「はーるかー。ね、もう上がろうってー」 硫黄の香に洗い髪をなぶらせ、大岩にもたれていた遥はすっと瞼を上げる。何だ、せっかくいい気分だったのに。と、思うものの、これ以上長くつかっていたら皮膚がふやけてしまいそうだ。湊に倣ってざばりと湯から体を引き上げ、石造りの階段に足を乗せる。火照った肌に秋の夜風が気持ちいい。湊もほっとしたように内風呂へ続くガラス戸を開けた。 「俺あんまり長湯得意じゃないからさ。倒れたりしたら遥、おぶって帰れないだろ?」 前半は本気、後半は冗談。脱衣所で大型の扇風機にあたりながら浴衣を身に付けていると、湊がそんなことを呟いてきた。遥は不思議そうに首を傾げる。 「先に上がってもよかっただろ」 「えぇー、やだよ。せっかく一緒に来たのに」 浴場はまばらに人がいたが、ここには幸い誰もいない。湊もそれをわかっていての発言だ。なので遥も咎めるような真似はしない。 「今長湯したら…後で入れなくなるんじゃないのか」 途端にぱぁっと輝き出す湊の顔を横目に、言葉の選択を悔やんでももう遅い。慌てて遥は弁解を付け足す。 「別に、貸切とは言ってない…っ」 「またまたぁ。照れちゃってー」 つん、と仄かに赤らんだ頬をつつかれ、遥はその手をすかさず振り払う。帯をきゅっと締めるなり、タオル類を手にすたすたと出口へ向かっていった。湊も丹前を腕にかけ、急いでスリッパをつっかける。 「ちょ、髪! 乾かさないと風邪ひくよ!」 「部屋でやる」 女性と違って長くドライヤーを占領する人間がいないため、洗面台はいくつも空いているが、戻るのは面倒だ。それに、客室でなら湊に乾かしてもらえるではないか。そんなことを無意識のうちに考えていた自分が少々恐ろしく、大いに恥ずかしい。浮かれきっているのはどちらだと詰め寄りたくなる。 「待って! そうだ、外の自販機でコーヒー牛乳買ってあげるから!」 「ふん…」 足を止め、引き戸を開けて待ってやると、湊は嬉しそうに駆け寄ってくる。浴衣を纏った姿は本当にいい男なのに、唯一の欠点は自分なんかに惚れてしまったことだろう。まぁ、今更手離せと言われたところで無理な話だが。 サプライズに二人きりの旅行を用意してくるような恋人だ。誰にも渡してなどやらない。 「早くしろ」 「はーい」 連れ立って廊下へ出てから、水飲み場の隣にある自販機へ、湊が小銭を投入していく。薄茶色の瓶を最初に落としてから、フルーツ牛乳と飲むヨーグルトのボタンの間で指を彷徨わせている。 「んーと…あっ」 迷っていると、無情にも電子音と共にお釣りが排出されてしまい、やむなくまた金を入れることになる。甘ったるいコーヒーを飲みながら、遥はほんの少し笑った。それから僅かに目を伏せる。 (いつももらってばかりで、こいつには何もしてやれてないな…) その代わりに、なんておこがましいけれど。 今日くらいは、湊の望むものを全部くれてやることにしよう。 「では、ごゆっくりどうぞ」 「ありがとうございます」 例のごとく丁寧に礼をし、仲居はそっと襖を閉じて去っていく。客室のテーブルにはこれでもかというほどの料理が並んでいる。蒸し物の様子を蓋を開けて見て、まだかな、と呟いた湊は蓋を戻す。火を入れたのはつい先程なのに、よほど腹が減ったのだろうか。遥はこっそりと笑ってしまう。 「まぁいっか。よし、乾杯しよ。いい夫婦の日にかんぱーい」 「今日だけだからな…」 鍋を後に回しても、食べるものはいくらでもある。かちんとグラスを合わせ、二人は飲み物を口にする。ふー、と湊は息をつき、意気揚々と箸を持った。 「んー、刺身うまい。この氷凄いよな、冷凍庫で作ってんのかな」 湊が指差したのは、お造りを覆うように被せられた氷だ。見た目はかまくらに似ている。