何の変哲もない休日のこと。昼食を終え、遥がソファでうとうとしていたその時、テーブルにあった湊の携帯からバイブレーションが流れ出した。

「あれ、俺のか?」

キッチンで食器の片づけをしていた湊は急いで手を拭き、リビングに戻ってくる。遥は画面を見やり、佳奈子からの着信を確認した。

「ルシ? なんだろ……もしもし?」

『あーもー、出るの遅い! 今、あんたの家に向かってるから! よろしく!』

走っているのか早歩きなのか、佳奈子の息遣いが若干荒い。あまりに唐突なその台詞には、さすがの湊も驚いた。

「はっ? え、なんで…」

『話は後! じゃあねっ』

自分から電話をかけておきながら話を後回しにするとは、なんとも勝手で佳奈子らしい。首を捻った湊に、遥は寝転がったまま尋ねた。

「なんだ」

「や、もうすぐここに来るらしくて。ほんとに急だよな」

それから何分もしないうちにインターホンを連打され、湊はやれやれと呆れながらドアを開ける。しかし、佳奈子の傍らに立っていたかりんを見るなり目を丸くした。

「ちょっ、かりんくんっ? いったい何して…」

「小宮っ、とりあえず入れてよ!」

湊の言葉を遮った佳奈子は、了解を得る前にぐいぐいとかりんを引っ張って玄関に入り込む。三人がリビングから姿を現すと遥もやっと体を起こしたが、やはり湊同様、ただならぬ事態ということを知るとおろおろしだした。

「お茶淹れるから……まぁ、とりあえず座って」

佳奈子に手を引かれ、かりんは小さく頷いてソファに座る。その頬は涙で濡れ、かわいそうなくらい目が赤く腫れていた。

「なんで……」

普段はめったに口をきかない遥も、思わず声をこぼすほど。尚も泣きじゃくるかりんの背を優しく撫で、佳奈子はゆっくりと促した。

「かりんちゃん、大丈夫だから。ね、小宮と遥ちゃんにも聞いてもらおう?」

「はい……」

悲痛な涙声を滲ませ、かりんは事情を語り始めた。



それはつい今朝のこと。前日から凌也宅に泊まっていたかりんは共に朝食を取り、穏やかな時間を過ごしていたという。その何気ない時間を破るように、凌也の携帯が鳴った。

「あ……」

その時はちょうど、凌也が手洗いに立っていた。相手が佳奈子や湊など、よく知っている人間なら自分が代わりに出ても構わないだろうと、かりんはそっと携帯画面を覗き込んだ。

「え……?」

ディスプレイに表示されていたのは全く知らない女性の名前。戸惑うかりんをよそに、戻ってきた凌也が携帯を見つめ、首を捻りつつも電話に出る。

「もしもし。ああ……いや、覚えていないが。……そうか。ならいい」

会話は呆気なく終了したが、かりんは相手のことが気になって仕方ない。束縛嫌いな凌也に尋ねるのは気が引けたものの、気持ちを抑えられずについ訊いてしまった。

「あ、あの。どなたですか?」

「別に何でもない。昨日、少し話をしただけだ」

昨夜といえば、凌也は確か学科内の飲み会があると言っていた。酒が飲めない凌也の目的は飲み会でなく過去問の配布だったらしいが、飲み会としか聞いていなかったかりんがそこまで予測できるはずがない。

「お話……」

反芻すると、なんだか胸の奥がざわざわと落ち着かなくなる。嫉妬なんてしたくもなければ知られたくもないのに、昨夜のことをずっと我慢していた自分が馬鹿らしくなってきた。凌也にだって必要な付き合いはあるのだからと、寂しさをこらえて帰りを待っていたのに。

