・湊視点


【恋】異性を愛し慕う心。
【愛】@いつくしみ、大切に思う心。A人、特に異性を慕う心。

両手でページを押さえたまま難しい顔をして黙り込んでいた恋人は、やがてゆっくりとこちらを見上げて呟いた。

同じだろ、と。

辞書を突き出して、細い指を文字に沿わせる。
【恋】の異性を愛し慕う心。まぁいいとしよう。では【愛】のAは? 【恋】と全く同等じゃないのか。軽い苛立ちを隠そうともせず、ぱしんと紙の束を叩く。ページが若干折れた。それは俺の辞書なんだけど、別に気にはしない。

「微分と積分だって同じじゃないか?」

うろ覚えの知識を引き合いに出したらすかさず凄まれた。どうやら違ったらしい。微分は傾き、積分は面積を表し、互いに逆演算であるというご高説を十分かけて賜った。ごめん、明日にはきっと忘れてる。
さて、本題に戻ろう。

「俺の定義でよければ話すよ」

無難な言葉が並んだ辞書は既にテーブルの端に追いやられている。遥がこれを頼ることはもうなさそうだ。
この恋人はどんな問に対しても明確な答を望む。数学や理科だけでなく、国語にさえそれらを求めようとする。だから感想や意見という解答のない設問には昔から辟易していたし、自分の心をまさぐられることを異常に嫌がっていた。俺はそういうのも含めて、勉強だと思うんだけどね。
つんと上向いていた唇が開く。聞いてやってもいい、と至極生意気な返事が寄越された。生意気、と言ったって子供がそっぽ向いてる程度のかわいいものだけど。

「辞書に書いてある通り、【恋】も【愛】も本質的には一緒なんだと思う。異性かどうかはこの際置いておいて――特定の誰かを大切に思う気持ち、っていう意味だよ」

予想通り、我が恋人は眼鏡越しの胡乱な目つきでこちらを見つめてくる。口を開かずともわかる。だからそれが問題なんだろ、と文句を呈したくてたまらない様子だ。だらだらと前置きを喋るのは俺も嫌いなので、結論を急ぐことにする。

「何が違うんだ、ってことだよな。【恋】と【愛】は、それぞれ中心に立つ人が違うんだ」

ようやくまともな話が聞けそうだ、と恋人も若干佇まいを直してくれる。期待を裏切らぬようにしたい。

「例えば、俺は遥に【恋】してるとする」

あっ、この場合仮定はいらないか。取り消そう。

「いや、実際してるから、【恋】してる。遥を大事に思うし、大好きだって自覚してる。……どうかした?」

熱弁してるのに、ふいっ、と顔を逸らしてしまう恋人。いいから続けろ、と言った唇と耳が同じ色になりかけている。抱き締めてやりたいくらいかわいいけど、後にしよう。

「【恋】してる俺は、こう考える。両想いになりたい。遥に好きになってほしい。明日も会いたい。キスしたい。こんなふうに煩悩に酔いしれるのが【恋】」

耳を塞いでしまいたいらしいが、そうすると本題に入れない。けれど、甘い戯言をこれ以上鼓膜に沈めたくはない。そうしたジレンマを空気で感じ取って、俺は満足にひたりながら続ける。

「一方で、俺は遥を【愛】してる。その俺は何を考えるか。ここが【恋】と違う部分なんだ。【愛】してる俺は、遥に幸せになってほしいと思う」

ふ、とレンズ越しの双眸が僅かに大きくなった。

「遥がテストを控えていたら、体調を崩さないようにバランスのいいご飯を作ろうと思う。お風呂にもゆっくりつからせて、寝る前は布団に湯たんぽを入れる。食堂に行く暇もないだろうから、お弁当も作る。肩凝りがひどかったらマッサージするし、テストの出来が悪かったら慰める。それが俺の思う【愛】するってこと」

わかってくれたかな。
そっと表情を窺うと、照れを戒めるように両頬を手で覆っている。かわいい。
つまり、と。しばらくして、艶の増した唇がためらいがちに要旨を紡ごうとする。

「【恋】は自分が中心、【愛】はその相手が中心…なのか」

「俺はそう思ってる」

英訳すればどちらもLove。本当は辞書に記されただけの意味しかないのかもしれないし、これが必ずしも正解だとは思わないけど。
【恋】と【愛】の両方を知った自分としては、これが一番しっくりくる。

「【恋】をしてた頃は、正直つらかったよ。だって何にも思い通りにならないし、かといって行動もできないし…まぁ、浮かれることは多かったかもね。ちょっとしたことで浮いたり沈んだりしてた」

【恋】した相手が相手だったから、沈むことのほうがやや多かったか。

「でも、【愛】するようになってからは嬉しいと思うことのほうが多くなった。自分のためにあれこれ心を乱しているよりも、遥のために何かしようって前向きになれたからね。時々、【恋】に戻っちゃうと厄介なんだけど」

気持ちが通じてくれた今となってはもう、滅多なことでは【恋】になり得ない。けれど、【愛】してる今でもときめきはあるし、逆に落ち込むことだってある。楽しいことばかりではない、というのも共通項かもしれない。

「だから、俺は遥を愛してるよ」

すっかり机に伏してしまった恋人のつむじを眺めながら呟く。こうなっては、しばらく顔が上げられないだろう。真っ赤な耳を覆いかけた、僅かに震える髪に指を絡める。

「待ってるから。遥が【恋】するの」

いつかの俺みたいに、じたばた足掻いて、もがいて、浮いて、沈んで。そうやってひとりで悩んだ果てに選んでくれるのが俺だったなら、もう愛なんて望まない。


***
久々なので、いつもとちょっと違う感じに。お題は同人誌の表紙っぽいの描くったーからもらいました(´・ω・)

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