「ここに来るの…いつから考えてたんだ」

心の矛先を変えるべく尋ねてみれば、んー、と窓の外を眺めつつ湊が答えた。

「十日くらい前かな。えーと、ポッキーの日か。ちょうどパソコンで調べものしてる時に夫婦の日の広告見て、せっかくだし奮発しちゃおうかなって思ってさ」

せっかくだし、の『せっかく』が何に対してなのかはわからないが、気分に任せたところが大きかったらしい。ふうん、と甘酸っぱさに舌を浸して遥が頷く。

「広告は全然違う場所だったんだけど、もうちょい近場で、夕方からでも行けそうなとこ…あと、できれば貸切の風呂とかあるとこ…」

「お前……」

最初からそのつもりだったのかと胡乱な目をやれば、できればだよ、とつまらない弁解を挟まれた。

「だって、広い風呂に二人で入りたかったし」

「…で?」

細く開けられた窓の隙間から、山の空気がすうっと流れる。外は冷えるのだろうが、風呂上がりの肌には涼しいくらいだ。

「ここは温泉街でいろいろ買い物も散歩もできそうだし、評価も良かったから、その日のうちに予約しちゃったんだ」

そう言って喉を潤してから、湊はかたんとコップを机に置いた。自由にしていた右手を握られ、遥は思わず目を瞠る。

「一緒に来てくれて、ありがと。こんな思いつきに付き合ってくれるの、遥くらいだよ」

優しい声音に、きゅ、と胸が甘く締めつけられる。反射的にその手を握り返して、遥は照れを目一杯抑え込んで言い放った。

「…そもそも、そんな…旅行に誘うのなんか、俺しかいないだろ…」

「はは、確かに」

それはそうだよね、と笑う横顔を見て、ふと遠い日のことを思い出す。
あの時――湊に想いを告げられた時。友達というそれまでの存在を失ってでも彼を受け入れたいと願ったことは、やはり正しかったのだと。その時は未来がどうなるのかなんて考えもせず、ただ湊に離れてほしくない一心で――おかしな言い方だが、二人ともまだ世間知らずの子供だった。
こうして共に成長していく中で、顔も見たくないほど嫌悪したことも、恋愛観の違いから距離を置いたこともあった。そう、互いを想い合うだけの甘い時間ばかりではなかったのだ。
しかしあれから四年が経っても尚、湊は確かに隣にいる。相変わらず苦楽を行ったり来たりしながら、それでも一緒に日々を過ごしていく。そうして積み重なったものを何と呼ぶべきなのか、まだ、遥には名前をつけることができない。湊はきっと知っている。教えてくれることは、たぶんないだろうけど。

とん、と湊の肩に頭を乗せる。ただ繋いでいただけの手はいったんほどかれ、やがて指をしっかりと絡めて結ばれた。そんな応酬が、今はひどく嬉しい。

「――お前はいつも、突飛なことばかり言い出すな」

「そうかも。ごめんな」

顔は見ずとも口調でわかる。苦笑しながら、湊はコップを傾けた。

「…そうやって、驚かされるのも――俺は嫌いじゃない」

ふ、と湊の周りの空気が止まる。少しは驚いてくれたようだ。火照りの増す頬は肩に触れたままだが、浴衣越しでも知られているだろうか。遥はそっと目をつむった。

「だから……これから、も…」

そこで、不意に言葉が途切れた。
続きを――大事なことを言わなければと思うのに、どうしても羞恥が邪魔をする。この土壇場で口をつぐむくらいなら、最初から言うべきではなかったのかもしれない。

「…その、……」

湊はいつも、自分を違う世界へ連れ出してくれる。ひとりでは決して育むことのできない気持ちを教えてくれる。その感謝を、想いを、どうして伝えられないのだろう。もどかしくてたまらなくて、涙が出そうだった。

「遥」

優しく抱き寄せられて、ちりちりと胸が痛む。
やっぱりそうだ。いつもそうやって、湊がリードしてくれるのを待つばかりで。傷つきたくないからと、自分からは決して何も言わない。言えない。どこまで意気地無しなのだと詰りたくなる。

「言って」

「え……?」

「大丈夫だから。――その続き、聞かせて?」

うっすらと潤んだ瞳に映るのは、期待を湛えた純粋な恋人の目。視線が絡むと、魔法にでもかかったように唇が言葉を紡ぎ出す。

「これからも……そばに、」

うん、と声を出さずに湊は頷く。

「そばに……いて、ほし……」

「いるよ。いつだって、一緒にいるから」

こみ上げる安堵をどうすることもできず、遥はふらふらと倒れ込むようにして湊に体を預ける。眼鏡を外しておいてよかった。胸に顔を埋め、そっと背中を撫でてもらうと、今になってひどい羞恥が襲ってきた。畳を力いっぱい叩いてしまいたい衝動に駆られたほどだ。

「なんかプロポーズみたい」

「うるさいっ!」

嬉しそうに笑いながら、湊が頭上で声をこぼす。反芻してみると本当にそうだ。感謝を伝えるつもりだったのに、とんでもないことまで口走ってしまった。もう顔を合わせられない。
しばらくそうして気持ちを落ち着けていたが、湊があまりにも静かすぎることに気づく。もっと喜んだり、からかったりしてくるのが常なのだ。まさか呆れられてしまったのかと怖くなって胸元から頭を上げた遥は、今日一番の驚嘆を経験することになる。

「あ…。――もう少し、このままでいてよ」

しかし湊に素早く後頭部を押さえられ、再び視界を塞がれる羽目になる。が、遥は驚きのあまり反論の余裕さえない。

(泣いてた……)

湊の瞳は僅かに揺らいでいた。それを浴衣の袖で拭っていたのだから、間違いない。彼がまともに泣くところを見たのはいつぶりだろう。いつも自分ばかりが泣いているせいで、どうしていいのかわからなくなってしまう。

「いや……なんかさ。遥にそんなこと言ってもらえるなんて、思わなかったから…。あーもう、情けないな。酒のせいだよ? 涙腺緩むんだから」

湊が懸命に取り繕っているところも珍しい。彼の心を揺さぶるほど、自分の言葉には力があるのだろうか。
きつく抱き締められてから、心の内を絞り出した声が降ってきた。

「…でも、嬉しい。嬉しいんだよ、すごく。遥を好きで…好きになって、本当によかった」

「……馬鹿」

鼻の奥がつんとした。うつるのを必死で我慢しているのに、自分まで泣かせないでほしい。

「ちょっとだけで、いいからさ。余韻に浸らせておいてくれる…?」

抱き寄せられたまま、遥はそっと両手を伸ばす。なだめるように背を撫でると、骨が軋むほど強くしがみつかれた。


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