「ん……?」

不意に覚醒した。寝たまま壁の時計を見やると、ちょうど9時を指している。

その時、階段をだだっと駆け上がってくる音を耳にした。祖母と二人暮らしのはずなのに、何故こうも騒がしい音がするのだろうか。

「起っきろー!!」

バタンと勢いよくドアを開け放った主は、眼鏡をかけていなくても容易に想像がついた。

「朝から何の用だ。というか、他人の部屋に勝手に来るな」

起き上がることもせずに、唯一友人と呼んでやってもいい目の前の奴を睨む。

「綾さんに起こして来いって言われたんだけど」

「は?」

綾さん、本名桜井綾子とは俺の祖母のことだ。ちょくちょくこいつが俺の家を訪れるため、すっかりこいつ──小宮は祖母のお気に入りとなってしまった。小宮君、綾さん、なんて呼び合う傍ら、俺の疎外感も少しは察してくれないだろうか。

「"遥ったらまだ寝てるの。きっと夜更かししてたんでしょう。小宮君、起こして来てくれる?"って言われた」

「誰だってそうだろ…昨日は」

今日は1月1日。昨日は12月31日、つまり大晦日だ。そして、俺が就寝したのは午前2時。

「俺、実は寝てないんだよねっ」

得意げに笑う小宮に呆れつつ、俺はようやく体を起こした。それだけでバキッと鳴る体の節々が情けなく思える。長期休暇故の運動不足は否めないようだ。

「綾さん、お節とお雑煮作って待ってるってさ。俺も食っていい?」

「好きにしろ」

何故、新年早々からこいつの顔を見なければならないのか。
それはまぁ、今年も世話になるという暗示なのだろう。




「ありがとう、小宮君。もう、お雑煮が冷めるかと思いましたよ」

ありがとうと礼を言われるほど俺の寝起きは悪かったのだろうか。思い返してみれば、夢の中で何度か祖母の声が聞こえたような気がしなくもない。
いつも通り割烹着に身を包んだ祖母は、せっせと台所と居間を往復していた。ちゃぶ台には既に、いくつものお重が並べられている。

「こんなに食べきれるのか……?」

訝しげに眉根を寄せると、作り過ぎたのね、と祖母がわざとらしく言った。

「だから、小宮君が来てくれて助かったわ。たくさん食べてね」

「はいっ!」

祖母の態度が気になったが、きらきらと輝く小宮の瞳に気圧され、黙って箸を取った。

「手作りってすごいですよね。俺の家はコンビニの物ですよ、お節」

伊達巻を頬張りながら、小宮が祖母に笑いかける。口の中がちらちら見えて、はっきり言って汚いんだが。だがそこは小宮とでも言うべきか。言わずとも伝わったらしく、俺の顔を見るなりごくんと伊達巻を飲み込んだ。

「あら、じゃあコンビニの味に勝てるといいけれど」

「いや、美味しいですよ伊達巻」

俺の取り分のことなど、最初からこいつの頭には無いようだった。黒豆に数の子、海老などを猛スピードで口に収めていく。そんな様子を眺めながら、俺は某掃除機のコマーシャルを思い出した。

