「ま、私の好みではないがな」

何故か自信ありげに翼が締めくくったところで、佳奈子はくるりとかりんに向き直った。

「かりんちゃん、なんで怒らないの? あいつ、こんな大事なこと黙ってたんだよ? おかしいじゃない」

「それは…」

眉を寄せたままの佳奈子から目を逸らし、かりんは曖昧に口を開く。
怒りは湧いてこない。凌也が決めたことなら、信じて待っていればきっと大丈夫だ。ここでおろおろしたら、恋人を信用していないことになる。
──けれど。いくら凌也が抵抗しても、どうにもならないことだって世間にはある。彼女や翼ほどではないが、凌也だって良家のお坊ちゃんに違いはない。本格的に婚約者を選ぶ話になれば、どう考えても自分は介入できない。それどころか、凌也の両親を裏切る形になってしまう。自分たちさえ幸せなら、本当に何をしてもいいのだろうか。
閉口したかりんを見やって、佳奈子は自分の気を落ち着かせるように続けた。

「そりゃね、わかってるよ。守山のことだもの、こんなことくらいじゃ揺らがないだろうって。でもさ、言わなきゃわかんないこともあるじゃない。隠そうとしないなら、せめてかりんちゃんくらいにはさ…」

佳奈子だって凌也のことを疑っているわけではないのだ。ただ、彼女の性格上、こうしたことは黙っていないで共有するのが筋だろうと言いたいのだろう。ちらり、と意見を求めるべく佳奈子は湊に目をやる。

「んー、まぁな。どっちもありだとは思うよ。それが守山の"信用"の仕方なんだろうし」

「むー」

佳奈子は納得いかないとばかりに眉をつり上げた。

「…桜井さん」

すがるように名前を呼ばれ、成り行きを傍観していた遥はびくりと身をすくませる。

「桜井さんなら、どうしますか? もし、小宮さんにこういうお話が来て、教えてもらえなかったとしたら…やっぱり、嫌ですか?」

この中でかりんの立場に一番近いのは遥だ。彼がどんな反応を示すのか、かりんは興味があった。

「そ、れは……」

まさか話を振られるとは思ってもみなかったのか、遥は耳をほんのり赤らめて困惑している。いつもの雑談なら"そんなの知るか"とでも返すのだが、如何せんこの状況では避けるわけにもいかない。が、湊の期待するような視線も厄介だ。

「ちょっと来い」

「ふぇっ」

かりんのコートの袖を掴んで遥は立ち上がる。驚いたかりんもおずおずと後をついていき、二人はリビングを出ていった。聞きたかったなぁ、と背後で湊の嘯く声がする。

「…俺なら、殴る」

「えっ」

ぎょっとしたように目をみはったかりんだが、なるほど遥ならあり得そうだ。そしてあながち比喩でもない。

「そんな大事なことなら、相談するのが当然だ」

「そうなんでしょうか。…でも、先輩は…」

そう言いかけたところで、遥の眉根がきゅっと寄るのがわかった。かりんは反射的に頭を下げる。

「ご、ごめんなさい! あの、何か…?」

「お前は何がしたいんだ」

静かに放たれた言葉には、少々の呆れと心配がこめられていた。怒っているわけではないらしい。

「さっきから、守山が──先輩がどうのこうの、それしか言ってない。そんなことより、お前はどうしたい」

「え…」

お前はどうしたい。
その一言で、かりんははっと我に返った。

「僕の、したいこと…」

そんなの考えもしなかった。だって、自分にとっての凌也は常に正しくて、誠実で。彼の言動を尊重することが即ち、彼を信頼するに等しいと感じていたのだから。

「お前は…何でも守山の言う通りにするのか。少しは自分が思ってることをはっきりさせろ」

つい厳しい口調になってしまったせいか、遥はぷいとそっぽを向いて黙り込む。湊や佳奈子ならうまくオブラートに包めるのだろうが、遥はよくも悪くもはっきりし過ぎているのだ。

(あれ? 前にもこんなこと、あったような…)

ふと脳裏に蘇りかけた記憶は、形になる前に霧散してしまう。いったいどんなことがあったのか、ちっとも思い出せない。
いや、今は目前の課題を片づけなくては。かりんはそっと両手を胸にあてる。
正直に言えば、こうして発覚する前に凌也の口から聞きたかったと思う。信じてはいるけれど、見合いを断るのだろうというのは今の時点では予想でしかない。そうではなくて、きちんと断ってくるから待っていてほしい、と直接言ってくれたのなら、もう少し落ち着いていられたかもしれない。
そうだ、とかりんは納得する。自分は不安だったのだ。
だから傍目に見てもおかしいくらいに、彼なら大丈夫、とおまじないよろしく繰り返していたのか。

(僕が、したいことは…)

靄は晴れた。
彼の口から、答を聞きたい。ただ、それだけだ。

「その……さっきのは、あくまで他人の意見だ。参考にならないなら別に…」

かりんが黙りこくってしまったのを見てか、遥は気まずそうに口を開く。それがなんだか微笑ましくて、かりんはくすくすと笑みをこぼした。

「そんなことないですよ。ちゃんと、わかりましたから」

口下手な遥にとって、叱咤は応援と同じだ。初対面の人間ならいざ知らず、付き合いのあるかりんならそれもわからなくはない。

「ありがとうございます、桜井さん」

しかし、かりんに泣かれるならまだしも笑われるとは、遥も予想外だったらしい。複雑な思いを抱えながらも、真意が伝わったのなら、と胸をなで下ろした。

「とりあえず、先輩にお電話してみますね」

リビングへ戻ろうとドアに手をかけたかりんに、余計なことだろうかと感じつつも遥はひっそりと呟く。

「出ないと思うぞ」

あの凌也のことだ。進路はともかく、退路だけは確保するタイプである。素直に電話に出るとは考えにくい。
あはは、とかりんは困ったように笑った。

「僕も、そう思います」



「あたしの分までビンタしてきていいからね、かりんちゃん」

「は、はい…考えておきます」

荷物を整えながら、かりんは曖昧に笑って頷く。佳奈子はまだ仏頂面でソファを陣取っていたが、不意に体を起こし、自らのバッグをあさり始めた。やがて、手のひらサイズの赤い何かが顔を覗かせる。

「これ持っていきなよ。スカッとするから」

ピコンッ、と小気味良い音を立てて、それは近くにあった翼の頭部に直撃した。

「おい、なんだいきなり!」

「え、ピコハンだけど。はい、かりんちゃん」

「あ、ありがとうございます。…ほにゃ!」

小さなピコピコハンマーを受け取り、かりんは大事そうにリュックへおさめる。すると目の前に、かわいらしい巾着袋がにゅっと差し出された。

「ふぇ…?」

ずしりと重量のある包みを両手で受け取り、ぱちぱちとかりんが目を瞬かせる。自前のエプロンをほどきながら、湊はにこりと笑いかけてきた。


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