・遥がやたら食べる話 ・別に病気ではないです元気です 「ん……」 「ん?」 寝ぼけ眼を擦り、湊は自分の体を揺する遥の面影を探す。申し訳なさそうな表情で、遥はベッドの横にちょこんと正座していた。 「どうしたの?」 携帯のアラームが鳴る前ということは、まだ朝の六時前。遥がこの時間帯に起きるというのも珍しい。 「腹が……」 「お腹? 痛いとか?」 気になるのか、遥はぽつりと呟くと、服の上からしきりに腹を撫でる。湊は急に心配になって、自らの体を起こして遥に尋ねた。 「違う……減った」 「……お腹減ったってこと?」 こくりと頷く遥はなんとなく恥ずかしそうだ。対照的に、すぐに思い当たった湊は安心させるように微笑んだ。 「そっか。じゃ、ちょっと早いけど朝ご飯にしよ?」 遥も立ち上がり、リビングまでおとなしく湊の後をついて行く。湊はキッチンに向かうと、炊飯器のタイマーをキャンセルして早炊きに切り替えた。 「ご飯、まだ炊けないけど冷凍のやつあるからそれ食べようか。おかずは昨日の余りと、出汁巻きと味噌汁だけささっと作るよ」 遥はまだ眠そうにテーブルへ腕を置き、それを枕にして頭を乗せる。しかし絶えず鳴る胃袋の悲鳴にいてもたってもいられず、気を紛らわそうとテレビを付けた。 「すぐ作るから、ちょっとだけ待っててな」 起き抜けとは思えないほどの包丁さばきを見せながら、湊はこっそりと頬を緩ませる。何だかんだで彼は"この日"を楽しみにしていたのだ。 「お、おい。何か嫌なことでもあったのかい、桜井!」 「ちょっと小宮っ、遥ちゃんが変よ! 黙々と親子丼食べてる!」 ちょうど昼を過ぎた頃。遊びに来た翼と佳奈子は、遥を見るなり湊の予想通りの反応を示した。二人とも驚嘆の声を上げ、幽霊でも見るような目で遥を凝視している。その遥はというと、話す時間も惜しいのだろう、二人には見向きもせずにレンゲで親子丼をすくって食べ進めていた。 「あたし、遥ちゃんが丼とか食べてんの見たことないわよっ?」 「そうだ、桜井の一口はいつも、小指の先くらいじゃないか!」 「それがさぁ」 やたらと嬉しそうな湊が、遥の口をちょいちょいティッシュで拭いながら説明する。 「一年に二、三回、遥が凄く食べる日がくるんだ」 「な、なんだと?」 翼が訝しげに問い返す。遥は半熟卵をぐるりとレンゲに集め、大きく口を開けて頬張っていた。 「ほら、遥っていっつも少食だろ? それでたぶん栄養が追いつかなくなって、どっかで補充する日が必要になるんだ」 「まぁ…確かに遥ちゃんの食べる量じゃ体がまいっちゃうけどね。それで、そういう日はどれくらい食べるのよ」 親子丼を空にし、翼が手土産に持ってきた高級フルーツ缶詰にまで手を伸ばした遥を見やり、佳奈子が尋ねた。 「んー、まぁまぁ食べる男子高校生くらいだな」 「っていうと……一日三食じゃとても追いつかないわね」 缶詰もいつの間にかひとりでぺろりと食べ、遥はソファに寝そべる。湊が手近な毛布をかけてやると、気持ちよさそうに眠ってしまった。 「あら、寝ちゃったわ」 「遥にしてみれば、食べるっていうのも結構体力使うらしくてさ。今日は食べて寝ての繰り返しだ」 すうすうと寝息を立てる遥の髪を愛しげに撫でる湊を、佳奈子が小さく笑う。 「あんた嬉しそうね」 「そりゃあね。作る側としてはいっぱい食べてもらうに越したことないし、この…」 ブランケットを捲り、いつもより膨らんだ(といっても平坦に近いが)遥の腹をゆっくりと手でさする。 「このお腹が、かわいいんだよね」 うっとりと呟く湊をよそに、佳奈子と翼は顔を見合わせてやれやれと苦笑した。 やがて起き出してきた遥は、ぽすぽすと軽く腹を叩いて胃の様子を確認し、湊に新たな注文を申しつける。 「麺類…」 「ああ、君は麺が好きだからな。蕎麦か? そうめんかな?」 湊作のドーナツを食べつつ、翼がいつものメニューを挙げる。