突然だが、遥はベンチに座ってうなだれていた。露わになった膝を抱え、エネルギーに満ち溢れた外界を遮断する。物理用語で言えば完全なる孤立系である。パーカー越しの腕に額をくっつけられるのも即ち眼鏡をかけていないからであるが、視覚以外の四感からでもフレッシュな空気が十二分に伝わってくる。何ともまぁ、場違いなところに来てしまった。
そこへぬっと湊が姿を現し、相変わらずの様子に苦笑を浮かべて遥の髪を撫でる。

「遥? なぁ、そうやってても暑いだろうし…せっかく来たんだから、水に浸るくらいは…」

「嫌だ…」

ぶつぶつと孤立系の中で呟き、遥は顔を上げようとしない。湊に唆されて、涼みに行くだけなら、と了承したことを今更ながらに悔やんだ。なんだ、この空気は。そこら中で弾ける若さ、爽やかさに気圧され、荷物を置いたベンチまで逃げおおせたのが十分前。あぁ、まだ十分しか経っていなかった。

「大丈夫だって。確かにまぁ、人は多いけど…」

湊もプールを見渡し、そこかしこで上がる歓声や水飛沫にうんうんと頷く。

「別に学校の授業じゃないんだからさ、ただ入るだけでもいいんだよ。水、嫌いじゃないだろ?」

うっすらと顔を上げ、遥は控えめに首肯してみせる。が、やはりこの、テーマパークやショッピングモール特有のキラキラとした雰囲気は苦手だ。どの顔も、目一杯今を楽しんでますと言わんばかり。どう考えても自分は溶け込めない。
加えて隣にはリア充の模範のような恋人がいるのだ。ほら見ろ、お前がいるせいで周りのお姉様からおば様までがこっちを向いている。自分なんかに構わず遊んでくればいいのに、と思いつつそれはそれで嫌な気もする。もう死にたい。

「ほら、おいでっ」

「! やめっ…」

手首を掴まれたかと思うと、ぐいっと前方に引かれて体が前のめりになる。慌てて両足をタイルの床につけると、してやったり、という顔で湊が腕を引き上げた。それに倣って腰を浮かせた遥を、今度はプール際まで引きずっていく。
こうなってはもう湊を止める術もない。悪戯っぽい笑顔を睨み、浅い波打ち際にちゃぷんと足を入れた。エリアにはいくつかプールがあるが、ここは海のように段々と深くなっている造りだ。細波揺らめくこの場所では、幼い子供たちが水の感触を楽しんでいる。

「こっちこっち。さすがにここじゃ浅いもんな」

遥の腕を離さないまま、湊はぐいぐいと奥へ促していく。水深が膝を過ぎ、腰の下辺りに迫ると、パーカーの裾がじわりと色を変え始めた。幸いそれ以上深くなることはなく──まぁ大人にとっては物足りないが、水に慣れるのが目的なら仕方ない。ざぶん、と水をかき分けて進む感覚も久しく経験がないので楽しい。

「あっ、遥ちゃーん!」

隣接した深めのプールから、佳奈子がぶんぶんと手を振ってくる。身近な女の子の水着を拝むことなどまずないので遥は少々焦ったが、上はタンクトップ、下はデニムのショートパンツという普段着のような格好だったのでほっとした。
彼女も今日ばかりは眼鏡をかけていない。クマの絵が描かれたボールを持ったかりんと、その写真を撮るのに夢中な凌也もそばにいた。

「あれ、夏風は?」

回ってきたボールをかりんにパスしながら、湊が佳奈子に尋ねる。さぁ?と彼女は首を傾げた。

「忘れ物した!って慌ててロッカーに戻ったけど。それよりぃ! 遥ちゃんなんでパーカー着てるの? ほらほらぁ、こっちで遊ぼうよっ」

佳奈子が水面を叩くと、バシャバシャと派手に飛沫が散る。しかし、そちらのプールの水深ではさすがにパーカーを脱がなければならないだろう。遊ぶことにはあまり乗り気でないが、それを眺めつつ風呂のように肩まで沈んでいれば涼しいに違いない。こくりと遥は頷き、パーカーを置きにベンチまでいったん戻ることにした。
プールサイドに上がってペタペタと歩いていると、男子更衣室の入口から翼が出てくるのが見えた。肩にはドーナツ状の浮き袋を担いでいる。なるほどあれが忘れ物らしい。
翼も気がついたのが、手を振って遥に近づいてくる。ちょうどベンチの前で落ち合う形で二人は出会った。

「やぁ桜井、君は何を着ても似合…あああぁ! あっ、気にしないでくれ。いや、君がいきなりパーカーを脱ぎ出すから驚いただけだ、げふんっ」

げふんっ、が大層わざとらしいのは置いておいて、翼の水着ときたらこれまたデザイナーの感性を疑うようなものだった。一言で表すとなると、目がチカチカする、というのが限界だ。腰から足首までを覆う生地には色とりどりのマーブル模様が描かれ、アクセントを重ね掛けするが如く金粉が蒔いてある。迷子センターに呼び出された際には大変便利そうだ。
畳んだパーカーを荷物の上に重ね、連れ立って佳奈子たちのプールへ向かう。ここは円形プールの直径部分に橋がかかっており、アーチをトンネルのようにくぐり抜けられる。先程の子供向けプールよりかなり深く、水は遥のへそ上まで達した。

「遅いわよ夏風! って…何それ、あんたこの年になってまで浮き輪使うわけ?」

「な、何故だ! 別に年齢制限なんかないだろうっ」

後に聞いた話では、翼は水深一メートルを越す場所では浮き輪がないと不安らしい。大事そうに浮き輪を抱きしめ、翼は常に壁に寄り添っていた。
一方の遥は顎の下までプールに身を沈め、皮膚に染み渡る涼感を味わった。そう、自分が求めていたのはこれだ。それでこそ、わざわざ暑い中を遠出した甲斐がある。
涼しささえ得られれば特に文句はない。が、強いて言うなら中腰がきついことだろうか。椅子があればいいのにと周りをきょろきょろしていると、不意に湊が大量の飛沫を連れて後ろから抱きついてきた。

「!」

「あはは、びっくりした?」

顔にかかった水をごしごしと手で拭い、遥はきつく湊を睨む。人が静かに涼を満喫しているというのに、こいつは。いや、そんなことを心配している場合じゃない。何せここは公共の場所だ。

「離れろ!」

ウエストに巻きついている腕を引き剥がそうとするが、湊は上機嫌で頬摺りしてくる。

「いいじゃんちょっとくらい。ここプールの端っこだし、誰も見てないって」

ルシ以外は、と付け足されてそちらを見たところ、抱えたボールを潰さん勢いで佳奈子がこちらを凝視していた。

「遥ちゃん肌白いぃ、はぁはぁ。かりんちゃんもかわいいわよ、細っこくて」

佳奈子にしてみれば男性陣(特に受二人)の裸体に近い姿をただで拝めるだけでも嬉しいらしい。あとでその写真よこしなさいよ、と凌也にまで詰め寄っていた。

「つーか守山、なんでプールにデジカメ持ってくんだよ。壊れるぞ」

「何を言う。この場を写真に収めずして夏は語れないだろう」

お前こそ何言ってるんだという顔で湊は口を開きかけたが、かりんがゴーグルをして泳いでいるのを動画に撮り始めたのでやめておいた。まぁ、そこらの子供を親の前で勝手に撮影するような真似さえしなければ別に構わないのだが。


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