「……るか。遥」

「ん……」

優しく揺り起こされ、遥は目を閉じたまま、ふわふわと意識が戻るのを感じた。昨夜は課題レポートを進めていてあまり眠れなかったため、帰宅後すぐにリビングの床に倒れてしまった。あれからかなり時間が経って、湊も帰ってきたのだろう。そうだ、こんなところで寝ていては風邪を引く。遥はそっと瞳を開けた。

「あ、やっと起きた? ご飯できてるぞ」

「ん………ん!?」

耳に届いた声も台詞もいつもと変わらない。なのに、周りの景色が全く見覚えのないものだった。部屋の中らしいが、さっきまで自分が寝ていたリビングではない。

「どうした?」

「はっ? お、お前……」

ひょこりと顔を覗いてきた湊にも驚いた。

「髪……切ったの…か」

「え? 切ってないだろ」

いや、間違いなく切った。そう言い切れるものがあるのに、目の前の湊が嘘をついているとは思えなかった。

「ここ……どこだ」

「どこって? お前の家じゃん」

さも当然に告げてくる湊に、遥は目を丸くするしかない。生まれてから一度も、こんな部屋に住んだことはないのだから。

「ふざけてないでさっさと言え」

「それはお前だろ? ほら、ご飯食べよ」

振り返ればテーブルにはつやつやの煮魚や肉じゃが、サラダが並んでいる。試しに一口食べてみたが、見た目も味もまさに湊が作ったものだった。

「ちょ、遥っ?」

リビングから繋がるドアを開けてみると、ベッドや机やタンスなど寝室と思しき部屋があった。ここは所謂1LDKらしい。

「なんでこんなところに……」

「お前、さっきからおかしくないか?」

怪訝な顔で尋ねてきた湊を振り返り、遥は困ったように眉を寄せる。

「おかしいに決まってるだろ……大学から帰ってきたらこんな」

「はっ? 大学っ?」

単語を拾うなり湊は仰天し、ずかずかと寝室に入ってある名刺を持ち出してきた。

「お前は高校の教員だろ!」

見せられた名刺には確かに、変わらぬ自分の名前と携帯番号が記載されていた。



「えー……つまり? 今のお前は大学二年の時の遥ってこと?」

とりあえず夕飯を食べながらこくりと頷けば、ううんと湊が頭を抱える。

「変なことってあるもんだな。いや、単にこっちの遥が記憶ふっ飛んでるだけかもしれないけどさ」

"こちらの湊"曰く、ここはどうやら未来らしい。湊と自分は既に教員として働いており、このマンションはその学校の近くなのだとか。今日は午前中のみの仕事で、自分は帰るなり昼寝をしていた。そこへ湊が訪れたところ、何年分かの記憶がすぽんと抜けていたのだ。

「お前はどこに住んでるんだ」

「俺? この部屋の二階上だよ」

ふと気になって訊けば、ちょいと天井を指差して湊が言う。

「ルシや……夏風は」

「あはは、ルシはまさかって感じの職についちゃってさ。俺はてっきり、留学でもするのかと思ったけど。夏風は社長様だよ」

言いぶりからして、どうやら皆は元気にやっているようだ。遥はほっと息をついたが、気になることは他にもあった。自分はどうなったのだろう。

「お……」

俺は、と言いかけて、遥ははっとなった。今も、果たして自分と湊は恋人の関係にあるのだろうか。共に食事をするくらいだから親しいことはわかるが、恋愛関係かどうかはわからない。

「ん、何?」

「何でも……あ」

直接は訊きにくいが、こういう言い方はどうだろう。

「食べ終わったら……お前の部屋も見せろ」

「えっ」

思いもよらない言葉だったのか、湊が一瞬だけぎくりとする。それから、困ったように微笑んで首を振った。

「だめ」

「なんだ」

じとりと睨みつければ、湊は気まずそうに箸を置いた。

「今のお前に、がっかりされたくないし……」

「はぁ? ……!」

茶碗を片づけようと、伸ばされた湊の左手。遥は気づいてしまった。その薬指に、光沢を帯びた指輪が嵌っていることに。

「ぇ……」

怯む遥をよそに、湊はさっさとキッチンへ向かう。スポンジを泡立てる音が聞こえた。

「ほら、お前も早く食べないと仕事……って、今は無理か。俺、これ洗ったらいったん帰」

「帰るな!」

思わず立ち上がって叫ぶと、湊はちょっと困ったような、嬉しそうな顔をした。

「帰ってほしくないんだ? ……えっ」

「ぅ……っ、く……」

濡れた手を拭いて振り向いた湊は呆然とした。遥が立ったまま、ぼろぼろと涙をこぼしているのだ。

「え、ちょ……なんだよ、泣くほど嫌だったのか?」

両手の甲で乱暴に涙を拭いながら、遥は何度も頷く。けれど忌まわしい左手が伸ばされた途端、それを振り払って拒絶した。

「っ、こん……したのか」

「は?」

「結婚……」

薬指で光るシルバーリングを恐る恐る指差し、遥はしゃがみこんで泣きじゃくる。たとえ夢だとしても、こんな未来は見たくなかった。大人になっても関係を続けられるなんて、やはり淡い夢だったのだろうか。

