──六月十日。
それはありきたりな日常であり、とある特別な日付でもあった。

「ちょっと夏風っ、トロいわよあんた。さっさとテーブル動かして!」

「わ、わかっているとも!」

夕暮れが近づく頃、湊と遥の部屋のリビングは、少々のレイアウトと共に変貌を遂げていた。
佳奈子にどやされ、翼はぶつぶつ文句を呟きつつも折り畳み式のテーブルを引っ張ってくる。佳奈子は冷やしていた飲み物をそのテーブルに並べ、ふうと額の汗を拭った。

「あっつ。エアコンつけよっと」

我が家さながらに慣れた様子でリモコンを手に取り、隅のエアコンへ向ける。やがて涼しい風が運ばれると、佳奈子は満足げにソファに寝そべった。

「あー、働いた働いた。あとは小宮を待つだけね」

「おい貴様! 私が座れないだろうが……ひい!」

躊躇なく振り抜かれた佳奈子の足をすんでのところで避け、翼は悲鳴を上げる。この暴力女めと心の中だけで罵りつつ、とぼとぼとキッチンへ足を運んだ。そこではかりんと凌也が、いくつもの豪華な料理を作っていた。

「かりん、味見をしてくれ」

「はい。…ん、おいしいです」

湊を除いてならば、調理はこの二人に任せるのが最善だ。かりんがにこっと笑ってみせると、凌也もほっとした様子で皿をテーブルに運び始めた。

「そういえば桜井はどうしたんだい? さっきまでここにいたじゃないか」

食器運びを手伝いながら佳奈子に尋ねれば、彼女は僅かに体を起こしてにやりと笑う。

「シミュレーションに決まってんでしょうが」

「シミュレーション?」

翼は首をひねったが、佳奈子に急かされるまま、止めていた手を再び動かした。



「お、おめで…とう……」

部屋の中にぽつんと立ち、飾られた箱を手に、前へ突き出すようにして言葉を懸命に絞る遥。端から見ればなんとも滑稽な光景だが、本人は至って真面目にこの訓練を繰り返していた。はぁ、と何度目かのため息をつき、壁にもたれた遥はがくりとうなだれる。

「言えない……」

言葉自体は大したものではない。長くもなく、日常的に使用する頻度は少ないにしろ、子供でも唱えられるごく簡単な台詞だ。しかし、ただ口にするならまだしも、これから誕生日を迎える、彼の恋人のことを思うとどうもうまく言えない。綺麗にラッピングされた箱を、遥はじっと見つめる。

『え、何をあげたらいいかわからない?』

数日前の佳奈子の声がふっと蘇る。誕生日に何をプレゼントするべきかと考えあぐねた結果、いくつか候補は見出せたのだが、それらは佳奈子たちが買うつもりのものばかりだった。そこで、どうしたものかと佳奈子に相談したのである。

『そっかぁ、あたしたちがほとんど買っちゃったしね。うーん、でも…あいつのことは遥ちゃんが一番よくわかってるはずだよね。だからきっと、遥ちゃんにしかあげられないものがあると思うよ』

『俺にしか…あげられない、もの…』

(……本当に、これでよかったのか)

手に乗った箱の中身を思い浮かべ、遥はぎゅっと唇を結ぶ。一応、遥なりに一生懸命悩んだ末に行き当たったプレゼントだ。買ったことに後悔はないし、贈ればきっと湊は喜んでくれるだろう。その確信はある。──けれど。

(もっと、本当に……あいつがほしいものを、あげたい…)

せっかくの二十歳の誕生日だ。去年や来年には、決してあげられないもの。今日この瞬間の記念と呼べるものは、これくらいしかないのだろうか。



「はー、食べた食べたぁ。酒も飲んだし、帰るぞぉ!」

呂律の怪しい佳奈子は、ふらふらと廊下を蛇行しながら玄関へ向かう。その後を慌ててかりんが追いかけ、凌也と翼は呆れた様子でゆっくりと進んだ。

「ルシ、相当酔ってるな」

苦笑混じりに言う湊に、遥もちょっとため息をついて頷く。佳奈子は久しぶりにアルコールを摂取したらしく、祝ってもらった本人より浮かれてしまったようだ。きゃははっ、ばいばい!と二人に大手を振り、佳奈子はドアの外に消えた。

