・湊遥が高2


「はぁ……」

前の席から回ってきたプリントをくしゃりと掴んで、遥は何度目かのため息をついた。ホームルームを終えた教室では放課後の談笑があちこちで起こり、帰り支度をする者もいる。そんな中、ただの紙切れを胡乱な目で眺めているのには理由があった。

(志望校……か)

あと少し経てば高校三年生になろうという頃合いで、当然のように配られたのは個人の進路希望を調査するためのものだった。いつもの安っぽいグレーの紙ではなく、真っ白くそれなりにきちんと書式が整っている。赤丸で囲まれた"重要"の印が何よりその紙の価値を物語っていた。
遥の通う緑蘭高校は一応、市内では進学校として名高いのである。当たり前だが、その紙に"就職"という選択肢はない。ただ、"志望校"の欄が三つほど構えられている。その隣に、国公立か私立かを丸で囲むスペースが設けられていた。

「……はぁ」

再びこぼれたため息はさらに深い。別に、志望校を書くだけならどうということもないのだ。将来の夢は決まっているし、そのためにどの大学に進むかも考えてある。学力も現時点ではおそらく問題ない。では、何故こんなにも憂鬱なのか。それはついさっきのクラスメイトの会話が原因だった。

『うわ、進路希望調査だって。ね、彼氏と同じ大学行くの?』

『もちろん。だって、聞いたでしょ? N先輩のこと』

『わかるわかる。高校時代はR先輩とすっごいラブラブだったのに、大学が離れたら疎遠になっちゃって、とうとうR先輩が浮気して別れたって』

『怖いよねー。あんなに仲良しだったのに』

女子二人のありがちな恋愛話だったのだが、つい自分たちの事情と重ねてしまい、遥は気が重くなった。

(あいつはどうする気なんだ……)

今まで進路の話が二人の間で出なかったわけではない。けれど時期にまだ余裕があったせいか湊も詳しくは口にしなかったし、遥もなんとなく近くの国立大の名前を挙げるくらいだった。真面目に話し合ったことは一回もない。だからこそこの機に話さなければと思うのに、考えれば考えるほど怖くなってしまう。

(もし、違う大学に行ったら……あいつはすぐ、俺のことなんか忘れる…)

もともと女子から人気のある湊だ。今は自分と一緒に過ごしてくれていても、いずれ周りのかわいい子に目が向けばきっとそっちのほうが良く見える。むしろこんな自分と一年半以上も付き合っているのが驚きだ。

(くそ……)

もやもやする気持ちを振り払うように立ち上がり、いつもならきちんとクリアファイルに挟む書類を、半ば強引に荷物へ押し込む。すると、ポケットの中の携帯が不意に震えた。バイブ音を切っていなかったことに少し焦りつつ、遥はこっそりと携帯を開いた。

(メール……あいつか)

『ごめん、今日は用事があるから先に帰るね(>_<)』

ふぅ、と息を吐いて遥は携帯を閉じる。ほっとしたようなしないような、微妙な気持ちだ。どう話を切り出したものかと悩んでいたのでちょうどよかったが、顔を合わせないのはいくらか寂しい気もした。

(……帰るか)

帰宅したら、綾子と相談しながら書類を埋めなければならない。湊もすぐ進路を決めるとは限らないし、明日以降にでも話そう。遥は荷物を持って教室を後にした。



「そうねぇ、前から志望はそこだものね。いいんじゃないかしら」

眼鏡を丁寧に外しつつ、綾子が頷く。話は決まったということだろう。完成した書類を一通り眺め、ん、と遥は返答した。

「遥ももう大学生なんて、早いものだわ」

和柄のケースに眼鏡を収めて、綾子は小さく笑う。まだ三年に進級さえしていないのだが、と心の中でつっこみを入れると、あっ、と綾子が声を上げた。

「いけない、あの子たちのおやつを切らしていたんだわ。遥、買ってきてくれる?」

あの子たち、の正体はすぐにわかった。朝になると、桜井家の庭先には数匹の猫が集まってくるのだ。綾子は毎朝、その猫たちに餌をやるのが楽しみなのである。

「……わかった」

進路の話をしていたおかげで、夕飯の準備が整うにはしばらくかかる。ここで綾子が買い物に行けば、その時間は増えるばかりだ。手持ち無沙汰な自分が出向いたほうが早い。

「ごめんなさいね。にぼしと、それから缶詰をいくつかお願い」

綾子から金を受け取り、遥は上着を羽織って玄関へ向かう。目指すは商店街にあるペットショップだ。



(腹減った…)

ペットショップのロゴ入りの袋を提げ、遥は商店街を抜けていく。子連れの主婦が立ち寄っていく肉屋から、唐揚げやコロッケの香ばしい匂いが漂ってきた。否が応でも空腹を意識させられる。

(さっさと帰るか…。……?)

とあるコーヒーショップの前を通り過ぎようとした遥は、何気なく見た店内に再度視線をやった。見慣れた顔がいた気がしたのだ。

(あいつ……?)

この時間帯は店内が学生やサラリーマンでいっぱいになるのだが、端の席に何故か湊が座っていたのだ。制服のままということは、メールで言っていた"用事"はおそらくこのことだろう。

(こんな場所に…何の用だ…? ……!)

ガラス越しに様子を窺っていた遥は目を見開いた。湊と向かい合うようにして、同じテーブルに女性が座っていたのだから。二人はテーブルの上の冊子を指差しながら、楽しそうに笑い合っている。

(どういうことだ……)

女性は湊より年上らしく、ぴしっとしたビジネススーツを着ている。髪はショートカットで、薄化粧だが目鼻立ちがはっきりしているせいか、いかにもなキャリアウーマンといった印象を受ける。そして、美人だ。

(っ……)

思わず目を背けた遥は、逃げるようにその場を立ち去った。見ているだけで、胸がずきずきと痛んでくる。

「…何なんだ……」

角を曲がってから、泣き声混じりに小さく呟いた。
用事、なんて嘘までついて、湊は女性と会っていた。どこで知り合ったのかは予想もつかないが、湊のことだ、年上相手でもそつなく話せるに違いない。女性だって、湊くらいルックスが良くて優しければ年なんて問題ではないだろう。

(もう……話すことなんか、ない)

放課後、湊に今後の進路をどう話そうかと悩んでいたことは全て無駄だった。大学に進んだら壊れてしまうかもしれないと危惧していた関係は、湊にとってはとっくに意味のないものになっていたのだ。

「…ふ……っ」

鼻の奥がつんとしてすぐに、涙の膜が瞳を覆う。眼鏡を外して、ぼやける視界を乱暴に拭い去り、遥はとぼとぼと家路をたどっていった。


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