「あ、ありがとね。…で、いったいどうしたの?」 「………」 佳奈子の前に麦茶のコップを置き、遥はテーブルを挟んで向かいに腰を下ろす。エアコンの効いたリビングは涼しいが、窓の外からは蝉が鳴くミンミンという夏らしい音が聞こえてきた。 佳奈子が麦茶に口をつけても尚、遥は難しい顔で黙り込んでいる。呼び出しておきながら黙秘とは失礼極まりない話だが、佳奈子はだいたいの察しがついているのか苦笑をこぼしただけだった。 「言いにくいことなのかな?」 「……ん」 佳奈子のほうから言い出してくれたことにほっとしつつ、遥はそっと頷く。しかし、彼女に甘えてばかりではいられない。いくら口下手といったって、これではせっかく来てくれた彼女に申し訳ないのだから。 「そ、その……」 「うん、なぁに?」 遥がようやく口を開けば、佳奈子は優しく続きを促す。ぎゅっと拳を作り、意を決して遥は言った。 「そ、そういうきにしゃしぇ」 「遥ちゃん、ゆっくりでいいのよ」 あろうことか思い切り噛んでしまい、佳奈子に小さく笑われてしまう。羞恥をごまかすように咳払いを一つして、遥はいつも通りの口調で言うことにした。 「そ…そういう、気にさせるには……どうしたらいい」 ん?と佳奈子はきょとんとして首を捻る。 「そういう気って?」 「あ……そ、その…」 自分より透き通った白い肌が赤を帯び始めたのを見て、佳奈子はすぐに、話の矛先が湊だとわかる。 「小宮をその気にってことは、もっと好きになってほしいってこと? それともえっちしたいってこと?」 「!」 佳奈子の率直すぎる言葉に遥は驚くが、それは察しの良さも含めてのことだ。そうでなければ、人とコミュニケーションを取るのが苦手な遥が相談相手に選ぶわけない。 「つ……つまりは…後者で…」 「ふんふん、そうなんだ?」 おずおずと遥が肯定すると、心なしか佳奈子の瞳が輝いたような気がした。物言いもなんだかうきうきしている。 「遥ちゃんもそういう気持ちになってくれたなんて、小宮も喜ぶわー。あはは、嬉しさで空くらい飛べるわよ」 確かに、と遥は湊の反応を想像して思った。遥あああ!と絶叫しながら抱きついてくるに違いない。 「あ、それで……と、要は誘い受がしたいのよね、誘い受はぁはぁ!」 「い、いや……まぁ」 急にスイッチが入った佳奈子は不意に立ち上がり、遥を見下ろして叫んだ。 「そうとなればこうしちゃいられないわ。さぁ遥ちゃん、レッツ誘い受! 今夜のために練習しなきゃねっ」 「れ……」 練習。いったいどんな内容かはさっぱりわからないが、佳奈子が言うなら間違いはない。気はする。 何にせよ、湊の前で失敗せずに済むのなら彼女に頼るほかない。自分たちの夜の事情を知られるのはいくらか恥ずかしいが、それも今更だろう。遥も腰を上げた。 「……頼む」 「そうこなくっちゃね!」 ぐっと拳を握りしめ、佳奈子は満面の笑みを浮かべた。 そもそも何故遥が佳奈子に相談するような事態に至ったかというと、最近の湊との接触不足──とも言うべきか、互いに触れ合う機会が全くと言っていいほどなくなってしまったからだ。 夏休みの今、二人には自由時間が山のように与えられている。講義もしばらくないので、朝寝坊だって気兼ねなくできる。それこそ恵まれたシチュエーションだ。これで湊がその手の話を振ってこないわけがなかった。 『なぁ、……してもいいよな?』 時には風呂上がりに、はたまた寝る前に。抱き寄せられ、軽いキスと共に甘く誘う台詞が告げられた。もちろん遥だって嬉しくないわけではなかったし、応えたい気持ちもあった。ただ、現在は猛暑による夏バテでひどく体力が失われる時期であるため、簡単には了承できなかった。とはいっても遥の言葉が足りず、暑いだの鬱陶しいだのと拒否したおかげで、湊はそれ以来誘ってくれなくなってしまったのだ。バイトも夜勤続きで、夜は会えないことが多い。 最近、とうとう遥は熱帯夜に耐えかね、寝る際には布団をエアコンのあるリビングに運んで眠っている。今夜は湊も夜勤がないので、ひょっとしたらそこで一緒に寝るようになるかもしれない。 何だかんだと言いつつも、全く湊に触れられないと体がどことなくむずむずしてしまう。このままでは同室で眠ることも憚られるのだ。そして湊を自ら誘ってみようと思い立った一番のきっかけは、つい先日に湊がこぼした願望だった。 『たまには遥から誘ってほしいなぁ…』 確かに、今までは湊のほうから言ってくるのが当たり前で、自分が湊にどうこうするというのは──考えなかったと言えば嘘になるが、知らんふりを決め込んでいた。やむなく自分で処理しなければならないくらい欲が溜まってしまっても、遥の性格では"抱いてほしい"などとても言えなかった。 (なんとか……しないと) 佳奈子が帰った後、遥は時計をじっと見つめて湊の帰りを待つ。さっきまでは湊が用意した夕食を食べていたものの、緊張しているのかあまり喉を通らなかった。 『大丈夫よ、遥ちゃん。守山みたいな鈍感ならともかく、あいつだもの。色仕掛けなら一発で落ちるわ』 引き合いに出された挙げ句けなされた凌也には申し訳ないが、佳奈子の言葉には遥も賛同できる。 隣に座った時、湊は必ずと言っていいほどスキンシップをしたがる。しかも首筋や太腿など、情事を思わせるような場所ばかり。それなら、偶然を装って少々の露出をすれば、誘いを口にせずとも容易に引っかかってくれそうだ。 (れ、練習通りにすれば……たぶん) 佳奈子の指導のもと、視線を意識した裾の捲り方やさり気ないスキンシップの仕方を徹底的に叩き込まれた。もっと色っぽく!と熱っぽく教えられ、何十回とやり直しをさせられた箇所もあったほどだ。 (こ、こう……?) シャツの裾を持ってぱたぱたとはためかせ、へそ辺りがちらりと覗くようにする。同様に、もっと上側を掴んで空気を入れるようにすると、鎖骨や胸元が垣間見える。下手に露出するより、見えるか否かくらいのほうが色気があると佳奈子は言っていた。 「ただいまー」 遥が悶々と考え込んでいるうちに、帰宅した湊はリビングのドアから入ってきた。遥は慌てて佇まいを直し、佳奈子に習った内容を頭の中で素早く反芻する。荷物を置いた湊はキッチンへ向かい、鍋の中や冷蔵庫を覗いていた。 「あんまり食欲なかった? おかず結構余ってるな」 「え……あぁ」 不意に話しかけられ、どきりと胸が高鳴る。自分の食事を用意しつつ、湊は曖昧な返事をした遥に小さく謝った。 「ごめんな、夏バテしてるのに消化のいいもの作らなくて。明日は冷や麦にするから」 「べ、別に……気にして、ない」 夏バテの遥は毎食が冷たい麺類でもいいくらいだが、働いてくる湊はもっとしっかりしたものが食べたいだろう。メニューを自分にばかり合わせてもらうのは申し訳ない。湊は知る由もないだろうが、この食欲不振は夏バテよりとある緊張が原因なのだから。 ↑main ×
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