「それじゃ、僕たちもお邪魔しますね」

「うん、ルシよろしく。二人とも、いろいろありがとな」

律儀にぺこりと頭を下げ、かりんも凌也と連れ立って帰っていく。きっと、佳奈子を送るついでに凌也の部屋に泊まるのだろう。湊も礼を言って手を振った。

「おい小宮。今日は特別に祝ってやったが、桜井は私のフィアげふぅ!」

「うっさい。空気読んでとっとと帰れよ」

フィアンセとまでは言わせてもらえず、湊に足蹴にされた翼はドアの隙間からきゃんきゃんと騒ぐ。

「うう、覚えていろ! 絶対に桜井は渡さな」

「んじゃまた明日ー」

再び容赦なくドアをバタンと閉め、しっかりと鍵をかけてから、行こ、と湊は遥の手を引く。しばらくは、バンバンとドアを恨みがましく叩く音が聞こえていた。

「やれやれ。こんなにもらっちゃって、どうしよっかな」

リビングのソファに積まれたプレゼントの箱を見つめ、湊は困りながらも嬉しそうに呟いた。

「あ……そ、その…」

「ん?」

さっきまで賑やかだったリビングはしんと静まり返っていて、急に緊張に襲われる。振り返った湊にどきどきと心臓を高鳴らせつつ、遥は背中に隠しておいたプレゼントをそっと差し出した。

「これ……遥から?」

驚きに目をみはった湊の顔を見ていられず、うつむいてこくりと頷けば、ゆっくりと両手で抱きしめられた。

「ありがと。嬉しい」

「こ、これくらい…普通だ」

みっともなく震える声で強がりを言ってもちっとも意味なんてないのだが、湊はただにっこりと笑ってくれた。

「開けていい?」

「……ん」

遥が了承してから、湊は箱のリボンを解き始める。包み紙も丁寧に剥がして箱を開き、あっと声を上げた。

「時計……覚えててくれたんだ」

「壊れたって、言ってただろ…」

箱に収まっていたのはシンプルな腕時計だった。湊のものが少し前に壊れてしまったのを知っていたため、この機に贈ろうと思ったのだ。それに──自分が贈ったものを湊が身につけてくれていれば、つまらない嫉妬やちょっとした不安なら抱かずに済むかもしれないから。

「お、おめでとう……」

火傷したみたいに頬が熱い。ぎゅっと服を握りしめ、何度も口にした言葉をやっとのことで告げた。

「遥……」

下に向けていた顔をおずおずと上げれば、湊は泣きそうな表情で自分を見つめている。遥は慌てて首を振った。

「ま、待て。あとひとつ……ある、から」

「へ? もうひとつ…って、まさかプレゼントっ?」

もちろん予想外だったのだろう、湊は目を丸くしている。羞恥を押し殺し、遥は口を開いた。

「そんな…大したものじゃない。ただ……約束が、したいだけだ」

「約束…?」

湊は不思議そうに遥の言葉を反芻する。思い切って遥は話を続けた。

「だから…その……。お前が俺をき…嫌いになる、までは、絶対に…離れてやらない。そういう…厄介な、約束だ」

「───……」

「こ、こんなの約束じゃない。むしろ…呪いだ。いらないなら別に……──!?」

いきなり手を引かれたかと思うと、遥は前のめりに湊へ倒れ込む。驚きさえ感じないうちに頬を包まれ、唇に柔らかい感触が触れた。

「ん……っ」

頬の手は次第に後頭部へ滑り、角度を変えて何度も唇が重なる。ようやく離された時は酸欠で頭がくらくらしたほどだ。

「そんなかわいい呪いなら、毎年かけてほしいくらいだよ」

ぎゅっときつく抱きしめられ、すぐに優しい声が降ってくる。湊の胸からもとくとくと早い鼓動を感じ取り、触れ合ったところがじんわりと熱を持った。

「ありがとう。…まだ二十年しか生きてない人生だけど、遥に会えたことが一番のプレゼントだから。それだけで、生まれてきてよかったって毎年思えるんだ。自分の誕生日に感謝できるって、凄いと思わない?」

「っ……」

体が震えて、胸が熱くなる。淀みなく溢れてきた涙を指ですくって、湊は心から嬉しそうに笑った。

「愛してるよ、遥。これからも、ずっとずっとそばにいてね?」

「ん……」

うっすらと滲んだ視界の中で湊を見つめ、遥はそっと頷いた。きっと今、自分は湊と同じくらい嬉しいに違いない。だって今日は、湊が世界で一番、幸せでなければならない日なのだから。


***
ハッピーバースデー湊(`・ω・)


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