ピンポーン、とインターホンを鳴らすと、少しの間を空けてドアが開く。中から死人のようにぐったりした凌也が顔を覗かせれば、かりんは素早く駆け寄った。

「大丈夫ですかっ?」

「ああ……」

声も若干掠れており、見た目と相まって余計具合が悪そうに見える。凌也を室内に押し戻すようにしてかりんはドアを閉め、背中を支えながらベッドに向かわせた。



『風邪を引いたから来ないほうがいい』

とある休日。かりんはいつものようにこれから凌也のアパートへ向かうことを連絡したのだが、返信されたメールにはこう記されていた。

「風邪かぁ……」

自分と違って、凌也が風邪を引くのは珍しいことではなかった。だが特別体が弱いわけではなく人並みといったところで、何年かに一度は寝込むような風邪を引いている。来るなと言うくらいなら今回はそのパターンだろう。

『じゃあお見舞いに行きますね』

大学生になる以前にも、凌也の具合が悪くなればすぐに見舞いと称して会いに行っていた。なのに全く風邪はうつらず、毎回凌也の杞憂に終わっていたのだ。
返信は来なかったが、これがしぶしぶながらの了解であることをかりんは知っていた。



「いつからこうなったんですか?」

倒れ込むように体をベッドへ沈ませた凌也に、そっと布団をかけながらかりんが尋ねる。

「昨日の夕方からだ。熱が出たのは今朝だが」

瞼が重いのか、目をつむったまま凌也が話し始めた。

「昨日は寒かったですもんね」

「ああ。薄着だったからさっさと帰ろうと思ったが……近所の野良猫に捕まってな」

ふふ、とかりんは小さく笑う。凌也をよく知らない周囲からは"冷たい"や"何を考えているかわからない"と言われがちだけれど、子供や動物には案外優しい面もあるのだ。なんとなく、この話の展開が見えてきた気がした。

「冬は食料が少ないからな。コンビニで餌を買って、公園で小一時間相手をしていたら…」

「風邪引いちゃったんですね」

風邪は災難だろうが、なんとも微笑ましい話だ。

「先輩らしいです」

「そうか…」

つられて凌也も小さく微笑む。ここで驚かないところがやはりかりんだと思ったのだ。

「ご飯食べられますか? あと、お熱測りました?」

「熱はそんなにない。……食欲は…」

「だめですよ、ちゃんと食べないと」

はっきりしない態度を見ればすぐにわかる。ただでさえ、凌也は普段から食事などそっちのけでパソコンに向かっていたりするのだから。
かりんが優しくたしなめると、食べたくないんだから仕方ないだろう、と悪戯を咎められた子供のようにおずおずと言い訳を始める。これがかりんでなく他の人間からなら"余計な世話だ"と一刀両断している頃だ。

「だめです。ちょっとでもいいから食べましょう? じゃないと薬も飲めないですよ。僕、お粥作ってきますね」

所定の引き出しからエプロンを引っ張り、さっと身につけてかりんはキッチンへ向かう。調理に必要なものは来る時に買ってきたのだ。あっ、と袋からスポーツドリンクを取り出してベッドまで戻る。

「水分も取って下さいね。あとこれ、のど飴です」

再びキッチンへ赴いた後ろ姿を見つめ、凌也はふっと苦笑を漏らす。来なくていいと言っておきながら今更だが、やはり自分は彼がいないと何もできないらしい、と。

スポーツドリンクを口にしながら待っていると、米の炊ける匂いがふわりとキッチンから漂ってくる。昔は自分が作ってかりんに食べさせるのが当たり前だったのに、卵さえ上手く割れなかったかりんはいつの間にか料理上手になっていた。きっと必死で練習したのだろう。

「んしょ……先輩、起きてますかー?」

「ああ」

湯呑みとレンゲ、小さな土鍋を盆に乗せ、エプロン姿のかりんがリビングに戻ってくる。凌也は重い体をゆっくりと起こした。

「出来合いのですけど、梅干しもありますよ。よいしょ……ふーっ」

かりんはテーブルに盆を置いて土鍋のふたを取り、一口分をレンゲですくって息で冷ます。はい、と差し出されたレンゲに口をつけると、ふんわりと米の甘みが口に広がった。

「……うまい」

「えへへ、よかったです」

作れるようになったのはつい最近で、凌也の口に合うか少々不安ではあったが、食欲がないと言っていた割にはきちんと食べ進んでいる。かりんはほっと胸を撫で下ろし、引き続き食事を手伝っていく。最後に、湯のみに白湯を注いで風邪薬を差し出した。