刺身の鮮度を落とさない工夫だろう。 「これ…何の魚だ」 海老や鮪はすぐにわかるが、三点盛りの残り一つは食べてもぴんとこない。もぐもぐと口を動かす遥に、湊はひょいと刺身をつまんで答えた。 「イナダかな」 「? 何だそれ」 「ブリの子供だよ。ブリって出世魚だから、呼び方変わるんだよね」 カニの入ったサラダを食しつつ、湊はビールのジョッキをさっさと空にする。紅葉を模した麩の先付を食べ、遥も烏龍茶に口をつけた。酒でもよかったのだが、この後また入浴することを考えると遠慮したほうが無難だ。酔って料理の味が曖昧になるのももったいない。 「遥、こっち向いてー」 茶碗蒸しを匙ですくったまま顔を上げれば、パシャリと軽快な撮影音が流れる。スマホを構えた湊は満足げに微笑んだ。 「ふふ。浴衣姿もばっちりだ」 「勝手に撮るな」 既に湊のスマホ――愛称はハルカ――には何百枚もの遥の写真が収められている。それでもまだ逐一撮りたいと言うのだから、彼は本当に物好きだ。とろとろとした卵の優しい味も相まって、胸の奥が仄かに温まる。 「遥も俺のこと撮っていーよ」 「誰が撮るか。…それ。もう食べられるぞ」 蒸し物を行儀悪く箸で指すと、呑気な恋人はぱっと瞳を光らせて蓋を取り去る。湊が楽しみにしていた、豚肉と地元野菜を蒸し焼きにした料理だ。 「わー、旨そう。あ、豚肉いらなかったらちょうだい」 「ん」 催促されずとも、元よりそのつもりだ。代わりに遥は海老の天ぷらをもらって、小皿の梅塩にちょんちょんと付ける。豚肉を頬張った湊は声にならない感嘆を漏らし、頬を緩ませた。 「凄いよ、めっちゃ甘い」 「……ふうん」 甘い肉など最初から興味はない。しかしこちらの海老天もサクッとした歯応えがたまらない。湊と違って顔には出さないが、遥もそれなりに感動は受けている。アスパラも筋が柔らかくてうまい。 「これも変わってるね。えーと、菊あんかけ? へー…」 品書きの紙と照らし合わせ、湊は花弁の散った豆腐を食べる。そして鮭の千草焼き、続いて白米。普通、こういった食事では最後のデザートの前にご飯と味噌汁が出てくるものだが、湊は我慢できなかったらしく、お櫃と茶碗を先に持ってきてもらったのだ。刺身と焼魚、肉をおかずに、次々と米を平らげていく。遥に至っては料理全てを食べきれるかどうかも怪しいため、今のところは米の必要性を感じない。ただ、この辺りは味噌の産地でもあるらしいので、味噌汁は後で味わってみるつもりだ。 「食べたらもっかいお風呂だな。…今度は」 悪戯っぽい瞳が遥を捉える。 「二人っきりで」 そうはいかない。甘やかな雰囲気はまだ早いのだ。 ぷいと明後日の方向に目をやって、遥はつれない口調で提案を蹴ってやる。 「……食べたら寝る」 「そんなぁ。秋の夜は長いよー?」 「うるさい。変態」 ひどい、とわざとらしく落ち込んでみせる湊は何だか楽しそうだ。お互い、こんなやり取りも愛情表現の内だとわかっているからだろう。恋人になってからもう四年――いや、まだ四年か。世間の夫婦たちに比べればまだまだ青い。甘いはともかく、酸いを噛み分けたことなどほんの少ししかないのだから。 「遥、大好き」 「――……」 戯れの合間に零された台詞にはまだ、何も返せやしないけれど。喜怒哀楽を共にすることを単純に嬉しいと思える気持ちは、いつでも彼と一緒だ。 遥はそっと箸を置く。 「……今日」 「うん?」 「……ここに来れて、よかった」 今出せる精一杯の勇気だけは、どうか受け取ってほしい。 湊はぱちくりと瞬きをしてから、こちらが恥ずかしくなるほど嬉しそうに笑った。 ↑main ×
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