「電話の番号……訊かれたんですか?」

言ってはいけない。この先を続ければ、必ず凌也は嫌な思いをする。そうわかっていても、かりんは言葉を留めることができなかった。

「僕……僕は…」

「かりん」

今にも泣きそうなかりんを見つめ、凌也は小さくため息をついた。

「俺は訊かれてもいなければ教えてもない。誰かから訊いたんだろう。……余計なことは考えなくても」

「余計なんかじゃありません!」

耳をつんざくような、悲鳴に似たかりんの声が部屋に響く。凌也でさえ目をみはった。

「好きな人のことで余計なものなんてないです! ぅ……っ」

凌也がどんな顔をしていたのか、見ることは叶わなかった。それよりもここにいることが耐えられなくて、かりんは身ひとつで部屋を出て行った。



「僕っ……、も…先輩に、嫌われちゃっ……かも、しれなく、て…っ」

「かりんくん、落ち着いて」

ハンカチをぐしぐしと目にあて、かりんは度々嗚咽を漏らす。その頭にぽんと手を置き、湊は優しく笑った。

「嫌われてなんかないよ。きっと今頃、守山も焦ってるはずだからさ」

「焦るぅ? 守山が無神経すぎるんでしょ! かりんちゃん、あたし一緒に行くから怒鳴」

「ルシ。やめとけ」

目をつり上げた佳奈子がすっくと立ち上がれば、湊は小さく制止の声を放つ。

「かりんくんたちの問題だろ。俺たちは黙ってればいい」

「……わかったわよ」

まだ何か言いたげだったが、不満げにしつつも佳奈子は腰を下ろした。ようやく泣き止んだかりんに目線を合わせ、湊はゆっくりと告げる。

「かりんくん。我慢することはないんだ。言いたいことはある程度、ちゃんと伝えたほうがいい。いくら守山でも、好きな人の言葉ならきちんと受け止めると思うんだ。俺だって、どうしても耐えられないことは遥に言うよ。遥もそういうのは黙ってられないほうだし…だから喧嘩なんてしょっちゅうだけど」

「離せっ」

まさか自分を話題に出されるとは思ってもみなかったのか、抱きつかれたことも相まって遥は驚きを隠せない。腕の中でもがく遥をよそに、湊はその額にちゅっと唇を落とした。瞬間、遥とかりんが石のように固まる。

「でも、いくら喧嘩したって俺は遥が好きだし一緒にいたいって思う。喧嘩はしたくないけど、なくなったらちょっと寂しいな。遥が怒ってくれないと、我慢させてるのかなって心配になるから」

「ほぇ……」

かりんは少し驚いた表情で、何度も大きな瞳を瞬かせる。横から佳奈子が顔を覗き込んできた。

「かりんちゃん?」

「あ、いえ。……お二人は、本当にお似合いだなって思って…」

「な……っ」

即座に遥の頬が紅潮し、それを眺めていた湊もくすくす笑ってありがとうと言う。

「そうですね……そんなふうに思えたら、素敵ですよね。……僕、昔からずっと思っていたことがあったんです。好きって気持ちは先輩より僕のほうがずっと大きくて、僕は隣にいさせてもらってるんだ、って…だから、ちょっとくらい我慢しなきゃ……すぐ、嫌われちゃうんだって…」

再び滲んだ涙をぐいっと手の甲で乱暴に拭い、かりんは立ち上がった。

「でも、僕だってそんなの嫌です。もっともっと好きになりたいし、もっともっと好きになってほしいんです。そう言ったら……先輩は」

「驚くだろうな」

続きをそっと引き取り、湊が微笑んでみせる。

「行ってきなよ。たまには守山も、恋人にこってり絞られるっていうのを経験したほうがいい」

「さんせー!」

佳奈子も満面の笑顔でぐっと手を挙げ、ほらほら遥ちゃんも!と遥の手首を掴んで引っ張り上げた。

「……はい。ちゃんと怒ってきます」

湊や佳奈子に背中を押され、かりんははにかみながらそう言ってリビングを出て行く。その後を、佳奈子がこっそり追っていくらしい。

「口は出すなよ。手も」

「わかってるわよ。あたしは監視だもん」

じゃあね、とひらひら手を振った佳奈子もドアの外に姿を消す。湊は深く息をついた。

「やれやれ。守山もほんとにわかってな……ん、遥? まだ耳赤いけど…えっ」

湊の胸に顔を埋め、遥は控えめながらも背に手をまわす。

「お…怒って……も、いいのか…」

一瞬、何のことを言っているかわからなかった。だがさっきの会話から察するに、

「気にしてたの? 遥がすぐ怒るから喧嘩になっちゃうって」

もちろん湊にも原因はあるのだろうが、嫉妬も束縛も好き嫌いも強い遥は少しの怒りでも湊にあたってしまう。どうやら、それを自覚したことでちょっとした自己嫌悪に陥ったようだ。
けれど──湊は喧嘩してもいいと言ってくれた。怒ってばかりの自分でも、一緒にいたいと言ってくれた。それがたまらなく嬉しくて恥ずかしくて、さっきからずっと顔を隠していたのだ。

「……なぁ、遥」

細い肩がびくりと跳ねる。華奢なその体を抱きしめ、湊はそっと囁いた。

「これからも、俺が作ったご飯食べて」

「……」

遥は無言のまま頷く。

「一緒にお風呂入って、隣で寝ようか」

「……」

また、頷く。

「喧嘩もいっぱいしよ。きっと退屈なんてしない」

「……」

すん、と鼻をすすってまた頷く。
いくらか沈黙が続いた後、湊の穏やかな声が聞こえた。

「……いつかでいいよ。好きって言ったら、同じ言葉で返してほしい」

「………う」

「もー、なんでそこで言葉に詰まるんだよ」

まぁ、そういうところが好きなんだけど。
愛らしく縮こまる恋人の髪を撫で、湊は幸せそうに笑った。


***
凌かりに見せかけた湊遥。湊遥ですね(汗) 凌也は少し説教されるといいよ。
一周年ありがとうございました!(^0^)
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