「はぁ……」

降り注ぐシャワーをその身に浴びたまま、遥はしばらくの間うなだれていた。
思うようにいかないのは、慣れないことを無理にしようとしているせいだろう。そうわかっていても、湊の期待に応えようと決めたのは自分なのだ。簡単に諦めるわけにはいかない、と思うけれど。

(でも……もうだめだ…)

あんなふうに拒んでしまったら、次に遥が何をしても湊のほうから引き下がるに違いない。詰んでいるのは明らかだ。
今頃何を思っても仕方ないことだが、あの時湊に身を委ねることができたら、きっと自分の望んでいる展開に繋がったのだろう。でもそれではあまりにお粗末だ。結局、自分の主張は告げずに湊に判断を任せることになるのだから。



遥がリビングに戻ると、入れ違いに湊は浴室に向かった。エアコンの冷風が火照った肌に心地よく、もやもやして熱を持っていた頭も徐々に冷やされていく。遥は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで飲み干した。

(やっと落ち着いた……)

ふぅと息をつき、冷静になった頭でこれからのことを考える。

「……謝る、か」

まずは湊に、さっきのことは本心から拒んだわけではないと伝えたい。ぎくしゃくしたままでは、一緒の時間を過ごすこともできなくなってしまう。心の繋がりのほうが体の繋がりよりもずっと大切なものだと知った今なら、素直に告げられそうだと思った。

(布団、あいつのほうも敷いておけば…)

布団を敷く場所をちらりと見やり、遥は微かに頬を染める。疚しい気持ちがないとは言い切れないし、仲直りした後でそういう雰囲気になれば、今度こそ身を任せてしまえる。けれど今は、ただ湊の隣で眠るだけでも心が満たされる気がした。

自室から布団と薄い毛布をリビングに運びつつ、遥はさっきまでの自分を振り返る。

(無理に応えようとしなくても、あいつなら……)

今まではキスさえも自分からほとんどしたことのない遥に、いきなり湊をその気にさせるような真似はいささか無茶だった。空回ってばかりで、結局は湊に誤解されてしまったのだ。今はとにかく、その誤解を解くほうが先決だろう。

「あれ……? それ、俺の布団?」

風呂から上がってきた湊は、遥が自分の布団を敷いているのを見て拍子抜けした声を放つ。遥はこくりと頷き、枕をぽんと置いてから湊に向き直った。

「ここ……涼しいから…」

思いのほか上擦った声になってしまい、途中から下を向いて遥は呟く。

「そっか。でも……俺の部屋は割と風入るから、エアコンなくても大丈夫なんだ」

優しい口調だが、湊がやんわり断ろうとしているのはわかる。遥の胸が、ぎゅっと締めつけられたように痛んだ。

「そ……じゃなくて…」

弱々しい声を振り絞り、遥はゆっくりと首を振る。湊を引き止めたいのに、その術を知らない遥は困り果てた顔を湊に向けた。

「さ、さっきのは……驚いた、だけで…別に、嫌だとは思って……ない」

だから仲直りしたい、と最後まで言えればいいのだが、今の遥にはそれが精一杯だった。恐る恐る湊を見上げれば、湊こそ安堵したように微笑んでいた。

「よかった。しつこく抱きついてたから嫌われたかと思った」

違う、と言うより先に、遥はぽろりと涙をこぼす。泣いたことに本人さえもが驚き、慌てて眼鏡を外した。

「遥」

湊の指が、そっと涙をすくう。いつもならそれより先に抱きしめてくれる手も、今日はまだ動かない。

(俺のせいだ……)

湊が遠慮したがるのも当然だ。いくら遥が謝っても、また拒否されるのではと思ってしまうだろう。

「ん……」

涙で歪んだ視界の湊に向けて、遥は両手を伸ばす。抱きつくにはまだ勇気が足りないけれど、それでも少しずつ歩んでいる自分を受け止めてほしかった。

「おいで」

両手を優しく握られる。その手を軽く引かれ、前に傾いた体がぽすりと腕の中におさまった。

「泣かなくていいんだよ。遥はなんにも悪くないんだから。ね?」

どこまでも優しい言葉に、涙が再び溢れてくる。湊の背中に手をまわし、遥は肩口に顔を埋めた。

「ほら、今はこうやって触れ合えてるよ。俺はそれで十分幸せだし、ちっとも傷ついてなんかいないから」

だから泣かないで、と。
遥が湊を拒否したことで自分を責めているのだと、湊には泣いた理由がわかったのだろう。髪をゆっくりと撫でられ、遥は小さく頷いた。

(こいつは……なんでもわかるのか…)

頭の中だけでぐるぐると勝手に空回って、そのジレンマを湊へぶつけてしまうのではなく、今度はきちんと話をしてみたい。今となっては言い訳になってしまうかもしれないけれど、自分の思いを湊に伝えておきたかった。

「きょ……は」

「うん?」

「お前を……さ、さそ…」

こんな思惑を抱いていたなんて、それこそ軽蔑されないだろうか。不安がちらりと脳裏をよぎったが、ぐっと呑み込んで湊の耳元に口を寄せた。

「さ…さそう、つもりで……」

「どこに?」

至極もっともな質問が返された。言葉に詰まりつつ、遥はあまりの羞恥に湊のシャツをきつく握る。

「どこ……じゃ、ない」

「えっ?」

「せ……せ、くすの……っ」

茹だった頭から湯気が出そうだ。もう、湊の顔はしばらくまともに見られないかもしれない。
しかしやっとのことで説明したはいいが、小声でしかも早口だったため、湊にきちんと伝わっているだろうか。あの単語を再度口にすると考えただけでめまいを覚える。

「……本当に?」

逡巡の後、少し裏返った湊の声が小さく放たれた。それに頷いて応えれば、華奢な体が軋みそうなくらい強く抱きしめられる。

「嬉しいな。遥もそう思ってくれたんだ」

顔は見えないけれど、湊が今どんな表情をしているかはなんとなくわかる。だが遥は、湊と同じように喜ぶ気持ちにはなれなかった。

(あ……)

抑えようとしていたのに、うっすらと涙が浮かんでくる。これから弱音をこぼすとわかっていても、いっぱいいっぱいにせき止められた気持ちはもう限界だった。

「だめだった……だろ」

ぽつりと弱々しい声を放ち、遥は唇を噛みしめた。
触れ合いたいと思ったのは寂しさが理由だけれど、自分から誘おうという気になったのは湊を喜ばせたかったからだ。佳奈子に頼んでまで頑張ったのに、結局成果は出ず、それどころか湊を避けてしまった。

「俺、なんか……っ、何しても、だめ……ふ、ぅ……っ」

どうして自分はこんなにも不器用なのだろう。好きだと言ってくれる湊の素直さがほんの少しでも自分にあれば、湊を傷つけずに済むのに。湊のために何かしたくても、たいがいはそれが裏目に出てしまう。今日だって、慣れないことをするから失敗してしまったのだ。
溢れた涙が頬を伝い、湊のシャツに吸い込まれることにさえ罪悪感を覚えた。

「そんなことないよ。好きな人が俺のために何かしてくれるって、気持ちだけでも凄く満たされると思わない?」

髪に差し込まれた手が軽く遥の後頭部を押さえ、湊の体がより密着する。そこから響く心音は遥のものと同じくらい早く、遥は驚きに目をみはった。

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