「は……?」

口を僅かに開けたまま、ガス灯で橙に染まった恋人の横顔を見つめる。湊は何と言ったのか。温泉? それはよしとしよう。ここまでの道なりにも饅頭屋が軒を連ねていたのだから。――では、旅館は?

「旅…館……?」

「うん」

「まさか…泊まる気か」

「そりゃ、そういう場所だし」

「なっ…何も用意してないだろ! 着替えとか…」

講義が終わるなり外へ連れ出されたため、家に戻って荷造りする暇もなかった上、行き先さえ伏せられていたのだ。財布や携帯など、ごくごく最低限のものしか持ってきていない。
狼狽える遥をよそに、にやけた恋人はとんとんと自らのリュックを叩いてみせる。準備万端、と言いたいのだろう。遥はさらに憤慨する。

「何でこんなことまで隠してた! だいたい、突然泊まりに行く意味が…」

入口で騒ぐ二人に気づいたのか、奥からしずしずと仲居が近づいてくる。遥はぱっと口をつぐんだ。

「お疲れ様でございました。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「はい。二名で予約していた小宮といいます」

背後からの声に慌てて表情を引き締め、くるりと振り返った湊が淀みなく答える。仲居は湊以上に完璧な笑みを浮かべて頷いてみせた。

「小宮様でございますね。当旅館をご利用頂きありがとうございます。どうぞ、こちらへ」

すっ、と丁寧な仕草で館内を示され、はーい、と素直に返事をした湊が遥の手首を掴んで向かう。離せとばかりに腕をぶんぶん振るが、当人は鼻歌でも歌いかねないほどの上機嫌だ、気にする様子もない。

「あちらで宿帳のご記入をお願い致します」

「はい。遥、そっちで待ってて」

受付の前でやっと解放され、遥は釈然としない気持ちのまま手近なスツールに腰を下ろす。

「はぁ…」

何を見せられても驚かないつもりではあったが、さすがに予想の範疇を越えすぎていた。道理で湊が浮かれきっているわけだ。こっそりため息をついて、遥は内装を見渡す。
向かいに飾ってある桐箪笥は、祖母の綾子が嫁入り道具として持っていたものに似ている。コチコチと時を刻んでいる壁掛け時計も実にレトロだ。ホテルの広いロビーもいいが、こういうこじんまりとした場所のほうが遥は落ち着く。実家の居間のような、昭和の香りも悪くない。
浴衣姿の男女が玄関へ横切っていくのをぼうっと眺めていると、ぽんと肩を叩かれた。

「お待たせ。行こっか」

少々重い腰を上げ、遥は仲居と湊の後をついていく。重厚な木の廊下を渡ってすぐ、仲居が部屋の前で立ち止まる。やはり旅館自体があまり大きくないようで、部屋数も限られているらしい。隣室のドアはかなり先にあった。
靴を脱いで襖を開けると、そこそこ広い部屋に整然と畳が敷き詰められていた。中央に大きなテーブル、その周りに分厚い座布団を備えた座椅子が集っている。荷物を壁際へ押しやって、遥はふかふかの座布団に腰を沈めた。二人きりではもて余しそうな広さだが、よくよく考えれば彼らの住居の居間も似たようなものだ。ただ、あちらは物が多いせいでここより雑然として見えるのだろう。仲居が淹れてくれた茶を冷ましながら、遥は窓際を見やる。障子で区切られた少々のスペースに、机と籐椅子が二脚。窓からは緑が多く臨める――らしいが、今は日も落ちかけており、石灯籠から覗く仄かなオレンジに染まっている。

「夕食のお時間ですが…」

「じゃあ、19時で…」

湊は仲居と食事の段取りを決めている。そろそろ緑茶も温くなってきたので、啜りつつ数字を記憶する。大浴場の利用時間くらいは聞いておかないと損だ。

「では、ごゆっくりお寛ぎ下さいませ」

三つ指をついてお辞儀をしてから、仲居はすっと無駄のない動作で襖を閉める。向き直るなり、遥はつっけんどんに湊を促した。

「で」

「ん?」

「何でこんなところに連れてきた。理由くらいあるだろ」

「んー、理由ね。あるよ、うん」

湯呑みを掴んだ湊は一気に茶を流し込み、満面の笑みを遥に返してきた。

「今日は何の日でしょー?」

「? 祝日は明日だろ」

と言いつつも明日の勤労感謝の日が関係しているとは到底思えず、遥は困ったように眉根を寄せる。湊は楽しそうに人差し指を振った。

「今日だよ、今日。11月22日」

遥はますます困惑する。宿泊という大イベントを盛り込むに値する出来事が、過去のこの日に起こったのだろうか。二人が結ばれたのは6月。それくらいなら遥も記憶に残っている。初めてキスを交わしたのも同じ日だ。しかし、初めてデートに行っただの初めて手料理を食べただの、そんな事細かいことまでは覚えていられない。日記をつける習慣もない。
深刻に悩む恋人をよそに、湊はむーっと唇を尖らせる。

「わかんないー? 俺毎年言ってるのにー」

「え」

ということは去年も同様のイベントがあったのだろう。しかし記憶の襞を探り出してもそんなことは浮かばない。痺れを切らした湊は、座椅子から転がるようにして遥の隣へ迫ってきた。

「今日はいい夫婦の日じゃん!」

「…は……?」

たっぷり三秒間固まってから、脱力。思った以上に下らない――もとい、湊らしいことだった。いや、それよりこれも毎年言うが、

「…夫婦になった覚えはない」

「そんなぁ。もう同然じゃん、ねぇ!」

「っ!」

ぎゅうっと勢いよく抱きつかれ、遥の体は二枚続きの座布団に沈み込む。のし掛かってくる駄犬を退かそうともがくが、至近距離で瞳がかち合うと動くに動けなくなる。

「ごめん」

「え…」

少しばかりしょげた様子の恋人に、遥も気勢を削がれてしまう。謝られては尚のことだ。

「内緒で連れてきたこと。謝るよ。遥の都合も聞かないで、ごめんな」

「……べ、つに…」

そうやってしおらしくされると、こちらも頭ごなしに怒るわけにはいかない。緩い否定を口にすれば、湊はふっと笑って遥の頬にすり寄る。

「そりゃね、夫婦じゃあないよ。でも、弾みをつける理由としてはまぁ許されるかなって感じでさ。…ほんとはそんなのどうでもよくて、明日休みだし、寒くなる前に一緒にどっか行きたいなーなんて思っただけで」

「………誰も」

「ん?」

「誰も…迷惑なんて言ってないだろ…」

耳元を掠める、精一杯の譲歩。
触れた頬が熱いのは、 暖房が効いているせいだろうか。そんなことはないといいな、と湊は微笑みながら思う。

「うん。よかった」

ちゅ、と一瞬だけ唇を奪うと、すかさず背中を殴打される。これもご愛嬌だ。

「ここの温泉、打ち身にも効くから平気だもんね。俺もやり返しちゃおーっと」

「なっ……やめろ、馬鹿…っ」

「あ、馬鹿は温泉でも治らないな。諦めて」

そんな軽口に笑顔を交えながらこちょこちょとくすぐられ、遥はその手から逃れようと必死に身をよじる。コート越しだというのに、相も変わらず敏感なようだ。満足した湊はようやく体を起こし、遥の両手首をぐいっと引っ張る。

「夕飯まで時間あるから、散歩に行こ?」


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