紗千がそれだけ幼い頃ならば、凌也だって十に満たないくらいだろう。顔も知らなくて当然だ。しかし、どちらの親も年の近い息子と娘がいたことは記憶していたのか、それとも互いに連絡は取り合っていたのか、いずれにせよ二人が結ばれてくれればと考えているに違いない。

(さっちゃんは嫌じゃないのかなぁ…)

平然と語ってはいるが、心の中は複雑なのではとかりんは思う。世に言うブラコン――は失礼かもしれないが、紗千は兄である凌也を心から慕っている。女性との縁談が持ち上がったとなれば、いい気持ちはしないだろう。まぁ彼女の性格からして、見合いに行くななどと駄々をこねるような真似は死んでもやらないはずだが。

「――それで、お話したいことなのですが…」

「へ? あ、うんうん」

そういえば本題はこれだったと思い出し、かりんはしゃきっと佇まいを直す。紗千も正座を改め、かりんに向き直った。

「…かりんさんは、兄を――お兄さんをどう思っておられるのですか」

「………」

やっぱり、というのが正直な気持ちだった。ある程度は予想していたが、凌也に気を遣うことなく尋ねられるという状況なら、その辺りのことしか浮かばない。こちらに帰省している間、彼とそういう関係にあることを大っぴらにしたことはないにしても、昔とは違った雰囲気を紗千が何となく感じ取っているのはわかっていた。元々あまり自分を好いていない空気もあって、それからはまた少し、距離が遠ざかった気がしたのだ。だからこそ、こうしてきちんと話したいと言ってくれたのは嬉しかった。

「僕は……先輩が大好きだよ」

膝の上の手をぎゅっと握りしめ、かりんは少しずつ言葉を絞っていく。

「と言っても、先輩としての好き、じゃないけど…」

ちらりと紗千を窺うと、続けてください、と言うように顔色ひとつ変えないまま頷かれた。

「先輩は昔から優しくて…いろいろあったけど、僕の気持ちもわかってくれて、同じ気持ちを返してくれて…今は一応、恋人っていう立場になったけど、僕を好きになってくれてありがとうっていう想いは、ちゃんと持ってたいんだ。先輩はひとりで何でもできちゃう人だけど、もし先輩が困ったり悩んだりした時は、僕にできることなら何でもするよ。そんな…感じ、かな」

紗千は小さく頷いた。かりんはほっと胸を撫で下ろしかけたが、どうも紗千が納得を示しているわけではないとわかり、表情をこわばらせる。

「…では、お兄さんのために身を引けるのですか?」

静寂に溶け込んだ一言に、かりんは目をみはった。

「お兄さんのために何でもできると仰るなら、かりんさんにはそれができるのですか?」

「違うよ!」

思わず声を張り上げてしまい、かりんは浮かせかけた腰を慌てて戻す。

「って、ごめん…大きな声出して…」

紗千はこんなにも冷静なのに、年上である自分が感情を露わにしてしまったことが恥ずかしくて、かりんはしおしおとうなだれる。

「えと、その…それは、できないんだ。たぶん、前の僕なら”それも仕方ない”って思ったかもしれない」

めったに正座などしないせいか、足が痺れを通り越して感覚をなくしている。だがそんなことに気を留めることなく、かりんは滔々と続けていく。

「先輩が、とかじゃなくて、僕が先輩といたいんだ。そのためなら何でもできるけど、僕は先輩が望まない限りは離れたりしない。先輩が向き合ってくれるなら、自分から逃げたりしないで、一緒にいられる道を探すよ。僕は……」

どこまでも深い黒の瞳をまっすぐに見つめ、かりんは言い放った。

「僕は、逃げる覚悟でここに来たんじゃない。これからも僕と一緒にいてくれますかって、先輩に訊きたかったんだ」

能面を貼り付けていたようだった紗千の表情が、不意に一変した。それを目にしたかりんも驚いた。

「え……と、変なこと言った…かな」

先程までの勢いはどこへ行ったのか、声は尻すぼみになっていく。
紗千はふっと目を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。そして、今までで一番、優しい声が聞こえた。

「いいえ。安心しました」

「安心……?」

恋人宣言――紗千にしてみれば、君のお兄さんを下さいと言われたに等しい言葉だったはずだ。怒るならまだしも、安心とはどういうことなのか。かりんは小首を傾げた。

「そこまでの覚悟があると仰るなら、きっとお兄さんも喜びます。……私は、中途半端な方は好きではありません」

(あ……そっか)

遥の言葉がすうっと蘇る。彼と同じような雰囲気をいつか感じたと思っていたが、あれは紗千に対してだったのだ。思えば、これまでに彼女が微妙な表情を浮かべていた時はいつも、自分の優柔不断さが発揮されていた。人に気を遣いすぎて、自分の意見が言えない時は特にそうだ。遥もたぶん、そういうところが嫌だったのだろう。彼は良くも悪くもはっきりしている。
優しさと気遣いは必ずしもイコールになるわけではない。いくら相手のためを思っていたとしても、将来を悲観して離れてしまうのであれば、傍目から見ている分には確かに無責任だ。そこでどうして、自分の手で幸せにしてやろうと思わないのかと歯痒くもなるだろう。

「ごめん……今まで、さっちゃんにすごく心配かけたよね。僕、全然わかってなかった。先輩がああだからこうだからって、そんなことばっかりで」

先に想いを告げたのはかりんだ。だからこそ自分ばかりが凌也を好きで、その気持ちなんて二の次でいいと思っていた。凌也にも周りにも嫌われるのが怖くて、自分に自信が持てなかったのだ。
いいえ、と紗千は微笑んだ。とても久しぶりに見た表情だった。

「もう、大丈夫です。気になさらないで下さい」

一呼吸置いて、紗千ははっきりと告げてきた。

「かりんさん。…兄を、よろしくお願いします」

かりんはぱちぱちと目を瞬いた後、ぶるぶると物凄い勢いでかぶりを振った。

「そ、そんな、僕なんてっ……あ、いや…」

そうじゃない。たった今、学んだではないか。こくりと唾を飲み込んで、かりんはしっかりと頷いた。

「あ、ありがとう。えと……もっと、先輩からも、さっちゃんからも頼ってもらえるように、僕、頑張るから!」

心臓がどきどきと高鳴った。凌也との交際も、自分の決意表明も、どちらも紗千に認めてもらえたのだ。重たかった胸のつかえが、すっと消えていくような気がした。

「はい。期待させて頂きます」

「えへへ…」

ひとしきり笑い合っていた、その時。表の方から、ブルルル、と車の音が聞こえた。

「帰ってきたようですね」

「えっ」

びくりと肩をすくめ、かりんは紗千を見やる。凌也には会いたいが、そうなると両親にも挨拶をすべきだろう。しかし見合いの後とあっては家族で話すことも多いに違いない。困惑するかりんをよそに、紗千は素早く立ち上がった。

「様子を見てきます。かりんさんはここで待っていて下さい」

「あ、うん。ありがとう…」

紗千を見送ってから、そういえば八神家の人間がいる可能性もあるのかと思い当たる。部外者の自分が堂々と出てきたら場違いにも程があるだろう。外の鹿威しが、夜の静寂にカコンと音を落とした。

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