遥はふるふると首を振った。 「焼きそば…」 「なっ!? そ、そうかい、よほど腹が減ったのだな。ん、何をぼーっとしている、小宮。早く作りたまえ」 「わかってるっての。遥、塩焼きそばでいい?」 ブランケットを畳んだ遥が頷いたのを確認し、湊は手早く調理を始める。その間、空腹でそわそわしている遥に、佳奈子が一口サイズのドーナツを爪楊枝で差し出した。 「はい、遥ちゃん。あーん」 「……ん」 食べ物を前にしては抵抗する気も起きないのか、遥はおとなしく口を開ける。佳奈子は満足げに、ぐっと拳を握った。 「小宮の気持ちがわかったわー。餌付け楽しいもん」 「な、なら私も……」 「焼きそばできたぞー」 翼がスタンバイする前に、湊は焼きそばが盛られた皿を運んでくる。遥が箸を手にして待っていた。 「うう…私もしたかった……餌付け…」 「うっさい黙れ。あっ、遥おいで。食べさせてあげる」 翼に向けたきつい視線をころっと変え、湊がプラスチックのフォークを片手に招いてくる。遥は恥ずかしそうに頭を振った。 「自分で食べる…」 「いいからおいでって、ほら。じゃないと、もうご飯作ってあげないよ」 途端に遥は困ったようにきゅっと眉を寄せ、おずおずと湊のそばに寄り添う。佳奈子が素早く携帯を構えた。 「はい、あーん」 食べやすいようにフォークでくるくると焼きそばを巻き、遥の口元に持っていく。佳奈子たちの前とあって羞恥は拭えないようだったが、きゅるると恨めしげに胃袋が鳴き、仕方なくぱかっと口を開けた。 「ん、いい子。お腹痛くしない程度に、いっぱい食べて」 キャベツや人参などの具材も同じようにして食べさせ、湊は麦茶までストローで飲ませてやる。遥は結局、自らの箸を使わないまま焼きそば一玉をぺろりと食べてしまった。 「そろそろお腹いっぱいになった?」 佳奈子たちが帰り、遥は二度目の夕食を終えていた。時刻は夜九時をまわっている。こんな時間に食べては不摂生なのだが、普段が普段とあって湊は気にしていない様子だ。それに、空腹をぐっと我慢する遥のかわいそうな姿は見ていられない。 「まだ……」 ナポリタンを一皿平らげ、口元を拭いて遥は首を振る。湊は嫌な顔ひとつせず、むしろ上機嫌でキッチンへ立った。 「じゃあリンゴ剥いてあげようか」 遥の好きなリンゴを丸ごと包丁で剥いていると、遥がてくてくとこちらへ歩いてくる。困ったような、泣きそうな顔をしていた。 「……嫌じゃないのか」 「何が?」 リンゴを八等分に切り分けつつ、湊は尋ねる。膨らみかけた腹を手で撫で、遥がため息をついた。 「いつもの……俺じゃないと、気持ち悪いだろ…」 その言葉にぴたりと手を止め、湊はいったん包丁とリンゴをまな板の上に置く。そして遥に向き直り、そっと笑いかけた。 「そんなことないよ。作ったご飯、たくさん食べてもらえるのって嬉しいし。遥も幸せそうに食べててさ、何だかんだで俺、この日が楽しみなんだ」 これが食べたい、と遥からリクエストを受けることは普段ほとんどない。けれど今日は遥からあれこれとおねだりが聞けたし、好きなものを好きなだけ食べさせてあげることができた。食に夢中な遥というのもなかなか新鮮だ。 「……ん」 こくっと頷いた遥は、目が少し潤んでいるように見えた。 切り分けられたリンゴを近づけてみると、シャリッといい音を出してかじられる。 「今日、食べたもの…」 シャクシャクという咀嚼と共に、小さな声が聞こえる。 「全部、……旨かった」 湊はぱちりと目を瞬かせ、やがて嬉しそうに微笑む。 「今度はフルコース作って待ってるよ」 もちろん、デザートはこれで。 湊は驚いた顔の遥を抱き寄せ、リンゴ味のキスを交わした。 *** こんなに極端ではありませんが、うちの弟も凄く食べる日がたまに来ます ↑main ×
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