「あのさ、お前……」

「ふぁひ?」

そしてまた垣間見える、汚い口内。

「……何でもない」

伊達巻だけはとりあえず確保して、俺は雑煮を食べることにした。甘いものは少々苦手だが、正月に縁起物のひとつくらい食べなければ無粋ではないか。

「そうそう。小宮君、これ、少しだけれど」

「えっ! いいんですかっ?」

小宮の口の中が空っぽの状態を狙ったのかはわからないが、祖母が小さな封筒を差し出す。要はお年玉というわけだ。

「ありがとうございます。お節とお雑煮だけでもお年玉みたいなものなのに」

「今年も遥をよろしくね。根は悪くないんだけど、人に対して厳しい方だから」

後半部分は自覚しているから、俺は反論などする気も無い。

「あ、はいもちろんです。俺の方こそ仲良くして欲しいですし」

そうなのか。まぁ今更知ったことじゃない。
心なしか、祖母はとても嬉しそうだった。再度"よろしくね"と言い、門松を飾りに外へ出て行く。

「そうだ! お前、ちゃんと年賀状出してくれたよなっ?」

俺は答えず、黙々と雑煮を口に運ぶ。頭の中で、どう言い訳を繕うかと思案しながらだ。

「……あれ? 桜井さーん」

「来たら出す」

「未来形かよ! しかも時や条件を表す副詞節!?」

「そしたら現在形だろ」

「あ、そっかそっか。……あのさ、その、数学の問題集の方……終わりましたでしょうか?」

いきなり下手に出た小宮の狙いはもちろんわかっている。

「休み前に終わってる」

「さすが95点! 貸してくれるよなっ?」

冬休み前の単元テストの点をわざわざひけらかし、小宮は俺の肩を抱いた。

「……古典のワーク貸せ」

「言うと思ったぁ」

したり顔で笑うと、小宮は自分のスポーツバッグをごそごそ探り始める。

「ほら。お前のも寄越せよな」

俺に古典のワークを手渡し、よっしゃあ、と小さく拳を握り締めた。

「これで数学は難なく終わるぞっ」

それはお互い様だ、と言うのは癪だから黙っておく。それにこいつなら、それくらい言わずともわかっているはずだ。
数学の問題集を取りに行くべく、俺は居間を出て先程の自室へ向かった。

「あ……?」

珍しく。本当に珍しく、携帯のライトが点滅していた。小宮はここに居るのだから、俺にメールを寄越す奴などほぼ居ないはずなのだ。あいつしか友達がいないことに関しては別に否定しない。

「誰だ……?」

携帯を開いて確認すると、それは久しく会っていない親からだった。


『新年あけましておめでとう。こっちも寒いんだから、そっちはもっと寒いわね。
遥は風邪引いてない? お父さんはここ数日寝込んでるのよ。でもお酒は飲んでるの。まったく……
年末年始なのに、そっちに顔を出せなくてごめんなさい。
今年こそは行こうと思ってお義母さんにも連絡しておいたのに、急に行けなくなっちゃったの。お正月だから、って団体のお客さんが入っちゃって。
お義母さんとたまに電話で話すけど、あなたとはあまり時間が合わなくて話せないの。
元気でやっているようで何よりです。晶はバイトと大学で忙しいみたいね。
こっちもなんとか二人で頑張っています。遥も晶も頑張っているんだもの、私たちだって負けないようにしないとね。
それじゃ、体に気をつけてね。何かあったら連絡するのよ。
私もお父さんも、子供たちの成長を遠くから見守っています。』


普通なら、正月なのだから年賀状を寄越すだろう。だが忙しい両親にはそんな暇など無いし、メールだってかなり必死で打ったのだと思う。

「ずいぶん会ってないな……」

その時、階下から俺を呼ぶ声が聞こえた。

「桜井ー、早く戻って来いよー! お節全部食っちゃうぞー!」

そうだ、と本来の目的を思い出し、俺は机の本棚から問題集を抜き取った。



「問題集ありがとな。綾さん、お節とお雑煮、とっても美味しかったです」

帰り際、玄関で靴を履いた小宮は祖母に微笑んだ。

「いいえ、助かったわ。私と遥だけじゃ食べきれなかったもの」

確かに、と今更ながら納得する。祖母は少食で、俺だって成長期といえども二人分を食べられるかどうかといった感じだ。小宮の絶対的な吸引力のおかげで、お節も雑煮もほぼ空になっていた。

「それじゃ、お邪魔しました」

がらがらと引き戸を閉めて小宮が帰った後、俺はふと気になっていたことを思い出した。

「あのお節と雑煮、姉貴と母さんと父さんの分……なのか?」

あら、と祖母は驚いたように目を見開く。

「そうよ、帰ってくるって言ってたんだもの。小宮君が居なかったら明日もお節だったでしょうね。……あの子たちが帰って来れないってことは、あなたには知られたくなかったの。会えるのに会えないっていうのと、会えないから会えないっていうのは大きく違うでしょう?」

「ああ……でも」

俺は手にしていた古典のワークを眺める。

「俺は寂しくない。あんな奴でも友達は居るし、おばあちゃんも居るしな」

普段呼ばれない呼び方に、祖母は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに微笑みに変えた。

「遥が大人になるまでは、お迎えが来ても断りますからね」

やはり、というか予想していた通り、冗談に聞こえない冗談を言って祖母は居間に戻ろうとした。

「そうそう。……お返事はちゃんと返しておいてね」

「え」

ふふ、と何もかもお見通しのような笑いを浮かべ、今度こそ居間に戻って行った。

「……課題やるか」

もちろん、打ち慣れないメールを頑張ってから、だが。


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