冬晴れの下、大学の正門を背にして佇んだ影が、首元を覆っていたマフラーをそっと緩める。11月も半ばを過ぎ、本格的な寒さに対抗するべく防寒具を卸してきたものの、今日は冷え込みも幾らか和らいでいる。もちろん日が落ちれば気温も下がるので、首に巻いてきたそれを持て余すことはないだろうが。

「…まだ来ないか」

つい先日、周囲に勧められるがまま新調したスマートフォンを取り出し、ディスプレイを表示させる。今まで使っていた折り畳み式の携帯電話とはまるで仕様が異なるため、三日三晩かけて湊から使い方を教わった代物だ。大学生の九十五パーセントが使用しているらしいメッセージアプリについては、いつの間にか佳菜子や翼のぶんまで友達登録がなされていた。果ては姉の晶までが"祝"のスタンプを連打してきたほどだ。
指をスライドさせてキーロックを解除し、メッセージアプリをタップするが、何も通知は来ていない。それもそのはず、待ち合わせの時刻まではまだ十五分ほど猶予があるのだ。今頃湊はバイト先から駆けつけていることだろう。それにしても。

「あいつ…どこに行く気だ」

『三限の講義が終わったら、正門で待ち合わせしよ』

温もり醒めやらぬベッドの中、寝ぼけ眼で聞いた台詞はそれともう一言。出掛けたい場所があるんだ、というひどく抽象的なものだった。すぐに湊は朝一の講義へ発ってしまったので詳らかには聞けずじまいだったが、こういった願い出は珍しくもない。寒い季節は特に遥の引きこもりが加速するため、大学へ行くついでにデートをしてもらおうと、湊があの手この手で攻める羽目になるのである。無論、そうした事情を呑み込んでいる遥はすげなく断る――フリをしつつも最終的には承諾している。やや遠回りではあるが、それも通過儀礼の内だ。

「ん?」

不意に、ディスプレイの中心へ黄緑色のポップアップが現れた。

『遥発見! 俺はどこでしょー?(^^)』

一瞬だけ目を瞠ってから、ふぅと息を吐き出す。呆れと安堵の入り混じったそれが風へ流れた先に、遠くで手を振る人の姿が見えた。

「子供か…」

タップして既読の印をつけてから、左、の一文字を打ち込んで送信する。即座に既読が返され、デフォルメのクマが微笑むスタンプを寄越された。それのみだと真意が読めないため、文字には文字で返してほしいのだが。

「やっほー、待たせてごめんな」

モッズコートの裾をはためかせ、湊がにこにこと笑いかけてくる。短く頷いた遥は、背負われたリュックを見て意外そうな顔をした。

「荷物…多いな」

普段ならショルダーバッグに何でも詰め込んでしまうのだが、バイト先で何かもらったのか、これから向かう場所に関係しているのか、彼のリュックは少し膨らんでいる。ふふん、と湊は何故か嬉しそうに胸を張った。

「ちょっと、ね。あ、バス来てるからそろそろ行こっか」

「ん……」

どうやら行き先については秘密にしておきたいらしい。この浮かれ具合いから察するに、ありふれたデートスポットではなさそうだ。

(まぁ…いいか)

少なくとも、自分が嫌がる場所には連れていかないだろう。それさえわかっているならサプライズでも何でも好きにすればいい。
背を押されるままに正門横のバスへ乗り込み、暖かな車内のシートと恋人に身を委ねる。

「どこで降りるんだ」

発車したバスが速度を上げると、遠ざかる景色を横目に遥が口を開く。向かう先は訊かないが、これくらいはいいだろう、ということだ。隣の湊も素直に応えてきた。

「駅だよ」

相変わらず要領を得ない。が、電車に乗り換えるということは割と遠出に値するものだと見当はつく。ふうんと気のなさそうな返事をして、遥はシートにもたれて頭を傾ぐ。着いたら起こせと目で伝えると、心地よい揺れにそっと眠気を預けた。



「遥、じゃがりこ食べる? はい」

田舎町の風景を映し出した車窓の隣、向かい合って菓子をつまむ。同じく駅のコンビニで調達した温い茶を飲んで、ひと息。湊はというと、腹が減っていたのか惣菜パンに夢中だ。

「…夕飯、入るのか」

この調子だと夕食は外でとることになりそうだ。特製ソースのコロッケにぱくついていた湊は、顔を上げて大きく頷いた。

「もちろん。おいしいもの食べるからね」

推論は当たったようだ。しかし、まさか食事だけが目的というわけではないだろう。『隣町のフレンチレストランが有名なんだ』などと生意気な台詞を吹っ掛けられた日には、呑気な横っ面を張り倒してやらねば。
やがて車両は町を離れ、山間部を縫っていく。山あいの線路を進むにつれ、徐々に遥の不安が募ってきた。このままどこともわからない場所で、湊は心中でもする気ではあるまいか。妙にそわそわしているのも、いやに明るい雰囲気なのも、この世の最後を楽しもうという境地に至ってのものかもしれない。――さすがに考えすぎか。そもそも命を絶つ理由がない。
憶測にも綻びが生じ始めた頃、湊がぐっとリュックを掴んで立った。

「次で降りるよ」

降りた先は、夕焼けを帯びた田園地帯だ。とはいえ電車が通っているくらいなので人家は多く、先に学校のような建物も見える。水色の看板はスーパーマーケットか。促されるまま、再びバスに乗り込む。

「まだなのか」

「このまま十分乗って、降りたら五分歩いて到着」

焦れて先を急く遥に、あくまで湊は答を提示することなく淡々と予定のみを述べる。さすがにそろそろ歯痒くなってくる頃合いだが、ここで悔しそうな顔をしても湊を喜ばせるだけだ。こうなったら、どんな場所であっても驚かないくらいの心持ちでいなければ。
席数十五ほどの小さなバスは林を抜け、川に沿った緩やかなカーブを曲がる。遠くに高い山々が広がっているが、まさかあんなところまで行く気ではないだろうな。心中説が息を吹き返しそうになる。
幅の細くなった川にかかる橋の前で、バスは二人を下ろしていく。書かれた時刻表によると今日の便はあとひとつきりだったが、遥は見ていなかったようだ。去っていったバスを右手に、湊は分かれ道を歩き始めた。

「合ってるんだろうな…」

「大丈夫だって。ちゃんと地図見てるから」

やや心配そうに尋ねた遥へ、スマホを振りかざして湊は笑う。画面をちらりと見ることができたが、依然行き先はわからないままだ。並んで歩きながら、思わず湊の袖を掴む。遥の不安を感じ取ったのか、その手に指を絡めて湊は苦笑を浮かべた。

「ごめんな、こんなとこまで付き合わせて。もうすぐ着くから心配しないで」

幸い人目もないため、握られた手をそのままに、遥も小さく頷く。ほら、と安心させるように湊は前方を指差した。

「あれでわかるかな」

「……?」

道の開けた先には、無数の箇所からふわふわと煙が立ち上っている。大正ロマンさながらの洒落た建物が並び、浴衣姿で店の軒先を覗く人々もいる。河原のそばでは縁日のようなイベントも催されていた。

「わかんない? じゃあ近づいてみよっか」

店先にぶら下げた提灯に照らされ、上る湯気と木枠の中で蒸される膨らみが露になる。角を曲がり、石畳の小路を抜けていけば、暖簾の掛かった玄関口が眼前に迫った。それを背景に、くるりと振り返った湊がさも楽しそうに片手を広げる。

「というわけで、正解発表。行き先は温泉旅館でーす!」

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