かれるのが怖くて、眼下の町並みに目を落とした。
湊も何とはなしに悟ったのだろう。続きをやんわりと引っ込め、曖昧に笑った。

「…って、急にそんなに言われても困るよな。いいんだ、幸せってことさえ伝わってくれれば」

熱量の減った手のひらが離れ、戸惑いがちに遥の肩へ回される。ああ、怖がらせてしまったと悔いてももう遅い。せめてもの譲歩を示そうと、遥はそっと湊の肩に頭を寄り添わせる。突然の重みにびく、と跳ねた体は徐々に弛緩し、めいっぱいの想いをぶつけるようにきつく腕の中へ閉じ込められた。好きだ、と何度も何度も囁かれた。



音を立てぬよう階段を上りきり、財布と携帯を自室に放ってからそっとベッドへ沈み込んだ。抱き留められた背中はまだ熱い気がした。うつ伏せから体勢を変え、ひやりとしたシーツに押し付ける。

甘ったるい果汁。軋みながら揺らめく籠。囁かれる愛の言葉。あっという間に溶ける棒アイス。腹を突き出す野良猫。涼風吹き抜ける丘。そして、大人びた恋人の横顔。それらがぐるぐると、脳内をしつこく巡って離さない。
最後に額縁を飾るのは、骨が痛むほどにこの体を抱いた、もうひとつの体。あの時視線がかち合っていれば、あるいは――。

「馬鹿だろ…」

苛ついた言葉を何にともなく吐いて、乱暴に寝返りを打った。
自ら手を振り解いたくせに、今更仮定をしたところでそんなものは無意味だ。

「………」

好きだと、愛していると、湊は飽きることなく幾度も告げてきた。しかし、その続きを遥に求めてきたことは一切なかった。逸る気持ちを懸命に抑えて、遥のこころが育つのを待ってくれているからだ。

(まだ、待たせることになりそうだ…)

夏の夜明けは早い。幾分もしないうちに日が顔を出すだろう。遥はふっと脱力した。

愛されて、大切にされて、どろどろに溶かされる心地よさを、未熟な子供は知ってしまった。
だから、どうか置いていかないで。一歩前で、いつまでも手を引いていて。

微睡みの中、優しい誰かが『ゆっくりでいいよ』と言ってくれるのを待ちながら。彷徨う子供は今日も、浮かぶことなく夜へ落ちていく。


***
対等になってしまったら湊が手を引いてくれなくなるから、それなら少し遅れてもいいから湊に愛されたい、世話を焼いていてほしい、と思う遥(´・ω・`)

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