「……そうだ。したんだよ、結婚」

湊も腰を下ろし、左手を眺めながら静かに告げる。また一粒、遥の瞳から涙が溢れた。

「お前とな」

「………………はっ?」

にっこりと微笑む湊に驚愕の眼差しを向け、遥はおろおろと慌てる。たった何年かの近い将来にもかかわらず、日本の法律はあっさり変わってしまったのかと。

「まぁ、正確に言うと事実婚な。口約束だけど、結婚は結婚だ」

「なっ……だ、だって…」

あまりの衝撃に涙さえ止まる。開いた口も塞がらない。しどろもどろの遥を残して、湊は寝室に向かった。しばらくして、きらりと光るものを手の平に載せてきた。

「手、出せよ。こっち」

促されるままおずおずと左手を差し出せば、薬指にすっと指輪が通る。ほらな、と湊は自分の左手も見せて笑った。

「俺はお前に会う時は指輪するけど、遥は全然してくれなくてさ。ずっとベッドの横にしまい込んでる。たまにはこうやって付けてほしいんだけど」

「………」

あれからどういう経緯でここまで至ったのか、何故別居しているのか、湊に尋ねたいことは山ほどある。けれど、遥には何よりも確かめたいことがあった。

「まだ……俺の、こと…が」

「好きだよ」

得意げに続きを引き取って、湊はゆっくりと髪を撫でてくれた。

「愛してる。ずっと一緒にいようって、約束したんだからな」

左手を繋ぐと、指輪同士がかちりと音を立てる。それを境に、再び遥の目から涙がこぼれた。

「眼鏡取ればいいだろ?」

眼鏡の内側からぐしぐしと指先で目を擦る遥に苦笑し、今とは少しフレームの違う眼鏡を外してやる。泣く姿をまともに見つめられて、遥は恥ずかしいことこの上ない。

「眼鏡あると邪魔なんだよ。こうやって……」

「んっ」

なんの前触れもなく、舌がぺろりと雫をすくっていく。ついでにと、頬を伝って唇まで舐められた。

「っ、おい…」

「調子に乗るなって? はは、かわいー」

上機嫌で抱きしめてくる腕はいつもと変わらず温かい。そっと背中に手をまわせば、もっと強い力で抱き返される。

「……さっき、がっかりさせるとか……なんだったんだ」

ふと気になって訊けば、あははと湊は苦笑いを浮かべた。

「俺の部屋に来るなって言ったこと? ……掃除してないんだ、全然。俺はもともと綺麗好きじゃないから。お前が今住んでる場所が綺麗なのは、その時の俺が嫌われたくなくて頑張ってたってこと」

「……なんだ」

指輪のこともあって、てっきり別に家族がいるのかと思ったのだ。やれやれと遥が肩を竦める。

「……なぁ。今の遥に訊きたいんだけど、いつ頃から俺のこと好きだった?」

「……す…」

好き。
質問の意味を理解するなり、遥は物凄い速さで湊から後ずさった。

「だっ、だだ誰がそんな」

「こっちの遥が。めったに言ってくれないけどな」

照れ屋さん、なんて幸せそうに呟く湊はこの際どうでもいい。自分がまさか、そんな台詞を湊に告げる日が来ようとは。

「う…嘘だ……」

「あ、ひどい。こっちの遥は素直で笑顔で俺のこと大好きで……いや、嘘だけどさ」

なんだかからかわれているような気がしてならない。遥はぷるぷると怒りに震えていたが、ふいに体が柔らかな光に包まれる。ふわふわと体が浮いているみたいだ。

「そろそろ俺の遥を返してくれるってことか?」

湊は呑気に構えている。一方の遥は、足の先からだんだんと消えていくのを感じ、急いで湊に向き直った。

「訊きたいことがある」

「なにかな?」

「……お前は、今、幸せなんだな」

そろそろタイムリミットだろう。薄れゆく意識の中で、湊が満面の笑顔で頷くのが見えた。



「ん……」

柔らかい絨毯に頬をくすぐられ、遥は目を覚ました。頭がぼうっとする。いつの間にか、体は薄い毛布で覆われていた。

「おはよ。って言っても夕方だけどな」

苦笑混じりの声が降ってくる。その声に手を伸ばすと、湊は優しく握ってくれた。それに安堵してから、もう一度目をつむる。また寝るの?と小さく笑われた。

「お前……も」

繋いだ手を軽く引いて促す。しょうがないなと言いながら、湊は嬉しそうに毛布へ入ってきた。

「? 遥、指に変な痕ついてる。薬指?」

「結婚した」

「はっ?」

首を捻る湊を薄目で眺め、遥は小さく微笑んだ。


未来は遠い。けれど、今はゆっくりと待ってみたい。それまではこうして、一緒に夢を紡いでいよう。大人になるのは、もう少し先でいいから。


***
とにかく長い(´∀`)
トリップは一度書きたかったのです

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