「………」

「だめですよ、飲まないと。病院は嫌なんですよね?」

凌也が昔から病院嫌いであることは知っている。どれだけ熱が出ようと苦しもうと、病院だけは絶対行かないと両親や自分に強情なまでに言い切っていた。そこまでの嫌悪には及ばないが、薬も苦手なのだ。

「……どうしてもか」

「はい」

しっかりと首を縦に振ったかりんをしばらく見つめ、凌也はとうとう観念したらしい。薬の袋を破き、白湯と共に口に含んで飲み下した。しかめ面のまま布団に潜り込み、深くため息をついている。

「自然治癒に任せておけばそのうち…」

「明日までに治さないと、学校に行けなくなっちゃいますよ」

子供のように愚痴をこぼす姿を見て苦笑し、かりんは盆を持ってキッチンへ向かう。その洗いものを終えて戻ろうとしたところで、インターホンが鳴った。すぐ後に、ドンドンと戸を叩く音。

『守山ー! 缶切り貸ーしーてっ』

「う…頭に響く……」

聞き慣れた隣人の声に、凌也は額を押さえて布団に潜り込む。かりんが慌てて応対した。

「成島さん、今開けますから!」

施錠を解いてドアを開けると、どう見ても中高生時代のジャージと思しき格好の、髪をひっつめた佳奈子が立っていた。かりんを見るなり、むすっとしていた表情が一瞬で笑顔に変わる。

「あら、かりんちゃん来てたんだ。あのさ、缶切り貸してくれない? たまたまもらった缶詰がプルタブないやつでさー」

「はい。ちょっと待って下さいね」

キッチンまで戻り、棚を開けて缶切りを取り出す。佳奈子に手渡せば、ありがと!と笑いかけられた。

「いやー、助かったわ。……? 守山いないの?」

「えっと…それが……」

事情を簡単に説明すると、佳奈子は少し驚いたようだった。

「へー、意外と軟弱なのね。もっと丈夫かと思ってたわ。ま、あたしの見舞いは不要だろうから、お大事にって言っといてね」

「はい、ありがとうございます」

佳奈子も何だかんだと言いつつ、凌也を気遣う気持ちはあるのだろう。いつもなら世間話を五分ほど蒔いていくのだが、看病頑張ってねと早々に退散していった。

「…帰ったのか」

「ええ。お大事に、だそうです」

部屋に戻り、かりんはベッドの横にしゃがむ。佳奈子の伝言を聞いた凌也は、そうか、と言って安心したようだった。

「薬、効きましたか?」

「ああ、楽にはなっている。だるさがなくなったのは食事をとったせいだろうが」

「よかった…」

ほっと一安心した様子のかりんを見つめ、凌也はそっと目を伏せた。

「…悪かったな。お前も、ここのところ忙しかっただろう。なのに休日を潰して…」

「そんなことないです!」

思わず膝をついたまま腰を上げ、ベッドに両手をつく。凌也はちらりと顔を上げた。

「今日がもし休日じゃなかったら、こうして看病できなかったかもしれないですよ。…それに、僕が来たくて来たんです。どんな形でも、先輩と一緒にいられることに変わりはないんです」

凌也がどんな状態でも、きっと自分はこんなふうに逢瀬を望むだろう。だってそうだ。彼がいるところに、自分はいたいのだ。

「かりん……」

布団から抜け出た大きな手が、ぎゅっとかりんの手を掴む。その手を、かりんは両手で包んだ。

「俺は…ずいぶんお前に甘やかされているらしいな」

「……そうですよ」

ふふっ、とかりんが小さく笑うと、つられて凌也もそっと笑みを浮かべる。

「なら、もう少し甘えたままでいるか」

他人をテリトリーに踏み込ませるのは大嫌いだが、かりんといると心地いい。みなまで言わずともわかってくれる。変に気を遣うこともない。けれどやはり、何よりも安心できるのはかりんがどこまでも優しいからだろう。

「はい。そうして下さい」

僕は、ここにいますから。
ほしかった言葉を紡いでくれた唇には、風邪を治してから愛を伝えなければ。


↑main
×
- ナノ -