「えへへっ、プールなんて久しぶりですね。楽しいです」

「そうか。よかったな」

いくらか泳いだところで水中から顔を出し、かりんはふるふると頭を振ってみせる。ぺしゃんとおとなしくなった頭を撫で、凌也は満足げに頷いた。はい、と笑ったかりんは、ふと視線を隣のプールへ移した。
そこは着水用の狭いプールで、八の字の浮き輪に乗った若い男女が細いトンネルの出口から水飛沫を上げてプールに飛び出してくる。そのトンネルはというと、ぐるぐると螺旋状に巻かれたものが階段をいくつも上った先に続いていた。ちなみに階段には順番を待つ大人子供が列をなしている。

「乗りたいのか」

凌也の言葉ではっと我に返ったかりんは、照れを隠すように顔の前で手を振った。

「え、あ、そういうわけじゃないんですけどっ…」

とはいえ凌也も長年の付き合いである。かりんは遠慮がちなだけで、ああいうアトラクションに憧れているのも知っていた。

「ウォータースライダーでしょ? 守山、一緒に行ってあげなさいよ」

横からひょこりと佳奈子が顔を覗かせたが、凌也は緩く頭を振る。

「俺はあまり好きではない」

「えー、つまんない男ね。あ、じゃああたしと乗らない? かりんちゃん」

佳奈子の誘いに、かりんもぱっと顔を輝かせた。やはり本当は乗り気なのか、と凌也も苦笑する。ひとりで乗るほどの勇気はないが、誰かとならなんとなく行ける気がするらしい。

「いいんですか?」

「うんうん。あたしも気になってたんだー。行こ行こっ」

未だ水に顔さえつけられない翼を指南(拷問に近いが)していた湊に声をかけると、彼もまた童心にかえったようだった。

「へー、いいな。乗ろうよ遥」

「誰が乗るか」

遊園地などの絶叫系を始め、スピードだとかスリルだとか、少しでも恐怖心を煽られるアトラクションには遥は絶対に手を出さない。幼い頃はブランコでさえ乗れなかったほどだ。水の勢いに任せて狭路を滑り下りるなんて冗談じゃない。考えただけでも身震いしてしまう。
すげなく断る遥にしゅんと湊は落ち込んでみせるが、こんなのは想定済みである。でもなんとしても乗りたいのだ。列を作っている間の甘い会話、浮き輪に乗った際の密着度、着水後の達成感。そして吊り橋効果というおまけ付き。最高だ。

「お願い。一回でいいから、な? 遥とこういうとこ来たの初めてだし、ちょっとでも思い出になるようなことしたいんだ。だめ?」

なるべく優しく、されど強引に。駆け引きを存分に味わいつつ、応酬の果てに湊は勝利した。ぷいっとそっぽを向いて、頬を赤らめた遥が頷く。

「……二度目はないぞ」

「うん、ありがと」

湊は笑顔で礼を言い、佳奈子たちに続いて階段まで連れ立って歩く。かなりの高所が乗り場となっているため、なかなかの段数である。そこで既にへとへとになりそうな遥を引っ張り、やっと列の最後尾にたどり着いた。

「う…」

下に広がるプールを見つめ、遥が何やら苦い顔をする。たぶん、この場所が予想より高かったのだろう。はしゃいでいる佳奈子やかりんとは対照的で、滑り落ちていく少年少女たちが悲鳴混じりの歓声を上げる度に、プルプルと体を震わせている。

「大丈夫だって。ほんの一分くらいだし」

「うるさい。か、帰る…」

「だーめ」

おずおずと乗り場に背を向けた腕を掴み、湊は前へ詰めていく。泣きそうな表情の遥を見つめ、思わずふっと笑ってしまった。
本当は怖くて仕方ないはずなのに、遥はすぐ自分にほだされてしまう。今も、必死で不安を打ち消そうとしているのだろう。申し訳ないと思う反面、そんないじらしさがかわいくてたまらないのだ。

「ありがと。遥、大好き」

後続の家族連れに聞こえないよう耳元で囁けば、こんな場所で言うなとばかりに睨まれる。だが相変わらず頬は赤い。
やがて佳奈子たちに順番がまわってくると、彼女はドーナツを繋げたような浮き輪に嬉々として座った。かりんも後ろに腰を下ろし、横についている取っ手をしっかりと掴む。

「では、いきますよー。よいしょっ」

係員の男性が浮き輪を後ろから押してやると、流れ出る水に乗ってゆっくりと動き出す。振り返った佳奈子が、先に待ってるよ、というふうに湊たちへ手を振った。浮き輪がトンネル内部に侵入し、あっという間に彼女たちは流されていった。歓声の余韻が奥から響いてくる。

「では次の方、どうぞ」

「はーい。ほら遥、乗って」

同じく入口にセットされた浮き輪を前にして、遥はごくりと唾を呑み込む。どうやら覚悟を決めるしかないらしい。促されるままに前方の浮き輪の凹みに座り、軽く諸注意を受ける。取っ手をもぎ取らんばかりに握りしめていると、押された浮き輪がだんだんと内部に呑み込まれていく。遥はぎゅっと目をつむった。

「そんなに怯えなくてもいいのに。っと! おー、速い速い」

ついに水の流れへ巻き込まれた浮き輪は、突如ブースターでも付いたかのようなスピードを見せる。勢いよくカーブを曲がり、直線でさらに加速する。遥は目を閉じたまま、振り落とされないようにと取っ手を握った手に力をこめた。怖いというより、早く終わってくれと祈る気持ちのほうが強かった。

「はーるかっ」

「っ!」

湊が器用に体を前屈させ、背後から優しく遥を抱く。絶対に体勢を崩すなと係員に言われたばかりだが、湊はお構いなしにペタペタと体に触れてきた。それがくすぐったくて、怖さが少しだけ和らいだ気がした。

「ここなら二人きりだもんね」

先程からやたらとくっつきたがっていた湊だが、まさかウォータースライダーの目的はこれだったのかと遥は驚く。いや、単にアトラクションを楽しみたい気持ちもなくはないのだろうが。
程なくして出口が見え、たっぷりの水を湛えたプールへと浮き輪が飛ばされる。派手に散った飛沫に驚いたが、やっと現実世界へ帰ってこれたのだと思うとほっとした。

「お帰りー。楽しかったよね遥ちゃん!」

浮き輪を係員に預け、湊と共にプールサイドへ歩いていくと、先に上がっていた佳奈子が手を振ってくる。正直言うとさほど楽しいとは感じなかったし、きっともう乗ることはないだろうが、まぁ非日常が体験できたのだから無駄ではない。そうだなとおざなりに返すと、端から聞いていたらしい湊が小さく笑ったのがわかった。

「ありがとな。付き合ってくれて」

「…うるさい」

改まって言われると照れくさくて仕方ない。湊に背を向け、遥は佳奈子たちに追いつこうとする。はいはい、と湊も苦笑を浮かべて早歩きに切り替えた。写真を撮るのに待機していた凌也と翼は、嬉しそうに画面を見返している。

「あんた下手ね、手ぶれひどすぎ」

「しょうがないだろう。いつ来るかわからなかったから、ずっと構えていたんだ」

そしたら腕が疲れてきて震えてしまったのだと、翼は佳奈子に向かって口を尖らせる。一方で、さすがデジカメというべきか、凌也の写真はかりんの笑顔が鮮明に映っていた。


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